第二話 ボーイ・ミーツ・キラー
すっかり日も暮れた帰り道、俺とノルニルは並んで夜道を歩いていた。
「ポテコ美味しかったわな。キタガミも家でポテコ作れるようになんないわな?」
「ポテト手作りかぁ。今度やってみようかな。マックほど美味しくはできないと思うけど」
「やったわな」
ノルニルは無表情のまま、両手を高く振り上げる。
何とも気の抜けたガッツポーズだが、これはノルニルにとって最大級の喜びを表すポーズだ。
「眠くなってきたから戻るわな。明日も同じくらいの時間に出て来るわな」
「了解。明日は土曜日だし、もっと早く出て来ても良いよ」
「気分で決めるわな」
そう言うと、ノルニルはふっと姿を消した。
まるで初めから存在しなかったかのように、群青の髪も黒のドレスも消え失せる。
幼い少女の姿をした精霊は、明日の約束だけを残して消失した。
ノルニルは一日のほとんどを俺の精神世界で過ごしている。
俺は自分の精神内のノルニルを知覚することはできないし、ノルニルも俺を通して外界を認識することはできない。
ノルニル曰く、俺の精神世界はひどく単調な所で、寝る以外にすることが無いのだとか。
一日の大半を休眠状態で過ごす必要のあるノルニルには、それはそれで都合は良いらしいが。
「消えてるような、ものだよな」
ノルニルが俺の中にいると言われても、俺には上手いこと実感が得られない。
俺にとってノルニルは、いつも心の内側にいる存在などではなく、気紛れにふらっと現れる友人だ。
いつでも一緒にいるわけじゃないけれど、結構な頻度で会っていて。
一生を共にするほどの絆は無いけれど、なんだかんだ死ぬまで一緒なんじゃないかと思えるくらいに仲は良い。
精々、学校帰りにマックを食べるくらいの、適度な距離間の隣人。
「でも、起きてる間はこっちの声も聞こえてるみたいだし」
精神世界にいるノルニルと俺の繋がりは希薄だが、呼びかける方法が皆無というわけではない。
心の中で俺がノルニルに声をかければ、一応聞こえはするらしい。
無論、精神世界内でノルニルが休眠状態に入っていれば意味は無いし、ノルニルからの返答は俺に届かない。
緊急時の呼び出し程度にしか使えない一方的なコミュニケーションツールだ。
今。
それを。
「…………剣?」
使わなければならないのではないかと、俺は考え始めていた。
暗い夜道、人通りも車通りも少ない道路に、そいつは立っていた。
街灯が照らす一方通行の標識。その側で、コンクリートの塀にもたれかかるようにして立つ、グレーのロングコートを着た人間。遠目には性別や顔立ちまでは特定できない。
ただ、そいつが持つ一振りの剣が、街灯の光を反射して輝いていた。
RPGに出て来る騎士が持っているような、銀色に輝く大きな剣。両隣を民家に囲まれた道路上で、旧時代の武器は際立っていた。
ズゥー、とグレーの影が剣を持ち上げる。アスファルトの地面を引きずり、道路に小さな裂傷を残してから、中空へともたげられた銀色の刃。
「ノルニル」
俺は即座に呼びかけた。
理性ではなく本能が警鐘を鳴らしている。
「ノルニルノルニルノルニル――――」
グレーの人影が剣を構える。
人気の無い夜道。見渡す限り、ここにいるのは俺とそいつの二人だけ。
つまり、その銀の刃が狙っている獲物は――――
「ノルニル!」
叫ぶと同時、俺は駆け出した。
グレーのロングコートが剣を振り下ろしたのも全くの同時。
横道に駆け込んだ俺の背後で、コンクリートの塀が真っ二つに裂ける。
一メートルも無い剣で刻んだにしては、明らかに長すぎる切り傷。そこを起点にして、スライスされた豆腐のように、コンクリートの塀が道路に倒れ込む。
コンクリートが地面に衝突する轟音を背に、俺は横道に飛び込んだ。
「仕留め損なったか」
聞こえてきた呟きは、ハスキーな女性のもの。少年のようにさえ思える、中性的な声音だった。
俺はその声を聞いて、ますます焦燥感を募らせる。
ずっとノルニルには呼びかけているが、彼女が出て来てくれる様子は無い。恐らく、もう休眠状態に入ってしまったのだろう。
