第四話 寝坊
案内された北神の家は無人だった。
裕福な家族が暮らしていけそうなほど綺麗で広い一軒家に、北神は一人で住んでいるのだと言う。
家族については訊かなかった。
私も家の話をされるのは好きじゃないから。
「何か食べる?」
北神の問いに私が首を縦に振ると、彼は簡単な夕食を振舞ってくれた。
夕食と言っても、本当に簡単なもの。冷凍ご飯をレンジでチンして、インスタントのお茶漬けにしたのと、ミネストローネの野菜スープ。
手の込んだ料理とは言えない。良く言えば家庭的な料理。
テーブルの周りに並べられた三つの椅子。その内の一つに座った私は、ミネストローネのスープを啜った。
「あったかい……」
不意に漏れた言葉は、無意識のもの。
ただ、気付けば、そんな感想を口にしてしまっていた。
誰かの手料理なんて食べたことが無かったから、こんなにも間の抜けた声を零してしまったのだろうか。
「出来立てだからね」
薄く微笑んだ北神は、私の向かいの椅子に座る。
彼のすぐ目前に置かれたのは、ミネストローネスープだけ。自分のお茶漬けは作らなかった所を見るに、彼はもう夕食を済ませているのかもしれない。
自分は既に終えた夕食を、また私のために作ったのだろうか。
そんな二度手間を、私だけのために――――
「それじゃあ、俺はお風呂入って寝るから。食器は台所に置いといて。空いてる部屋は好きに使って良いよ」
いつの間にかスープを飲み干した北神は、お風呂場の方へと消えていく。
私一人だけになったリビングで、私は意味も無く辺りを見回した。
大きなテーブルと三つの椅子。一人暮らしをしているはずの北神の家に、三つも椅子があるのは、一体何の名残なのだろう。
昔は、この家にも北神の家族がいたのだろうか。
「お互い、まともな家じゃないってわけね」
意味も無く、そんなことを呟いた。
愛情深い家庭なんて、私も北神も持っていない。
無条件で自分のことを気にかけてくれるパパやママなんて、御伽噺の中でしか見たことがない。
北神もそういう人生を生きてきたと言うのなら、何となく、仲良くやれる気がした。
うん、きっとそうだ。だって、悪魔の絵を描くような人間に、まともな家族関係なんて築けるはずがない。
北神だって、きっと私と同じ。誰にも愛されてない。見られてない。
そんな人間のはずだから――――
自分でも気付かない内に緩み切っていた意識。
誰かの手を握って、誰かの料理を食べる。
初めて知った日常に毒されて、私は殺し屋としての自分を忘れてしまった。
まるで、ただの女の子みたいに眠りに落ちる。椅子に座ったまま、テーブルに置いた両腕に額を乗せて。
暖かい眠りに落ちていった。
***
いつも、夢を見る。
幼い頃の夢。牢獄みたいな施設の中で、殺しの術を教えられた日々の夢。
技を覚えて、覚えて、覚えて。覚えられなければ殴られて。
次第に厳しくなっていく訓練の中、ついていけない者から死んでいった。
出来損ないは殺された。ドベの子から処刑された。脱落とはそれ即ち、死を意味する場所だった。
どうして私が生き残れたのか、今でも不思議なくらい過酷な環境だった。
やがて、戦力としてそれなりと判断された私は、殺し屋の仕事を与えられるようになった。
仕事の種類は多岐に渡る。夜道で一般人を襲うだけで良いこともあれば、銃弾飛び交う戦場の最前線に立たされたこともある。
とにかく、たくさん殺した。何十、何百、何千と、数え切れないほどの人を殺した。
悪党を殺し、聖人を殺し、大人を殺し、子供を殺し、男を殺し、女を殺し。
喉を掻っ切り、心臓を貫き、舌を引き抜き、腹を掻っ捌き、頭蓋を砕き、胴体を穿ち。
殺して、殺して、殺して、殺して。
何もかも殺し尽くしたその先で、きっと、誰かに褒めてもらえると――――
「――――っ!」
赤い夢から目が覚める。
鮮血に微睡んでいた意識は、急激に日常の風景へと溶け込んでいく。
深呼吸をして周りを見渡せば、北神家のリビングが目に映る。
私は座ったまま眠ってしまっていたらしかった。
肩にかかっている毛布は、眠っている間に北神がかけてくれたのだろうか。
「今、何時……」
本能的に時計を探す。
時間を忘れて眠りこけていただなんて、七鉈家の殺し屋にあるまじき失態だ。事実、私が寝ている間に北神が襲撃されていれば、彼は命を落とし護衛任務は失敗に終わっていた。
周囲の気配に気を配りつつ、浅く休眠を取る。
そんな殺し屋として基本技術さえ、私は忘れてしまったのか。
「もうそろそろ十時だよ。遅かったね」
キッチンから顔を出した北神が、そんな風に時刻を知らせてくれる。
この光景が見られるのは、単に間が良かったからに過ぎない。昨夜はたまたま敵が仕掛けてこなかったという偶然だけが、彼の命を繋いだのだ。
「っ、ごめん、私、寝てて……」
口に含んだ言の葉はひどく乾いていて、焦燥感に満ちていた。
言い訳じみた謝罪を吐き出すことでしか、崩れそうな精神を保てない。
失敗した。ただそれだけの事実で、私の脳は罰せられる痛みを幻視する。あの監獄のような施設の中で、何かを間違う度に殴られた記憶がフラッシュバックする。
失態には罰を。過ちには痛みを。たった一つの間違いに、千の暴力を以て報いる。
そんな記憶の残滓を――――
「? 良いんじゃない? 今日学校無いし。多分疲れてたんだよ」
一笑に付すような気軽さで、北神はそんな台詞を言ってのけた。
心の底から疑問に思っているような口調で、北神は私の失態を赦した。
赦すだなんて意識すら、今の彼にはきっと無い。
ただ、それが普通であるとばかりに、私を責めなかった。
疲れてた。そんな些細な論理一つで、私のことを赦して慮ってくれる。
普通って、こういうことなんだろうか。
「朝ご飯ラップしてあるから、温めて食べて。俺、ちょっと出かけるから」
見れば、机の上には朝食の皿がラップをかけられていた。
味噌汁と目玉焼きと白米。如何にも朝食と言ったメニューが、私の前に並んでいる。
「出かけるって、どこに?」
朝食は美味しそうだったが、それよりも重要なことを北神は言っていた。
私としては、護衛対象である北神を勝手に出かけさせるわけにはいかない。
「画材、買いに行こうと思って」
一瞬、思考が止まった。
描く、というのか。
絵を、描くというのか。
私が唖然としている内に、北神はリュックを背負って玄関に向かっている。
「待って」
私が声をかけると、北神はキョトンとした顔で振り返った。
「えっと……私も行くから。護衛が護衛対象から離れちゃダメでしょ」
かけるべき言葉が見当たらなくて、私はそんな正論を口にした。
きっと私は臆してしまったのだ。
あまりに澄んだ瞳で画材を買いに行くという彼に、絵画は危険な代物ではないかと問うことができなかった。
それは、北神望人の心臓にも等しい何かだったから。




