ep00 覚醒 -aweke-
それは確かに、
あったかもしれない物語。
それは確かに、
確実に、
誰かに選択を強いてきた物語。
しかし──
そこに至るまでの旅路は、
誰も干渉することのできない時間と、閉ざされた空間と、
そして何よりも、無数の人々の意思と、祈りと、絶望とに支配された、
果てのない物語であった。
風が砂を攫い、記憶は塵となって消える。
それでも──語り部は歩き続けた。
何を目的に、
何を求めて、
彼は、旅を続けるのか。
それはそんな、ひとつの物語。
誰かが語り、誰かが忘れ、誰かがまた拾い上げる、
連綿と続く輪廻のような物語。
だからこそ──
君こそ、必要だ。
静寂の底から声が響く。
思い出せ。
あなたが何者であるかを。
あなたに課せられた使命を。
そして、
あなたがこの世界に再び降り立った理由を。
何もかも、すべてを。
〇
────。
……────ッ。
「……────かッ!」
「お──ですかッ!」
「……お目覚めですか?」
男の、虚ろな視界の端で、
薄い青色の何かが、ゆらりと揺れた。
淡い光の粒が、彼のまつげの奥で弾ける。
耳鳴りのような低い音がまだ世界に残っていた。
「あッ! ようやく意識が──!」
焦りと安堵の入り混じった声。
視界が少しずつ焦点を結び、
そこに映ったのは、長く細い青の髪と、
翠玉の瞳をもつ少女の顔だった。
「……お、れは、ッ!」
「あッ! まだ動いてはいけません、マスター!」
両腕に、何本もの留置針が刺さっている。
まるで見えない糸で縫い止められたかのように、
その体は、自分のものではないようだった。
指先を動かそうとしても、重い。
痛みもない。だが確かに“違和感”だけが残る。
首を少し傾けると、硬質な光沢を放つ管が、
腕から、胸から、無数に伸びているのが見えた。
まるで機械仕掛けの繭のようだった。
「マスター! 少しお待ちください。麻酔を打ちます。大丈夫、少しの痛みも、これなら耐えられます」
少女は言うが早いか、手際よく注射針を突き刺した。
無機質な音。
冷たい薬液が体内を走る感覚。
「これで少し安静にしていてください。そうすれば、マスターは以前のように動けるようになります」
「……そ、うか」
「はい」
男は息を吸い込もうとしたが、喉がかすれた。
口の中が乾いて、空気が鉄の味をしていた。
「と、ころで」
「マスター?」
「ここは……どこ、だ?」
「ここは──」
少女は短く息を呑み、そして微笑んだ。
「安全なところです。マスター」
翠玉の瞳が、わずかに翳る。
その笑みには、どこか“訓練された”ようなぎこちなさがあった。
「マスターは少し休んでください。
すぐに、以前のように──」
「……あぁ。──ところで、君は、俺は君の……ことが誰だか。
いや、それよりも。俺は誰だ?」
少女の表情が強ばった。
「──ッ! 私は、クリア。マスターの従者、クリアです。
そしてマスター、あなたは……マスターです。
すみません、それ以上は……。
私は、あなたを支えるために在る。それだけは確かです。信じてください」
「……そうか」
男は小さく息を漏らし、重い瞼を閉じた。
〇
やがて体の感覚が戻り、彼は身を起こした。
金属と白光に包まれた室内。
漂うのは、消毒液の匂いと、機械の微かな唸り。
壁も床も天井も、同じ白。
装飾も、生活の気配も、まるでない。
それは病室であり、同時に“何かを作り出す場所”のようでもあった。
白衣の少女──クリアが、慎ましく微笑む。
その瞳に映るのは、ただ一人、男だけ。
「俺は、立てるのか?」
「支えます。マスター、手を」
「あぁ」
彼は、その小さな手を取った。
手は冷たく、しかし確かに“生きている”。
「外に出よう」
「はい。……無理はしないでください」
「……あぁ」
ふたりは歩き出した。
廊下は果てしなく続き、白壁に淡い照明が無音で流れていく。
足音だけが、この世界の存在を確かめるように響いた。
「俺は──」
「マスター?」
「何をすればいい?」
「いずれ、分かります。マスター」
その言葉に、わずかな寂しさが滲んだ。
「着きました。ここです」
彼女が立ち止まり、前方を示す。
鋼鉄の扉が、沈黙のまま二人を拒むようにそびえていた。
「この先に、世界が広がっています」
「……開けられるのか?」
「問題ありません。酸素濃度も気温も、人の生存条件を満たしています」
「そうか。なら頼む」
「はい。……マスターのこの先に、幸運が訪れることを」
「……なんだ?」
「ただの、おまじないです」
クリアの指が制御盤に触れた瞬間、
重い音が空気を震わせた。
長い眠りを破るように、扉が動き出す。
そこから流れ込んだのは、
錆と腐敗の匂いを孕んだ冷たい風。
その風に触れた瞬間、
男の記憶の奥で、何かがざらりと音を立てた。
扉が開く。
眼下には、灰色の大地と、崩れ落ちた都市の残骸。
生命の気配はなく、ただ風だけが世界を撫でていた。
「──マスターが、これから歩む世界です」
少女の声は、静かだった。
けれど、その声には確かな温度があった。




