第十二話 馬鹿じゃない
「おはよう、綺羅。怪我は大丈夫?」
リビングに下りた綺羅に対して、北神は声をかけた。
綺羅は昨日蛇風に巻かれた包帯の類を全て取っており、目立つ所に傷も見当たらない。
「うん、大丈夫。全然平気」
ひらひらと両手を振って見せる綺羅を見て、北神は蛇風の言葉が真実だったと思い知る。
綺羅が肉体に負った損傷は、本当に一晩で完治していた。
「アレが一晩で治るとは、正直驚いたわな」
キッチンで料理をする北神の影から、幼い少女が顔を出す。
膝まで伸びた群青の髪。黒いドレスのような装い。そして、明度の高い黄金の瞳。
普通の子供というには特徴的すぎる彼女は、綺羅が初めて目にする存在だった。
「えっと、この子は……?」
「ニルだわな」
綺羅の問いに、ノルニルは憮然とした顔で言い切る。
これだけでは説明にならないので、北神が付け加えるように口を開いた。
「ノルニルね。俺の契約精霊。なんか、たまにいるから」
「たまにじゃなくて毎日いるわな」
ノルニルの存在に綺羅は目を丸くする。
魔術知識に疎い北神は知らないことだが、精霊が人間と会話しているという光景は極めて珍しい。
そもそも、精霊が自我を確立すること自体が稀なのだ。
それが人間と会話可能なレベルまで言語を習得するケースとなると、世界中を探しても簡単には見つからないだろう。
「どうしたわな? ぽけーっとして」
「あ……いや、契約精霊がいるとは聞いてたけど、ここまで自我のあるタイプだったなんて……」
胸の前で両手を握り、綺羅は気まずそうに目を逸らす。
その心情を、北神もノルニルも察せない。
察せるはずもない。自分と同じ孤独にいると思っていた北神に、対等に会話できる存在がいたことがショックだったなんて話は。
綺羅は北神に独りでいてほしかったのだ。
綺羅が独りだったのと同じように。
北神が綺羅にとって唯一の光だったように、綺羅も北神にとって唯一の存在になりたかったのだ。
そんなひどく身勝手な欲望を、綺羅は胸に抱えていた。
「まあ、元気出ないのも無理ないわな。今日はニルがずっと起きてるから、お前はだらっと過ごすわな」
それは、ノルニルなりの憐憫のようなもの。
長い年月を生きたノルニルは、七鉈家がどういう場所かよく知っている。
綺羅が辿ってきた人生の苦渋。その全てを理解するとは言わないまでも、どれだけ辛い道のりだったかは想像に難くない。
せめて一時の安らぎを。
そう考えるくらいには、ノルニルは心優しい精霊だった。
「それは……ダメだよ。私は北神の護衛だから」
その優しさに否を投げたのは、他ならぬ綺羅自身。
幼い頃から染みついた任務への義務感。休むという行為に対する潜在的な恐怖。
そして、北神の護衛という立場を手放したくない、という綺羅自身の想い。
様々な感情が渦巻いた結果、綺羅はノルニルの提案に反対した。
「……そんなんだから、お前は七鉈家に使い潰されてるわな。たまには我儘言わないと、人間ってのはぶっ壊れるわな」
ノルニルの声音に滲んでいたのは、呆れと憐れみ。
自らを食い潰すような生き方をする綺羅への呆れと、そうとしか生きられない少女への憐れみ。
「お前、少しは自分を大事にするわな」
細められたノルニルの瞳。
透き通る黄金は、ひどく悲しい色をしていた。
「…………」
ノルニルの優しい叱責に対して、綺羅は押し黙るしかない。
彼女は沈黙以外の答えを持たない。
知らないのだ。自分を大事にする方法なんて、彼女は知らない。今まで、誰もそれを彼女に教えなかった。
愛されるということを、大事にされるということを、知らされずに育った彼女にとって、ノルニルの言葉は重荷にしかならない。
言葉で言うよりも、ずっと難しいことなのだ。
自分を傷付ける方がよっぽど容易いと、七鉈綺羅は知っている。
「はい、出来たよ。目玉焼き」
沈黙を裂いて、北神の声が響いた。
北神は目玉焼きを乗せたプレートを机に運び、冷蔵庫から醤油を取り出す。食器棚からお椀を取り出し、炊飯器から白米を盛り付ける。インスタントの味噌汁をお湯で溶かし、これも机の上に並べた。
「とりあえず食べよう。護衛のこととかは、それから考えれば良いよ」
北神の提案に乗り、三者はそれぞれ椅子に座る。
ノルニルは美味しそうに朝食を食べ、北神もゆっくりと食事を口に運ぶ。
綺羅だけが口を閉ざしたまま、咀嚼し切れない何かを噛み潰すように、ひどく苦しげな顔をして座っていた。
