第二十三話 君を描いて
少し、時を遡る。
月曜日の放課後、綺羅が教室でクラスメイトに捕まっていた時の話。
北神はいつもと同じように、部室で一枚の絵を描いていた。
否、いつもと同じではなかった。
普段は血の通わない彫刻のような様相で筆を走らせる北神だが、今日の彼には生命力のようなものが感じられた。
「随分、楽しそうだわな」
精霊が尋ねた。
「そうかな」
「お前がそんな顔をするのは、ミナミがいた時以来だわな」
静かな部室。白く塗り固められたアトリエで、一人の画家と一体の精霊は、昨年の日々を回想していた。
まだ、三日月南視が美術部に所属していた頃の日々。
北神と南視とノルニル。この白いアトリエで過ごした、色とりどりの日々の記憶。
「ニルは精霊。お前の絵を見ることはできても、お前と同じ立場に立つことはできないわな。ニルとお前じゃ、存在としてのスケールが違いすぎるわな。ニルはお前に人間関係を与えてやれなかったわな」
ノルニルは人のような姿をしているが、決定的に人ではない。
どう足掻いても、北神と対等な関係は結べない。
異性愛者が同性の人物に恋ができないように、人間が蟻と友達になれないように、無機物と家族にはなれないように、それは不可能なことなのだ。
「だから、ミナミだけがお前の絵を直視できる人間だったわな。ほとんど目が見えないミナミだけが」
滔々と語るノルニルの話を、北神は穏やかな表情で聞いている。
全て、過ぎ去った過去の話だ。
かつては、南視だけが北神の絵を見ることができた。
極度の弱視である彼女だけが、洗導絵画による精神異常を逃れて、北神の描いた絵を鑑賞することができたのだ。
無論、彼女に見えていたのは、何となくの色彩だけ。
ぼんやりとした色の集合体ではあったが、どこか調和した形を保つそれらを見るのは、南視にとっても新鮮な体験だった。
視覚情報で南視を感動させるには北神並みの絵の腕が必要で、自分の絵を見てほしいという北神の欲求を満たすには南視並みの弱視が必須だった。
「洗導絵画はただ上手すぎるだけの絵。見た者の精神に異常を起こすほど、人の心を動かす絵というだけだわな」
北神に魔術は扱えない。特殊な血筋や種族でもない。何らかの異能も持っていない。
彼はただ絵が上手かっただけ。異常なまでに絵画の才能に恵まれ、その才能を幼くして磨き上げてしまっただけの一般人。
洗導絵画の仕組みに、魔術や魔力は一切介在しない。
悪魔の絵が引き起こす記憶喪失も、思考能力の簒奪も、絵の鑑賞によってあまりに強く揺さぶられた精神が、肉体にも影響を及ぼしてしまったに過ぎない。
例えるなら、感動的な恋愛小説を読んで涙が流れ、ド派手なアクション映画の演出に思わず鳥肌が立つのと同じ現象。
そんな一般的な感動の延長線上で、悪魔の絵画は人を狂わせる。
「あの一年で、お前は相当腕を上げたわな」
美術部で南視と出会った北神は、画家として加速度的に成長していった。
絵を見てくれる誰かがいる。ただそれだけのことが、北神に何枚もの絵を描かせ、彼の技術を飛躍的に向上させた。
彼の成長を正しく認識できるのは、ノルニルが人間を超越した視点を持っているからだ。
常人からすれば、理解のしようがない。富士山がエベレストに変わってとしても、どちらも果てしなく高い山としか認識できないだろう。
「その結果生まれた絵が、ほとんど目が見えない人間の心も揺さぶるほどに」
皮肉な結末だった。
北神の画力が異様に向上した結果、彼の絵は弱視の人間でもその芸術性に心を打たれるほどの出来になってしまった。
彼の絵画を目にした南視は記憶を喪失。
にこやかな三日月先輩は世界から消え去り、天才剣士三日月南視だけが世界に残った。
かくして、北神望人は憧れの先輩との繋がりを失ったのだ。
「運が良かったよ。記憶喪失で済んだ。父さんと母さんのことを思えば、もっと酷いことになっても可笑しくなかった」
ノルニルの昔話に、北神はどこか諦めたような声音で言った。
静かな諦念を孕んだ声を聞き、ノルニルも金色の瞳を僅かに細める。
過去を懐かしむ両者の間には、居心地の良い沈黙が流れていた。
「だから、アレを見せなかったわな?」
十数秒の間を置いて、ノルニルは壁にかかった黒いカーテンを指差した。
額縁に飾った絵を覆うように垂れ下がる、光を通さぬ真っ黒な布。
その奥に隠された絵画の正体は、北神とノルニルの間で共有されている。
美術部に入ってからの北神が、描いた後に処分することのなかった、唯一の洗導絵画。
「俺には先輩が必要でも、先輩に俺は必要無いから」
とある絵画を部室の額縁に封印する理由を、北神は寂しげに吐き出した。
それは、北神望人という画家の終わりを表している。
これから先、北神が描く絵を見ることのできる人間は永遠に現れないだろう。
