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ep04 真心 -devotedly-

「ここは?」

「オルディス。……秩序のない町”オルディス”」

「そうか」


 イグニスが小さく答えた。


「クリア。モービルの充電は持ちそうか?

 可能であれば必要物資を確保したあとは早急に出発したい」

「無理です。太陽光で充電して、大体一週間程度の滞在が必要です」

「そうか。……イグニス」


「……はいっ」


 びくりと肩が震えた。


「すまない。驚かせたつもりはない」

「は、はい。そんなことは、……いやびっくりしましたけど。

 初めて名前で呼ばれた気がします」

「そうか」

「ところで、お名前。

 ──私、二人のお名前、伺っていなかったです」

「あぁ。……クリア」


 男はクリアを見た。


「私の名前はなんだったか」

「マスター。マスターの名前はマスターです」

「あぁいや、そうじゃなくて。

 その主従を現す名刺じゃなくて、固有名詞をだな」

「そういえば記憶喪失でしたね」

「……そういえばって、おい」


「ふふ」

「どうした?」


 微笑んだイグニスに、男は問いかける。


「楽しそうだな、って」

「……そうかもしれないな」

「ところで、お名前」

「私の名前は──」


 男はクリアの方を一瞥した。


「好きに決めてほしい。

 この世界で生きる名だ。もしかしたら、私なんかに相応しい名前もあるかもしれない」

「そうですか。でも、貴方にぴったりな名前なんて」


 うんうんと、イグニスは唸る。

 それからしばらくして、イグニスは手を叩いた。


「難しいです! 悩ましいです。少し考える時間をくれませんか?」

「問題ない。ぜひ、イグニスの答えを聞かせてくれないか?」

「もちろんです!」


「それにしても」


 町に入ってすぐ、男が呟いた。


「カオスという言葉がぴったりだな」

「帰る場所がない人たちの拠り所ですね。

 雨風を防げる建物……といっても廃墟ですけど。

 小さなオアシスがあって、水はどうにか。

 食べ物は……通るキャラバンを襲えば、です」


 イグニスは苦笑を浮かべながら答えた。


 建物は外壁の塗装が剥げ落ち、灰色のコンクリートがむき出しになっている。

 崩落した壁の隙間からは砂が吹き込み、街路は埃と影に覆われていた。


 麻のような布を擦り切れるまで纏った子供たちがそこかしこに座り込んでいる。

 ある者は力の限り両手を伸ばし施しを求め、

 ある者はぐったりと項垂れ、動かない。


 いずれにしても、ろくでもない町だ。

 男は視線をずらしながら、苦笑するイグニスを見た。


「期待しているわけではないが、宿などは」

「あるわけありませんよね?」

「どう一夜を過ごす?」

「物々交換です。他の人たちから寝る場所を間借りするんです」

「そうか」

「そうです」


「あるわけもない、か」

 男は肩を落とした。


「ところで、それで何か交換できそうなものはありますか?」

「クリア?」

「どのようなモノが喜ばれますか?」

「なんでもです。……極端ですけど、水でも喜ばれます」


「悲惨だな。明日を生きるために皆必死だ」

「マスター。旧時代のコインがあります。貨幣価値は分かりませんが、金属はある程度、兌換できるでしょう」

「コインでいいと思いますよ。それで一晩は泊まれます」


 イグニスは小さく息を吐いた。

「……だから、みんな今日だけを生きてるんです」


     〇


「すみません」


 イグニスは硬貨を手に、目の前の白髪頭に深く頭を下げた。

 声はかすれ、埃っぽい空気にすぐ溶けた。


「……なんだい」

「ここ、入っていいですか?」


 白髪頭がゆっくりと動いた。

 艶を失った髪の隙間から、瞳に光を宿さない老婆の顔が覗いた。

 肌は土色で、皺が深く刻まれている。


「好きにしな」

「ありがとうございます。今日はここで雨宿りしましょう」

「そうだな」


 男が短く答える。

 部屋の中は、外よりも静かだった。

 風が割れた窓から吹き込み、古びたカーテンが薄く揺れている。

 油と埃の混じった臭いが、湿った空気に溶けていた。


「……婆さん」

「なんだい?」

「婆さんは独りで暮らしているか?」

「なにそんなこと聞くんさ?」

「いやなに」

「……ふん」


 鼻で笑った老婆を横目に、男は奥のソファーへ視線をやった。


 そこにあった“それ”は、もはや人とは呼べない形だった。

 皮も肉も失われ、ただ骨と布だけが残っている。

 まるで、過去そのものが椅子に座っているようだった。


 服はまだ整っていた。

 生きていたときの姿勢を保ったまま、白骨化したそれが、静かにそこにいる。

 乾いた空気が骨の隙間を抜け、軽い音を立てた。


「若干、いや……初めからか」


「どうしましたか?」と、クリアの声。

「……腐敗した臭いのような何かを、街に入ったときから感じていた」

「奇麗なんて言葉、ありませんから」


「……そうだな」


 男はわずかに目を細めた。

 空気に染みついた“死”の気配。

 それでも、この場所にはわずかな温度が残っているように感じた。


「……婆さん」


 再び、男は老婆へ視線を戻した。


「婆さんの、大切な人の名を聞いてもよいだろうか?」


 沈黙。

 老婆の瞼がゆっくりと閉じ、そして開く。

 その瞳の奥で、遠い過去が光ったように見えた。


「……ダールさね」

「そうか。……婆さんは?」

「ヴィナさ」

「ヴィナ。それに、ダール。……しばらく世話になる」


「好きにしな。どうせ老い先短い独り身さ。

 あの人も、とうにいない。……私も、すぐに行くさ」


 ヴィナは小さく笑い、視線をソファーの“彼”へ向けた。

 笑っているはずなのに、頬の皺が痛みに見えた。


「……感謝する」


 男は短くそう言った。

 その声は、礼というよりも、

 この世界に残る“生”への祈りのように聞こえた。

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