「今日、お見舞いに行こうと思うんだ。良かったら、綺羅も付き合ってよ」
北神はただ、穏やかに。
「ほら、護衛が護衛対象から離れちゃダメなんでしょ」
ただ、穏やかな何かを差し出そうとしていた。
朝食には出来立ての目玉焼きを。休日には駅ビルにお出かけを。週末には病院にお見舞いを。
そんな、穏やかで美しい何かを、七鉈綺羅に渡そうとしていたのだ。
***
北神達が向かったのは、市内の総合病院だった。
受付での面会の手続きをし、エレベーターで十八階にまで上り、廊下を歩くこと一分ほど。
綺麗な病室の中で、男は寝台に横たわっていた。
「久しぶり、父さん」
寝台で横たわる男に、北神は声をかけた。
寝台の側に立ち、優しげな表情を浮かべて、寝台に横たわる男へと語り掛ける。
「…………」
男は何も喋らない。
ただ、心の抜け落ちたような無表情で、横たわったままである。
瞼は開いているが、起き上がることも無く、人形のように動かない。
むしろ、瞼が開いているからこそ、彼が眠っているのではなく、本来あり得ざる停止状態にあると理解できる。
「調子はどう? 俺は何とかやってるよ。この前は殺されかけたけど、ノルニルと綺羅が守ってくれた。あ、綺羅っていうのは――――」
横たわる男に向かって、北神は声をかけ続ける。
久しぶりに会った親戚に近況報告するような和やかさで紡がれる言葉。
その全てに男の返答は無いけれど、北神は気にした様子も無く、むしろ楽しそうに言葉を紡いでいく。
そんな親子の団欒を、私とノルニルは少し離れた所から見ていた。
「北神、お父さんいたんだ」
ふと、そんな言葉が零れ出た。
誰にだって父親はいる。北神にも血の繋がった父がいないはずはない。
でも、あんなに仲良く、まるで普通の家族のような形をしていたなんて、思いもしなかった。
それは私が知っている「家族」とは大きくかけ離れていて、今まで上手く想像できなかったのだ。
「仲、良いのかな……」
呟きは、せめて北神には聞こえないように。
けれど喉の奥にしまうことはできなくて、ノルニルの耳には届いていた。
「ニルが知る限り、キタガミの家庭環境は褒められたもんじゃなかったわな。キタガミの絵が売れてから、父親は酒とギャンブルに溺れ、母親は夜遊びを繰り返す。まあ、ニルに言わせれば、カスみたいな人間だわな」
ノルニルが語ったのは、きっとありふれた話なのだろう。
北神が画家として稼いだ金銭の額は、億という単位に収まるかどうかも怪しいレベルの大金だ。
ただの一般人がそれだけの金を手にすれば、狂ってしまうのも無理は無い。
「でも、仲は良かったわな。桁違いの大金に人生狂わされても、子供への愛情だけは狂わなかった。……人間としてはカスでも、親としては人並だったわな」
それは、どんな偉業だろうか。
ノルニルは人並なんて言ったが、私からすれば聖人に思える。
子供への愛情を失わないということが、どれだけ尊く価値のあることか。
――――お互い、まともな家じゃないってわけね
ただ、言われてみれば当然の話。
親が入院していて家にいないということも、別に全然あり得る話だ。
北神の親が北神のことを愛していないだとか、私のように独りぼっちで生きているとか、そんな証明にはならないのに。
私はただ、何となく、そうであってほしいという願いだけで、北神の家はまともじゃないと決めつけていた。
「馬鹿だな、私」
楽しそうに父親と話す北神を見て、なんだかとても恥ずかしくなった。
恥ずかしくて、悲しくて、苦しくて、死にたい。
勝手な勘違いでシンパシーを感じていただなんて、本当に馬鹿みたいだ。
「キタガミの父親がああなったのは、キタガミの絵を見たからだわな。母親の方もそう。キタガミの絵を見た日の夜、道路に飛び出して轢かれたわな。自分のせいだと、キタガミはずっと思ってるわな。キタガミだって、誰かを必要としてるわな」
北神が洗導絵画を描けるようになった時期は定かではない。
だが、それを初めに目にする可能性が高いのは、彼の近くで暮らしていた両親だろう。
「だから、お前は馬鹿じゃないわな」
ノルニルの言葉は、荒み切った私の心を少しだけ洗い流してくれるような気がした。
少しだけ、本当に少しだけ、私も北神の側にいて良いのかもしれないと思えた。
北神にも私みたいに悩んだり苦しんだりすることがあって、誰かに縋りたい時があるなら、その時は。
その時は、私が北神の隣にいても良いのだろうか。




