第九話 星紛い
三日月家。現代では珍しい剣士の家系。
そこでの生活は、まあそれなりに大変だった。
剣の稽古は毎日あるし、斬った張ったの戦闘というのはシンプルにストレスだった。
毎日何とかやっていくので精一杯で、日常を謳歌しようなんて余裕は少しも無かった。
だから僕は、涼しい顔で青春を過ごす姉が嫌いだった。
姉は眼鏡でも矯正しようがないほどの弱視。
盲目一歩手前の身ながら、剣士としての腕は怪物級。
僕が命懸けでこなす任務を片手間に片付け、いつも返り血一つ浴びずに帰って来る。
そして、「今日は二時間目からかぁ~」なんて言葉を吐きながら、学校へと出かけていくのだ。
そんな余裕の態度が、圧倒的な強者故の緩み切った笑顔が、普通の女子高生のように振舞う気楽さが、僕にはひどく傲慢に見えていた。
「ねえ、裁架。お姉ちゃん部活で絵描いたんだー。明日持って帰ってくるから、裁架にも見せてあげるよ」
興味無い。
そうとだけ返して、僕は自室へと戻った。
とにかく疲れていて、姉に構うのも億劫だった。
早く部屋に戻って眠って疲れを取らないと、そうしないと明日の戦いで自分は死ぬかもしれない。
三日月裁架は姉のような絶対的強者ではないのだから。
だから、姉の絵なんて興味無いし、見てやる必要も意味も無い。
この理不尽なまでに強い女が、学校でどんなお気楽な毎日を過ごしてるかなんて、どうだって良い。
お前の日常なんて無価値だと、見る価値なんて無いと。
そうして、姉が見せようとした何かを、最後まで見なかった僕は――――
***
裁架の脇腹に突き刺さる綺羅の短刀。
そのまま深々と食い込むかに思われた短刀だが、裁架は咄嗟に綺羅を蹴り上げ、その刃が内臓にまで届くことを防いだ。
(クソっ! なんで動ける!? とっくに致命傷だろ!)
裁架に蹴り飛ばされた綺羅は、乱暴に投げられたゴミみたいに転がる。
受け身さえ取れずに床を転がった綺羅は、滅茶苦茶なモーションで起き上がり、再び走り出す。
人体の可動域も限界値も無視した不格好な動きで、光と化して少女は疾走する。
彗星のように光の尾を残しながら、自分へと襲い来る綺羅の姿が、裁架にはひどく哀れで恐ろしく見えた。
振り下ろされた短刀を剣で弾きつつ、裁架は歪な笑みを浮かべた綺羅を見据える。
(ここに来て速度が上がってる。……いや、上がってるだけだ。むしろ動きが単調になった分、捌きやすい。傷を負ったのは僕のミスだけど、あっちの方がよっぽど重傷だ。何一つ不利になってない)
裁架の分析には、驕りも過信も無い。
ただ純然たる事実として、自分が優勢であると確信している。
その認識が正確であればあるほどに、未だに向かって来る綺羅の痛々しさが募る。
「何一つ有利じゃないと、どうして理解できない?」
一閃。
それは伐空ではない。
ただの基礎的な剣術。直線的な動きで向かって来る相手に、横薙ぎのカウンターを合わせるだけの、初心者向けの教本通りの一撃。
基礎中の基礎の斬撃を以て、裁架は綺羅の短刀を打ち据える。
あまりにも軽微な手応え。裁架の一撃は綺羅を後方に吹っ飛ばし、ガラス張りの壁面に叩きつける。
(軽すぎる。後ろに跳ばれたか? いや、今のあいつにそこまでの余力は――――)
流石に軽すぎる手応えに、裁架は綺羅がインパクトの瞬間に後方へ跳んで衝撃を殺したのだと錯覚する。
そんな技術で身を守れているはずがないことは、血だらけで床に落ちる綺羅の姿が証明していた。
ガラス張りの壁にべったりと付着した血液。その下には、満身創痍で倒れる少女の姿だけがある。
「……痛い。痛いよ。……あ、入れ直さなきゃ、光速躯体……」
