ep03 紋章 -Crest-
風はまだ、血と鉄の匂いを運んでいた。
空は沈んだ灰のまま、夕暮れの色を許さない。
焼けた砂の上で、モービルの機体が冷えていく音が小さく響いた。
「こんな感じの戦い方で問題ないか?」
「はい。問題ありません」
「そうか」
短い言葉が、乾いた空気の中に消えた。
余韻はなかった。ただ、風が返事の代わりをした。
「……あのッ!」
沈黙を破ったのは、赫い瞳の少女──イグニスだった。
声が震えていたのは、恐れではなく、熱の残滓のように思えた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「……どういたしまして」
男の声は平板だった。だが、その響きは決して冷たくはなかった。
彼の中に“情”という言葉が存在するのか、それすら分からない。
「礼には及ばない。……それで。どうして追われていたんだ?」
「……紋無なんです」
「……紋無?」
男は首を傾げる。
答えを求めるように、隣の少女──クリアを見る。
翠玉の瞳が微かに揺れた。
「それは、私の知識にはありません」
「そうか」
風が砂を攫い、灰色の粒が頬を掠めた。
男は再びイグニスへ視線を戻した。
「知らないんですか?」
「残念ながら」
「え、と?」
イグニスは言葉を探すように、赫い瞳を揺らした。
「この世界には、大きく分けて二種類の人がいます。
紋があるか、ないか。
紋を持つ人は紋有。
持たない人は紋無と呼ばれています」
「……どうやって見分けるんだ?」
「体に紋が刻まれている──らしいです」
「らしい?」
「はい。私、紋有に会ったことがなくて。噂です」
「なるほど」
「紋有は選ばれた支配階級。
紋無はその下。
単純で、酷いくらい残酷な構造です」
「だから追われていたのか」
男の言葉に、イグニスは苦笑に似た微笑みを浮かべた。
笑うことを、まだ体が思い出せていないような笑みだった。
「実際はもっと複雑なんです。……あの追ってきた人たちも紋無で。
私と同い年くらいでした」
「は?」
「紋有は、力のある紋無を傭兵として雇うんです。
そして──紋無狩り《クレストレス・ハント》を楽しむんです」
「……下衆な連中だな」
男は短く吐き捨てた。
だが、その言葉の裏にあるものを、イグニスはすぐに察した。
彼が彼らを責めきれないのだと。
彼の眼差しには、戦った者の必死さがまだ焼き付いているように見えた。
「生きるのに、みんな必死なんです。紋無も」
イグニスの言葉は風に混じって、すぐに薄れていった。
その中で、彼女の赫い瞳だけが強く残った。
「……クリア」
「はい」
「旅には、案内人がいた方がいい。
それだけで、安全と安心が増す」
「理に適っています」
「だろう」
「はい」
「よし」
男はイグニスを見た。
その瞳は、光でも闇でもない。
ただ、風景を映す鏡のように静かだった。
「返せるものは何もないが、一緒に来てくれないか?
この辺りに詳しい人がいると助かる」
イグニスの赫い瞳が、大きく揺れた。
その揺らぎは、風ではなく、心の奥のどこかで起きた震えだった。
「……わたしなんかで、いいんですか?」
「もちろんだ」
男は即答した。
その無駄のない返答に、言葉以上の信頼があった。
「旅には案内人が必要だからな。そうだろう、クリア」
「はい。マスターの仰る通りです」
「決まりだ」
「あ、……はい」
伸ばされた男の手を、イグニスはためらいながら取った。
その指先が触れた瞬間、乾いた風が荒野を渡り、砂が舞い上がる。
熱を失った大地の上で、わずかに空気が揺れた。
「歓迎する」
「……はい」
その返事は小さく、震えていた。
けれど確かに、そこには“生”の音があった。
赫い瞳の奥に、微かな光が生まれた。
それは、燃え尽きた灰の中で見つけた──
小さな灯火のように見えた。
〇
──部屋は、静かだった。
蛍光灯の白が、冷え切った机と壁に落ちている。
時計の音も、風の気配もない。
「……そうか」
男は椅子に深く腰を預け、ひとつ息を吐いた。
その吐息でさえ、空気に重さを増した気がした。
「それで?」
対面に立つ兵士がわずかに肩をすくめた。
「は?」
「貴君らは──なぜ目標を眼前にし、目標を捉えずに戻ってきたのだね。
……理由を聞かせてくれるのだろう?」
言葉は静かだった。
だがその静けさが、刃よりも鋭く、肌を刺した。
「……邪魔が入りました」
「邪魔?」
男の眉間に皺が寄る。
報告する者の喉がわずかに鳴った。
「紋無でしたが……自立飛行機を用いて攻撃を。正体は不明です」
「ほう。……それでおめおめと帰ってきたわけか」
「は、追跡用の装備しかなく、交戦は──」
「もういい」
言葉が切り捨てるように放たれる。
それだけで報告者の背筋が折れた。
「……はい」
扉が静かに閉まる。
部屋の中に、再び音がなくなった。
男はゆっくりと通信端末を耳に当てた。
「私です。……足手まといは不要です。理解しましたね?」
『はい。万事滞りなく』
「お願いします」
通信を切る。
しばらくして、外から短い悲鳴が聞こえた。
音は途切れ、そして何事もなかったかのように静寂が戻る。
男は何も表情を変えず、冷めたコーヒーを口に運んだ。
苦味が喉に絡みつく。
彼はそれを味わうように、もう一口飲んだ。
苦味だけが、確かな現実のように感じられた。
「──あの方に、どう説明すればよいのか」
呟きが部屋の隅に消えた。
光が彼の顔を照らし、影が床に落ちる。
男はただ天井を見上げた。
そこに何もないことを、知っているように。