ノルニルと契約できるほどの画才を持ちながら、北神がその才能を披露する機会は一度も与えられない。
同時代のあらゆる芸術家を凌駕するほどの才覚を持ちながら、それは誰にも認識されることなく、北神はただの一般人として朽ちてゆく。
もう二度と、北神の絵が完成することは無い。
絵とは、誰かに見てもらって初めて、完成を迎えるものだから。
「でも、少し寂しいな。今回のは結構良く描けたんだけど。もう、誰にも見てもらえないんだ」
そう言って、北神は筆を置いた。
パレットの上に乗せられた筆先は、綺麗なスカイブルーに染まっている。
ノルニルは北神が座る椅子の背後まで回り込み、北神が描き上げた絵を目にした。
「珍しいわな。お前が人物画を描くのも、自分の絵が良く出来たって言うのも」
「初心に戻ったんだ。……子供の頃は、何も考えずに描きたいものだけを描いてた。今日は少しだけ、昔みたいに描けた気がする」
出来上がった絵を見渡して、北神は「背景をもう少しいじろうかな」なんて呟いている。
確かに、その顔は純粋に絵を楽しむ少年のそれだった。
ただ絵を描くのが楽しくて仕方なかった頃の、幼く自由だった北神が、そこにはいた。
「こんなに楽しかったんだな。今まで忘れてた。絵の具とキャンパスだけで、見たい景色を再現できる」
それは、北神が見たかった景色。
星のような少女と出会ってからの三日間、心のどこかで願っていた風景。
「ノルニル、俺はね――――」
彼が口にした願いは、キャンパスの中に描かれていた。
どんな言葉よりも雄弁に、美しい絵画が語っていたのだ。
***
南視の蹴りによって吹っ飛ばされた綺羅。
彼女は部室棟の壁を突き破り、そのまま美術部の部室へと転がり込んだ。
「ハァ、ハァ……」
床に両手をつき、粗い息を整える綺羅。
ネトゥリエムの治癒魔術は傷こそ治るが、体に蓄積した疲労までは取り除けない。
光速躯体を今までに無いほどフルに活用した綺羅の身体は、度重なる自傷と再生によって多大な疲労を溜め込んでいた。
(早く。早く戻らないと。裁架はやられてた。戻って、北神を守らないと――――)
戻らなければならないと、頭では分かっている。
それでも、体力を極限まで使い果たした肉体が、どうしようもなく休息を求めていた。
もう何もかも忘れて、このまま眠ってしまいたい。
そんな衝動に駆られる本能を抑えつけ、綺羅は体を動かす。指先一つ動かすだけで、疲弊し切った体は悲鳴を上げた。
それでも立ち上がろうと、何とか立ち上がろうと持ち上げた視線。
その碧眼に映ったのは、椅子の前に放置されたキャンバス。
白い部室の中に存在する、たった一つの色彩。夜空に浮かぶ一等星みたいな、見惚れるほどに綺麗な輝き。
「―――――――――あ」
そこに描かれていたのは綺羅自身だった。
月曜日、北神が描いた一人の少女。それは、他ならぬ七鉈綺羅だった。
一枚の絵の中で、綺羅は教室で席に座っていた。
着ているのは、北神が通う高校の制服。座っているのは窓際の席なのか、背景には雄大な青空が窓枠で切り取られている。
プラチナブロンドの髪とスカイブルーのインナーカラー。素朴な色遣いの教室と派手な綺羅の髪色。一見相容れない二種類の色彩は、不思議とキャンバスの中でよく調和している。
何より、絵の中の綺羅は笑っていた。
暖かな日常の中、満面の笑みを浮かべていたのだ。
「…………あーもう、何それ」
絞り出した声は震えていた。
涙腺は潤んで、今にも泣き出してしまいそうだ。
決壊しそうな感情が巡る脳内、綺羅はノルニルの言葉を想起していた。
――――キタガミはずっと、お前のことを見てたわな
どうして、今まで気付かなかったのか。
きっと全部北神のせいだ。
いつもぼんやりとした顔をして、肝心なことは口にしないのだから。
(見てくれてたんだ。ずっと、私のこと)
ずっと、独りだと思っていた。
誰も自分を見てくれない。誰も七鉈綺羅を認めてくれない。
どれだけ肉体を削ろうと、どれだけの光を身体に纏おうと、その輝きはどこにも届かない。
必死に光るだけ無駄なのに、光を捨てられない馬鹿な殺し屋。
誰の目にも留まらない七等星。
そんな自己定義を塗り替えるほどに、その絵画は声高に主張する。
これを描いた少年が誰を見ていたのか。この風景を描き出した画家が、何を願っていたのか。
どんな言葉よりも雄弁に、美しい絵画が語っている。
「ありがとう、北神」
笑ってほしいと。
ごく普通の青春を過ごして、思い切り笑ってほしいのだと。
みんなに囲まれて、誰もに存在を認められる日々の中、君に笑ってほしいのだと。
そう、洗導絵画が語っている。
「私、頑張るよ」
少女が立ち上がる。
疲労は無い。彼女の体を縛り付ける重荷は、一枚の絵画が洗い流してくれた。
夜の学校、眩い星が駆けた。




