ep01 住民 -inhabitant-
「世界は、こんなにも……。
言葉には言い表しづらいが、なんだ。
死んでいただろうか」
鉄錆と腐臭を含んだ風が、乾いた地を舐めていく。
灰色の空は沈黙し、瓦礫の影は無数の墓標のように地に突き立っていた。
空気は重く、光は鈍い。まるで世界そのものが息をするのをやめたようだった。
男はその曖昧な記憶を頼りに、
限られた欠片のような記憶を掬い上げようとする。
だが、どうにも噛み合わない。
彼の知る世界と、この景色はあまりに遠い。
世界は、こんなにも死んでいただろうか。
クリアは小さく頷いた。
風に揺れた青髪が、鈍く光を弾く。
「これが世界です」
「そうか……そうか」
その言葉を反芻するように呟きながら、
男は視線を遠くに投げた。
地平線は灰に沈み、どこまでも広がる廃墟の海が揺らめいていた。
「それで俺は、何を──どうすればいい?」
クリアは短く息を飲み、
翠玉の瞳を伏せて言葉を選んだ。
「……もし、記憶を取り戻したいのであれば。
遺跡を巡ることを、おすすめします」
「遺跡?」
「はい」
「そうか。その遺跡は、どこにある?」
「あちらです」
クリアが指さした方角には、
陽炎のように揺らぐ廃墟群が見えた。
崩れた塔、傾いた建造物、
その残骸の間を風が通り抜け、低い唸りを残していく。
「本当にあるのか?」
「もちろんです」
「……そうか」
「そうです」
短いやりとりのあいだ、男の胸には得体の知れぬ焦燥が渦巻いていた。
知らないはずの風景に、なぜか懐かしさが混ざる。
「では行こうか」
「はい。どこまでも、──マスターをお供します」
その返答に、男はわずかに笑った。
だが、その笑みも、すぐに風に攫われて消えた。
〇
クリアは手際よく準備を整えた。
まるで初めから、旅立ちを想定していたかのように。
翌朝。
白んだ空の下、ふたりは出発の準備を終えていた。
「では行こうか」
「はい、マスター」
「ところで、クリア。これは?」
「移動用のモービルです。太陽光で発電できるので、燃料は不要です。
ただし、雨が弱点です」
二輪の古びた乗り物だった。
錆びたフレームには幾度も溶接の跡が走り、
本来は一人乗りの設計を無理やり拡張したように、
側面にはサイドカーが取り付けられている。
男はそこに身を沈め、
クリアは無駄のない動作で二輪を跨いだ。
「では、出発します」
低いモーター音が、静寂の世界に溶けていく。
車輪が軋み、砂を蹴り、荒野に新たな轍を刻む。
いつしか、風がふたりを包み、
灰色の地平をかけるその姿は、
まるで死者の世界に生を刻むようでもあった。
〇
「あれは?」
「マスター。人です」
「……そうか」
灰の空と、土色の大地のあいだ。
そこに、白があった。
風に揺れ、か細く、しかし確かに“生”を帯びた白。
やがて、その白は形を持った。
少女だった。
「クリア」
「はい」
「あの少女は怪我をしているのか?」
「はい。しかし、そこまで重症ではないようです。助けますか? マスター」
男は一瞬、視線を伏せた。
砂にかすむ遠景の少女は、まるで世界そのものの象徴のように見えた。
「あぁ。助けよう」
〇
少女は、荒野を歩いていた。
家族は奪われ、住む場所は追われ、ただ歩くことだけが、彼女に許された最後の行為だった。
理由はもう分からない。
どこへ向かうのかも分からない。
それでも──止まれば、すべてが終わる気がした。
「……はぁ、……ぁ」
乾いた吐息が砂に溶け、消えた。
喉は焼け、肺の奥がひりつく。
それでも足だけは、勝手に前へ進んでいく。
逃げなければならないと、少女は思う。
けれど同時に、何度も、何度も考える。
――もう、終わらせた方が楽なのではないか、と。
声にならないため息が、砂と灰に飲まれていった。
私は、歩いていた。
足裏を刺す石の感触だけが、“まだ生きている”という痛みとして残っている。
砂煙が足首を削り、風が牙のように頬を裂く。
虚ろな瞳。割れた唇。
泥に染まった衣服。血の滲む片腕。
それが、彼女という存在のすべてだった。
(誰か──助けて)
心の奥底で、かすかに音がした。
けれどその声は唇を越えず、砂に吸い込まれた。
もう、誰も答えない。
誰も、いない。
だから歩く。
歩くことだけが、まだ“命令”として残っていた。
〇
だが、その歩みを止める存在が、やがて視界の向こうに現れた。
銀の影。
古びたモービルの輪郭が、陽炎の彼方から滲み出るように浮かび上がる。
風を裂きながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
二人乗り。
手前に座る男の影が、白い陽光を吸い込みながら揺れていた。
男の輪郭は、風の中に溶けている。
それでも、その存在だけは確かに“世界の異物”だった。
少女の疲れた目にも、はっきりと映った。
その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
それが期待なのか、恐怖なのか、
それとも、飢えた希望の残滓なのか──彼女自身にも分からなかった。
モービルはゆっくりと減速し、砂を巻き上げて止まる。
風が二人の間を往復し、乾いた空気をかき乱す。
やがて、低い声が落ちた。
「──大丈夫か」
「……あ」
掠れた声が、唇から零れた。
目の前に、男と女が立っていた。
風下に立つ男は影となり、顔が見えない。
女は白い衣をまとい、翠玉の瞳だけが砂色の世界を弾いていた。
男は無言でサイドカーから降り、
ゆっくりと砂に一歩を刻んだ。
歩幅は小さい。だが、その動きに迷いはない。
彼の視線が少女をなぞる。
傷。泥。震える手。
そのすべてを見てなお、彼の眼差しは穏やかだった。
まるで、そこに“まだ灯っているもの”を確かめるように。
男は砂煙を払いながら、
少女の前で膝を折り、手を差し出した。
その手は汚れていた。
だが、揺らぎはなかった。
少女は、じっとその手を見つめた。
疑念が走り、体がわずかに退く。
だが、後ろに下がる場所などもうない。
風が彼女の髪を掴み、遠い記憶をさらっていく。
──そして、彼女は手を伸ばした。
冷たく、細く、震える指先が、その腕を掴む。
滑り落ちそうになりながらも、確かに掴んだ。
その瞬間、風が止んだ気がした。
砂の世界に、ほんのわずかだが、
“生の音”が戻ってきた。




