第十一話 自傷と依存
人には物事を忘れる機能が備わっているらしい。
嫌なことや辛いことを全て覚えていたら、生きていくのがあまりにも苦しい。
その苦しみから逃れるために、人は一度記憶したことを忘れていくらしい。
だからだろうか、戦いの記憶はいつも茫洋としている。
痛くて辛くて大変だったことは覚えているけれど、他の部分は輪郭が曖昧で、血が滲んで赤い靄がかかっているみたい。
不明瞭な血と光の記憶の中、今回だけは、たった一つだけ確かなことがある。
――――綺羅!
誰かが、私の名前を呼んでくれた。
ぼろ雑巾みたいに肉体を使い潰す苦しみの中、血の赤と光の白だけが満たす戦場で、私の名前を呼んでくれる誰かがいたのだ。
***
北神望人宅、七鉈綺羅は空き部屋のベッドに寝かされていた。
ベッドの脇に立つのは三つの人影。
北神とノルニル。そして、もう一人は――――
「今回もまぁ、随分と無茶したもんだねぇ。これで死なないんだから、運が良いのか悪いのか。いや、まぁ、良くはないかな」
白衣を羽織った背の高い人間。
顔立ちや体型からは性別が分かりにくいが、声のトーンと背の高さから男性と判別できる。
化粧をしているのか不自然なまでに肌が白く、派手な緑色に染めた髪も相まって、どこか道化師じみた雰囲気を感じさせる。
「あの……貴方は、誰なんですか? 綺羅を治せるって言うから、家に上げましたけど」
男に問うたのは北神。
遠慮がちながらも、僅かに男の正体を訝しむ声音であった。あからさまに怪しい風体の男なので無理もない。
「僕は七鉈蛇風。まぁ、君の味方だよ。治癒魔術使えるから、この子が怪我した時用に派遣されてるヒーラーって感じかな」
男は飄々と語りながら、綺羅の手当てをしていく。
治癒魔術を使えるとは言っていたが、医学知識の方にも通じているらしく、手慣れた様子で綺羅の体に包帯を巻いていく。
「治せるんですか?」
「そりゃあ、治せるよ。明日には全開じゃないかな」
蛇風の言葉は、北神とノルニルの両者にとっては信じ難い内容だった。
綺羅の容態は明らかに重傷。一命を取り留めるというのならまだしも、明日には完全回復など信じられるはずもない。
そんな二人の疑いの目を感じ取ったのか、蛇風はこのように続けた。
「この子の刻印術式は、自分の体を崩して速度に変換する。だから、肉体と純粋なエネルギーとの間に互換性があるんだ。純粋なエネルギーっていうのは魔力にも言える。エネルギーとしての魔力を補ってやれば、それを互換性のある肉体として再生することもできる。まぁ、僕の治癒魔術ありきだけどね」
蛇風の解説に北神は首を傾げる。
ある程度魔術知識のあるノルニルも、半分くらいしか理解できないという顔だった。
「言ってしまえば……そうだね、壊れやすい分治しやすいんだ。ガチガチの接着剤より、セロハンテープの方が使い易いだろう?」
蛇風のたとえ話は、分かるようで分からないような、曖昧な感じだ。
ピエロじみた風体のせいで煙に巻かれているような気もするが、北神はそれ以上追求しないことにした。
故に、口を開いたのは、ノルニルの方だった。
「こいつの刻印術式。使い勝手が終わってるわな。どうして、もっとまともなのを刻んでやらないわな?」
「同じ術式を刻んでも、刻印術式には各々ある程度の癖が出る。この子はそれが顕著だった。元々はもっとスタンダードな術式だったんだけどね」
刻印術式とは、肉体と術式が相互に溶け合い、馴染み、同調することで刻まれるものだ。
故に、どんな人間にも一様に術式を刻めるわけではない。
人それぞれに癖が出るのはもちろん、綺羅のように性能が大きく変質する場合もある。
「さっき、こいつが無茶したとか言ってたわな? お前」
「言ってたよ」
ノルニルは黄金の瞳を以て、長身の男を見据える。
人外の明度で輝く双眸は、冒険者を問いただすスフィンクスのようでもある。
