ep05 普通 -common-
「臭い街だ。ここは」
「ねぇ、早く仕事終わらせようよ」
「当たり前だ」
「ところでさ。ここにいる人みんな──」
無邪気な女の子の眼が禍々しく光り、その鋭利な感情は──。
風下から腐った穀物と鉄のにおいが押し寄せ、油の浮いた水たまりが靴底に薄い膜を貼る。割れた看板が、軋む音だけを細く垂らした。
「殺したらさ、任務達成じゃない?」
道端の布の端切れのような、虚ろな瞳の、人の形の何かに酷く響いて、
端々に悲鳴、嗚咽、狂乱。
ある者は、自らの眼球を、自らで捻りだし。
ある者は、自らで、自らの心臓を穿ち。
膝をついた者の額が石畳に当たり、乾いた音がひとつ。手から滑り落ちた錆びた匙が、地面で小さく跳ねて黙る。
窓の隙間に潜んでいた誰かが、戸の隙間を指一本ぶんだけ狭め、呼吸を止めた。
その鋭利な殺意に。
人は、圧倒的な力の差を見せつけられて。
狂気した。
背を向けた群れは互いにぶつかり、ぶつかった痛みを確かめるように頬を撫で、よろめき、別々の間違った方向へ散っていく。足音は途切れ、砂塵だけが遅れて立った。
「やめろ」
連れの男が言う。
声は低く乾いて、靴の踵で小石をひとつ砕いた。
「えーどうして?」
「確かにそれは名案だ。顔も不鮮明な、男一人と女二人のグループを見つけ出せという命令に、確かに全てを殺してしまえば簡単だ」
「でしょ?」
「人間は次、再生産されるまでに十年はかかる。1年弱の妊娠期間と、一端の労働力になるまでに約10年。殺すのは簡単だが、あまりに非効率が過ぎる」
「いなくなったら連れて来ればいいじゃん」
「それでは奴隷の数は減るばかりだな」
「そっか」
女の子は足先で紙屑を押し、靴底に貼りついた油膜をついと剥がした。
遠くで犬が一度だけ喉を鳴らし、やめた。雲は低く、光は薄く、街の匂いだけが濃かった。
「まぁそれもあれができるまでの辛抱だが」
「あれ?」
「上の連中は人工的に労働力を生産しようとしているらしい。噂だがな」
「そうなんだ。じゃ、殺していいよね」
「話を聞いていたのか?」
「アハハ! ウソウソ! ウソに決まってんじゃん!」
連れの男は溜息をついた。
吐息が粉塵を薄く散らし、日差しの欠片が宙に浮いたまま止まる。靴の踵が砂利を押し、ささやかな音だけが残った。
「さて、仕事だ」
「アハ! さっさと終わらせよ!」
「もちろんだ。……ところで」
「……さて。──そこのボロ布の婆さん。人を探してるんだが、二人組、ないし三人組を知らないか?」
呼びかけは、濁った水面に投げられた小石みたいに、波紋を作らなかった。
布の山がわずかに揺れ、擦れた繊維がすり鉢のように鳴る。
破れの縁から、乾いた皮膚の褐色が覗く。手の甲は骨の節が尖り、指先は凍えを忘れたみたいに感覚が遠い。
ボロ布の婆さん──ヴィナは徐に顔を上げ、そして。
最期を悟った。
瞼の裏に、かつて小屋の屋根を叩いた雨粒の音が、一瞬だけ蘇る。
今、その音はない。金属と腐肉のにおい。舌に砂。
立ち上がるには遅すぎ、伏せるには狭すぎる場所。逃げるための筋肉が、とっくに担保を失っていることを、身体のどこかが知っていた。
女の子は笑った。歯並びは良い。笑みに温度だけがなかった。
男は視線を落とし、ヴィナの足元──裂けた靴からのぞく踵のひび割れを一度だけ確かめて、興味をどこかに置き忘れたように目を上げた。
風が、街の腐臭を撫でていった。
屋根の鋼板は鳴らず、旗の切れ端が一度だけ反転して、また垂れた。
その臭いの中に、彼女の息の跡が溶けた。
膝のそばで小石が転がり、音もなく止まる。拾う者はいない。誰の記憶にも、今の音は残らない。
〇
「……?」
男が不意に顔を上げた。
鼓膜の裏で、街のざわめきが薄皮のように剥がれ落ちていく。
空瓶が転がる乾いた音も、遠くの喧噪も、順番に消えた。
湿った空気が肌にまとわりつく。
鉄と腐肉のにおいが舌の奥で鈍く響き、味覚がざらついた。
クリアの頭上では、光輪が低く唸りを上げる。
「クリア」
「はい」
「……物音が、しなくなった」
「はい」
「何かが起きているのかもしれない」
「外を確認しますか?」
「いや、いい。……イグニス」
嫌な予感というものは、いつだって唐突にやってくる。
的中すれば不幸。外れたなら、それはそれで幸福。
だが、この胸の重さは──外れてくれる気がしなかった。
視線だけで部屋を測る。
歪んだアルミの窓枠、崩れかけた壁、路地へ続く狭い抜け道。
靴底の下で砂粒が擦れ、乾いた音がひとつ。
イグニスの呼吸が浅くなる。
クリアの駆動音が一拍遅れて止まる。
世界の輪郭が、静寂という膜に包まれた。
「……ここを離れよう。嫌な予感がする」
外では、風の音すら止んでいた。
屋根の鋼板は沈黙し、煙の筋が空へ真っすぐに伸びる。
世界そのものが、息を潜めたようだった。
「何か、切羽詰まった──」
その時。
皮膚の産毛が一斉に逆立つ。
戸口の縁で、粉を吹いた漆喰がぱらりと落ちた。
逆光の中、二つの影が重なり、ゆっくりと剥がれていく。
部屋の出入り口に、二人の人間が立っていた。
「みぃつけた!」
「対象を発見」
少女の声は鈴の破片のように高く、透き通っているのに、耳の奥を切り裂いた。
笑顔の形だけを模した無邪気な刃。
隣の影が軍靴の踵で砂を踏み固め、金属の冷たい響きを残す。
空気が一瞬で凍りつく。
壁の埃が、浮かび上がった。
見えない刃が、空気を真っ二つに裂いたみたいに。
次の瞬間、短い破裂音。
視界が白に弾け、頬を掠める熱線が走る。
「ッ……!」
胸骨の奥で鈍い鐘が鳴り、遅れて粉塵が降った。
空気の流れが歪む。
音も、光も、痛みも、全部が一拍遅れて届く。
それでも──。
男は、暴力と接触した。