ここまでの戦闘で、綺羅は光速躯体の起動と同時に移動を開始していた。
光速躯体の速度を最大限活かすため、体に染みついた習慣。
限界まで擦り減った肉体と精神は、殺し屋として身に着けた習慣さえ忘れさせる。
故に、剣士は初めて目撃することになる。
綺羅が刻印術式を起動する、その瞬間を。
「お前、それ――――」
這いつくばったまま、ボロボロと表面が崩れて光の粒になっていく綺羅の肉体。
綺羅は光を纏っていたのではない。
自らの肉体を切り崩して、光へと変えていたのだ。
星のような光を漏出させながら、よろよろと立ち上がる綺羅。体の一部を光として零しながら立つ少女は、緩やかに自壊へと向かっている。
「ああ、痛い。痛いなぁ……」
術式、光速躯体。
その効果は質量を速度へと変換すること。
肉体の一部を光の粒子に変換して纏うことで、自身の肉体を加速させる。
切り崩す肉体の量を増やせば増やすほど速度は上昇するが、光粒への変換による肉体の損失は、術式の使用後もダメージとして残る。
つまる所、自傷を対価とした加速の術式である。
――――……私の術式は光速躯体。七鉈家で私だけが使える、私だけの魔術
裁架は綺羅の言葉を想起する。
――――君を殺すためのカードなんて、これ一枚で十分だから
あれは強がりだったんだな、と。
ふと、そんなことを、裁架は考えていた。
光速躯体だけで十分だったわけがない。光速躯体しか無かったのだ。
自分の体を切り刻んで売り出すような術式を、そんな痛ましい輝きだけが、彼女に与えられた唯一のカード。
たった一枚のジョーカーに縋って、これ一枚で十分だと嘯いていただけなのだ。
「こんなに痛めば、勝てるよね」
少女が床を蹴る。
それは彼女の最高速度。
激痛と自傷を代償にして手に入れた、星のような輝き。
誰よりも速い彗星で、何よりも強い隕石で、世界で一番綺麗な一番星だと、少女が錯覚したもの。
星紛いの高速を以て突き出された短刀は――――
「勝てるわけ、ないだろ……」
あまりにもあっさりと、裁架の剣に弾き返された。
「勝てるわけが、ないだろう……!」
何度も裁架へと接近しては、短刀を弾かれ続ける綺羅。
裁架が翻す剣は悉く、綺羅が振るう短刀を打ち返す。まるで、壊れたメトロノーム。毎度のように弾き飛ばされる綺羅は、幾度も床を転がり、壁に体を打ち付け、肉体を光粒に変える。
自壊するほどに上昇する綺羅の速度。しかし、どれだけスピードを上げても、何度剣士に向かって行こうとも、綺羅の攻撃が彼女を捉える気配は無い。
(意味が無いんだ。御し切れないスピードなんて。光速躯体の速さに、あいつの脳味噌がついていけてない。予め決めておいた動きをなぞるだけ。こっちはタイミングを合わせて打ち返すだけで良い。一生、あいつの刃が僕に届くことはない。……体が消えて無くなるまで、続けるつもりなのか)
衝撃の強さは、速度と質量の乗算によって導かれる。
光速躯体でどれだけスピードを上げようと、その分軽くなるのだから、衝撃の強さは変化しない。
綺羅の短刀が裁架の剣を弾くことはない。スピードに振り回されるばかりの単調な動きでは、どんな高速だろうと、裁架にはタイミングを読まれる。
何度打ち込んでも弾かれる。どんなに攻めても受け切られる。
光速躯体による自壊が綺羅を完全に食い潰すまで、この戦いが終わることはない。
「やめろ」
迫り来る星を容易く弾き返しながら、裁架は願った。
「もう、やめろ」
何度も何度も打ち返す。
疾走と墜落を繰り返す無謀な星を、何かの作業のように淡々と打ち返す。
血だらけの体から光を漏出しながら、裁架へと肉薄する少女の顔は、ひどく歪な泣き笑いだった。