「無茶な仕事の間違いだわな。あの剣士とこいつじゃ、地力に差がありすぎるわな。実力差抜きにしても、こいつの術式は護衛向きじゃないわな。なんで、他のを寄越さないわな? あの七鉈家に適任がいないとは言わせないわな」
ノルニルの指摘は的を射ている。
実力云々もそうだが、綺羅の光速躯体は護衛向きの術式ではない。
それを敢えて、単騎で北神の護衛に当たらせているのは、悪手のようにも思える。
「やる気が無いんだよ。というか、やる気を出しちゃいけない。だから、主力でもない殺し屋をテキトーに配置した。依頼主がいる以上、ちゃんと護衛してますよってポーズは見せるけど、そこに体力は使いたくないってこと」
肝心の何故七鉈家はやる気が無いのか、という部分に蛇風は触れなかった。
訊いても話してはくれないだろう、と北神も何となく察した。
「それじゃぁ、治療は終わったから。多分、明日には目を覚ますよ。バイバイ」
綺羅の治療を終えた蛇風は、ひらひらと手を振って部屋を出る。
気楽で無責任な物言いだが、綺羅の寝顔が安らかになったところを見るに、治療を施したのは本当だろう。
「最後に一つだけ、良いですか?」
すらりとしたその背中に、北神は声をかけた。
蛇風の足が止まる。
止まった足を肯定と受け取った北神は、背中越しに蛇風へと問いかける。
「護衛任務が終わったら、綺羅はどうなるんですか?」
一呼吸分だけ、蛇風が沈黙した。
しかし、すぐに先刻の飄々とした態度に戻り、こんなことを告げたのだ。
「どうなるも何も。いつも通りの日常に戻るだけさ」
蛇風は今度こそ部屋を出る。一分もしない内に、北神の家からも去るだろう。
次に綺羅が大怪我を負っても、彼が再び現れることはない。
そんな予感がした。
***
ふと、目が覚めた。
ベッドの上に横たわる私の体は、あちこちに包帯やらガーゼやらが巻かれている。
つまる所、いつも通りの朝だ。
刻印術式の関係上、私が無傷で戦闘を終えることは、ほぼあり得ない。
いつもどこかしらに傷を負って、何かしらの痛みを抱えて、血染めの夢を見て眠る。
起き上がりながら、腕に巻かれた包帯を解く。露わになった腕には傷一つ無い。
これもいつも通り。目が覚めれば、私の傷は元通り、綺麗さっぱり治っている。
「痛い」
嘘だ。痛みなど無い。
喉元過ぎれば何とやら、激闘の苦痛は既に過去のもの。
激痛の中で戦う苦しみ、肉体を光粒に分解する苦痛、その痛みを知るのは私だけ。
傷という痛みの痕跡すら消え去った今、私の痛みを理解してくれる人は誰もいない。
こんなに痛いのに、誰も気付いてくれないから――――
(光速躯体、起動)
腕の内側、薄皮一枚を光の粒に変える。
ささやかな自傷行為によって、肌には薄っすらと一条の痕が刻まれる。
「痛い……」
任務の後は、いつもこうだ。
嫌なことばかりが頭の中で渦巻いて、孤独感だけが募っていって、気付けば自分の体を傷付けている。
そうすることで、この陰鬱とした気分が晴れるわけでもないのに、体に傷を刻まずにはいられない。
だって、傷が無いと、私が痛んでいると分からないから。
痛くて可愛そうな私を、誰かが見てくれるかもしれないから。
「痛い」
今までは幻想だった。
どんなに私が傷だらけでも、気にかけてくれる人なんているはずはない。そんな優しい人間は、七鉈家にはいなかった。
でも、今は――――
「痛いよ、北神」
一人だけ、知っている。
私を気遣ってくれる人、私を慮ってくれる人、私を赦してくれる人。
北神ならきっと褒めてくれる。認めてくれる。私が傷付いたことを悲しんでくれる。頑張ったね、と褒めてくれるはずだ。
北神にも家族はいない。私も彼も一人ぼっち。きっと私達は分かり合える。お互いの孤独を埋め合える。
似た者同士、きっと、手を取って生きていけるはずなのだ。