契約精霊による援護も望めず、俺はひたすらに横道を走った。
運動不足の肉体はものの十数秒で音を上げるが、押し寄せる恐怖と危機感が足を動かした。
そして、二撃目。
横合いから飛来した斬撃は、民家を丸ごとぶった斬った。
倒壊する民家は俺の行き先を阻むように倒れ込む。
狭い横道に、瓦礫のバリケードが出来上がった。
「マジ、で……」
前方を瓦礫に阻まれ、俺は足を止めざるを得ない。
急いで来た道を戻ろうと振り返れば、そこにはグレーのロングコートに身を包んだ剣士が立っていた。
前には瓦礫の壁。後ろには自分の命を狙う剣士。
救いがあるとすれば、今しがた倒壊した民家は確か空き家だったことくらいだろうか。
「ノルニル――――」
「契約精霊はとうに休眠状態だろ。そうなるまで待った」
ノルニルに呼びかけようとした俺の言葉を、ハスキーな声が一蹴する。
ノルニルの一日の活動時間は四~五時間。その活動時間を使い切るのを確認してから、この剣士は俺を殺しに来たのだ。
明らかに計画的な犯行。こいつは通り魔や無差別殺人鬼などではなく、俺を殺すことを目的とした、或いは俺を殺すことを目的とした誰かに送り込まれた剣士だった。
「どうして、俺を――――」
「洗導絵画」
剣士は再び俺の言葉を遮る。
俺の問いを切り捨てるように、彼女の口から放たれた言葉は俺の鼓膜を貫いた。
「見る者の精神に異常をきたす悪魔の絵。お前だろ、作者」
きっと、こいつは知っている。
俺が何を描いてきたのか。俺が何を描いているのか。俺が何を描けるのか。
この剣士はその全てを知っていて、その上で俺を消しに来たのだ。
その事実を認識して初めて、俺は目の前の剣士を直視した。
グレーのコートを羽織り、右手には剣を持った少女。歳は俺と大差無いように見える。暗い銀髪とグレイッシュブルーの瞳。鈍い色合いの少女は、無骨な機能美を備えた刃のようだった。
「死にたくは、ないんだけど」
命を獲りに来た剣士を前に俺が絞り出したのは、どこか気の抜けた命乞い。
「そうか。同情するよ」
だが、剣士が俺を赦すことは無く。
銀色の刃が空を滑る。
放たれた斬撃は横薙ぎの一条。
俺の脆い首を、皮も肉も骨も一息に断ち切る鋼鉄の一閃。
俺が諦念じみた心境で死を覚悟するよりも早く、刹那の間に振り抜かれた剣が俺の首を刎ねる――――はずだった。
「――――――――」
それは、星の如く。
俺の目では捉えることもできない光速で、彼女は剣士の一撃を弾き返す。
故に、俺の目に映ったのは、彼女が動いた軌跡だけ。夜空から地面にかけて、流星の一条を描いた光の軌跡だけが、俺の網膜に焼き付いている。
彼女が剣を跳ね飛ばした際に生じた、心地の良い金属音。その残滓が今も鼓膜を満たしている。
淡く、されど輝かしく。少しずつ消えゆく光の粒を纏って、彼女は俺の前に立っていた。
「北神望人」
ふと、彼女が俺の名を呼んだ。
そのまま、ゆっくりと俺の方を振り返る。
「―――――――――」
星明りのようなプラチナブロンドの髪。インナーカラーのスカイブルーが、夜風に揺られて覗いている。
身に纏っているのは、どこか戦闘服じみたアウター。左手には刀身の湾曲した短剣が握られていた。
その一挙手一投足から、目が離せない。
撤退する剣士など視界の端にも入らない。ただ、俺の視線は目の前の少女に注がれている。
振り返って俺を見つめる彼女の瞳は、青空のように澄んだ碧眼だった。
「怪我は無い?」
問いかける声は無感動で機械的。
ただ俺の生存を確かめるように、無機質な声で少女は尋ねた。
「ああ、うん。おかげさまで……」
呆然としたまま、俺はそんな答えを返した。
「そっか。なら良かった」
冷徹にも思えるほど冷めた口調で、少女は淡々と話す。
機械の歯車が回るような冷たい声音は、努めてそうしている風なようでもあった。
「私は七鉈綺羅。今日から君の護衛だから。よろしく」
これは、俺と彼女の出会いの記憶。
薄闇の中で微睡んでいた俺を掬い上げた、綺羅星のような少女との出会いの記憶である。




