第十五話 硬貨二枚分の幸福を
どれだけの時間が経っただろうか。
綺羅は立ち上がって北神の死体を見下ろしていた。
胸に刻まれた刺し傷。そこから広がる出血は、胸に真っ赤な薔薇を抱いているようでもあった。
この手で殺したはずなのに、瞼を閉じた彼の顔があまりに綺麗なものだから、少し眠っているだけであるような気がしてしまう。
「随分と早い別れだったわな。キタガミ」
ふと、声がした。
少し視線を動かせば、斃れる北神の側に立つ精霊の姿が見えた。
ノルニルは寂しげな瞳で、薔薇を抱いて眠る北神を見下ろしている。
「なんで、止めなかったの……?」
思わず、疑問が口をついて出た。
綺羅は北神を殺すのをかなり躊躇った。
数秒、数十秒、或いは数分に達していたかもしれない。
それだけの隙を晒しておきながら、何故綺羅はノルニルの妨害を受けなかったのか。
「止めてほしかったわな?」
訊き返すノルニルの言葉に、意識せず肩が跳ねた。
まるで、自分でも無自覚的だった本心を言い当てられたみたいだ。
本当は北神を殺す前に、ノルニルに横槍を入れてほしかったのではないかと。
「……キタガミが決めたことだわな。ニルに言わせれば、死に場所を自分で選べるだけ幸せなもんだわな」
ノルニル。遥か昔から存在する彼女にとって、契約者との死別は何度も経験したこと。
志半ばで果てた者、望む結末を手に入れた者、悲惨な断末魔を上げた者。
それぞれの時代で最も優れた芸術家達が辿った最期を、ノルニルは幾度も見届けてきた。
「ニルにできるのは後始末だけだわな。ほら、行くわな」
ノルニルは床に落ちた紙袋を拾い、廊下をゆっくりと歩いていく。
リビングに続く扉を開け、振り返って綺羅の方を見る。
黄金の瞳が「こっちへ来い」と告げていた。
綺羅はノルニルに従い、リビングへと進む。
ノルニルはテーブルに着き、紙袋からハンバーガーやポテトを取り出す。
テーブルの上にジャンクフード一式を広げると、ぼんやりと立っていた綺羅に向かってこう言った。
「食べるわな。お前の分も買ってあるわな」
茫然自失とした心身は、何も考えずにノルニルの言葉に従った。
椅子に座れば、ノルニルが食べ物を差し出してくる。
綺羅の目の前に置かれたのは、紙に包まれたハンバーガー。その隣にフライドポテトが差し出された。さらに、シェイクの入った容器にノルニルがストローを刺す。
テーブルの上に広がったフードの数々。今まで触れることのなかったそれらを、私はぼんやりと眺めていた。
「何ボケっとしてるわな。美味いから食ってみるわな」
ノルニルに促され、綺羅はハンバーガーを手に取り、紙の包みを半分ほど剥がす。
そして、露わになったバーガーを、少しだけ齧った。
「――――――――」
それは、七鉈綺羅の知らない味。
生命を維持するための食事ではなく、肉体を補強するための栄養摂取でもなく、ただ味を楽しむためだけのジャンクフード。
むしろ健康を損なうとまでされる、添加物やら加工品が山盛りの娯楽品。
けれど、舌を楽しませることに関しては、この世の何よりも優れていて、誰も気軽に味わえるほどお手頃なもの。
普通の高校生たちが放課後に立ち寄って食べる、等身大の日常の味。
温かい家庭料理は無くとも、帰る家がひどく冷たい場所であっても、出会った仲間と共有できる青春の味覚。
この国の若者達が、当たり前に暮らす日々の中で口にするそれを、綺羅は初めて口にした。
「美味しい……っ」
まるで獣のように、綺羅はハンバーガーを貪り食った。
それはあまりにも美味しくて、舌が蕩けるほどに刺激的で、革命的なまでの美味だった。
あまりにも美味しくて幸せなものだから、目尻から溢れる涙が止められない。感情の奔流が流れ出して止まない。