「もうやめろって、言ってるだろ!」
気付けば、喉を枯らして叫んでいた。
ただ無為に傷付いていく目の前の少女を、裁架は見ていられなかったのだ。
「早くその術式を解け! お前がどんなに速さを上げたって、僕には絶対届かないんだ! 分かるだろ!? 死ぬしかないんだよ! ここに来てしまった時点で! 北神望人の護衛なんてやらされた時点で! お前は終わってたんだ! 死ぬ意外無いと決まってたんだよ!」
絶叫じみた声を振り絞り、裁架は未だ疾駆を止めない星に呼びかける。
もう止まってくれと。これ以上、意味も無く傷付かないでくれと。自分の身の程と運命を受け入れて、少しでも楽な方を選んでくれと。
「だから、もう……!」
護衛任務なんて投げ出して、早く痛みから解放されてほしいと思ったのだ。
弱くて脆い彼女はきっと、こんな世界で生きていけはしないのだから。
「せめて、安らかに終わってくれ……っ!」
裁架が振り抜く剣の一撃。
短刀を弾く、という何度も繰り返された工程が、遂に致命の一閃と化す。
綺羅の短刀が砕けたのだ。
一度衝撃で吹っ飛ばされた綺羅は、ほとんど無意識の内に、着地と共に懐を探った。
そして気付く。手持ちの短刀を、既に使い切っていることに。
「武器は売り切れか。……もう良い。術式を解け。最期くらい、そんな自傷行為はしなくて良いだろ」
得物を全て砕かれた綺羅は、呆然と立ち尽くしていた。
血塗れで傷だらけ。疲労と激痛で崩れ落ちそうな身体は、ギリギリの所で二本の足で立っている。
既に満身創痍の肉体から、漏出する光だけが止まらない。
悪魔に取り憑かれた魔女のように、綺羅は光速躯体だけを維持していた。
「ダメだよ。解いちゃ」
ただ、輝いている。
痛ましい傷を隠すように、血みどろの肌を覆うように、淡い燐光を纏って綺羅は立っている。
まるで星明りのような美しい輝き。けれど、それは自分自身を削る痛みの上に成り立つ表層に過ぎない。
痛みを代償にして輝く偽りの光。身を削ることでやっと輝ける星紛い。
それが、七鉈綺羅だった。
「光が無いと、私……誰も見てくれない」
裁架は静かに剣を構えた。
狙うは目の前の少女。光の白と血の赤が混じり合った、壊れた人形のような殺し屋。
自身を解体するような光でしか、自分を主張できなかった憐れな女の子。
その苦痛に満ちた人生を、伐空にて断ち切る。
そうして、振り抜かれるはずだった刃は――――
「綺羅!」
少年の声によって、止まることとなる。
裁架は振り向く。振り向かざるを得ない。その声が、彼の存在が、少しでも知覚できてしまったならば。
少し考えれば分かったはずだ。
戦闘能力の無い彼が、のうのうと裁架の前に現れた理由。
少し考える前に体が動いてしまうほど、北神望人という存在が、裁架の中では大きかったというだけ。
彼の絵に奪われ、抉られ、壊された。
殺意を以て、彼に視線を向けずにはいられない。
振り向きざまに伐空を放とうとしたその瞬間、剣士は目撃する。
「お前、ニルを見たわな」
群青の髪をした精霊。
その黄金の瞳を。
「――――――――ぁ」
裁架の視点がぐらつく。
淀んだ視界は虹色の濁流に押し流され、頭の中がぐちゃぐちゃの絵の具に染め上げられる。
「最上級の精神混濁。醒めない酔いと悪夢のフルコース。永遠に抜け出せないトラウマの中で、魘されながら眠るわな」
掌から剣の柄が零れ落ち、放られた刀身が宙を泳ぐ。
強制的に瞼が落ちて、浮遊感に包まれた肉体は空中に溶け出していくみたい。
精神の部屋に囚われていく裁架。
その耳が最後に捉えたのは、手からすり抜けた剣が、床に落ちる音だった。