「キタガミはこれをお前に食べさせたかったわな」
むしゃむしゃとバーガーを頬張る綺羅を眺めて、ノルニルは優しい声で語る。
その声色は子供を見守る親のようであり、孫を愛でる祖父母のようであり、人を見下ろす神のようでもある。
ただ必死に、生まれて初めて味わう奇跡を噛みしめる綺羅には、その言葉だけが聞こえていた。
「キタガミを殺したのが、上からの指示なのは分かってるわな。お前は正しいわな。キタガミを殺さなきゃ、お前が上の連中に殺されるわな。キタガミは死ぬべくして死んだわな」
涙が溢れて止まらない。
どうして、ノルニルはこんなに優しいのか。
契約者である北神を殺した綺羅に、どうして優しくしてくれるのか。
「だから、キタガミがお前に渡せなかったものを、ニルが渡すわな」
ノルニルが綺羅の方へと手を差し出す。
テーブルの上で並行に伸ばされた小さな腕。軽く握られた拳の中には、何かが握られていた。
「お前が元気無いからって、キタガミがマックのついでに買って来たわな。……全く、絵は上手いくせに、こういうセンスは皆無なやつだわな」
開かれた掌。
ノルニルの小さな手のひらに乗っていたのは、小さな壺のストラップ。
安っぽい素材で変な形をした、カルト宗教にでも売っていそうな胡散臭い商品。
――――その変な壺みたいなやつ。それ買うの? カルト宗教が売ってそうなやつ
それは、彼と彼女の数少ない思いでの品。
たった三日間の日々の中、下らないことで笑い合えた、ちっぽけな記憶の欠片。
――――幸運を呼び込むって書いてあるし……
――――いやダメじゃない!? それ! やっぱりカルト宗教で売ってるやつだよ!
どうしてだろう。
あんな意味の無い会話の欠け端が、今になって愛おしい。
どうでも良くて、何一つ特別じゃなくて、世界中ありふれたもののはずなのに。
「……っ、なんでっ……――――」
たった二百円の幸福が、どうしてこんなに悲しいのだろう。
こんな安っぽい贈り物、北神にとってはどうでも良いことのはずなのに。
どうして、この胸をこんなに激しく打つのだろう。
七鉈綺羅の存在など、北神にとっては脇役に過ぎないと、頭では分かっているはずなのに。
北神にはたくさん友達がいて、大切な家族がいて、そこに七鉈綺羅という異分子が入り込める隙間なんて無いのに。
特別に思われることなんて無理だから、特別になることを諦めたのに。
七鉈綺羅は生まれてから死ぬまで、誰の目にも留まらない、ただ命令に従うだけの歯車だと受け入れたのに。
なのに、どうして今更、その微かな視線で、この朽ちた心を照らすのか。
「なんでも何も、簡単な話だわな」
それは、彼女の知らない物語。
不器用な少年がずっと伝えようとしていて、けれど上手く伝えられなかったこと。
言葉にすれば簡単な、たった一つの想い。
「キタガミはずっと、お前のことを見てたわな」
綺羅は泣き崩れた。
声を上げて泣きじゃくり、行き場の無い慟哭を響き渡らせる。
言葉を聞かせたい相手は、想いを届けたい少年は、自らの手で殺したばかり。
底の無い後悔と絶望、そして硬貨二枚分の幸せに呑まれて、少女は形にならない感情を絶叫する。
「……もう、いつまでも泣いてないで食べるわな。キラ」
精霊は優しく声をかける。
喪失の悲嘆に暮れる少女が、少しでも少年からの贈り物を受け取れるように。
「マックはポテコが一番美味いわな」
泣きながら頬張ったフライドポテトの味。
その塩味がフライドポテト本来のものなのか、自身が流し過ぎた涙故なのか、綺羅には最早判断がつかない。
けれど、七鉈綺羅は生涯、この味を忘れることはないだろう。




