夜の女王召喚そして謁見後の交渉
…重い沈黙を破ったのはパールだった。
「…で、ルビィ。どうやって二百年の呪縛から我に返すんだい?」
「今考えているところじゃよ。全くのぅ… 月下美人の呪いを解くだけじゃったら、簡単に済んだかもしれんのう。」
「…でも、あんたが月の魔物に会うって言ったんでしょ?」
俺は嫌だったのに、と、くりあが言う。
「分かっとるよ、ボウヤ。だから月の魔物の呪縛も解いてやろうと言っとるんじゃ。」
「…すいません。出過ぎマシタ。」
ルビィにじろりと睨まれ萎縮するくりあ。そんな彼を他所に、
「夜の国の女王との契約か… 厄介なのかい?」
と、眉間に皺を寄せパールが問う。
「まあのう。相手は夜の国の女王じゃ。その辺の精霊とはレベルが違うからのぅ。まあ、ここでそんな話をしても始まらないことは確かじゃな。ほら、起きんかい。」
ゴスっと一撃。手持ちの杖で月の魔物に一撃を入れるルビィ。
「うわあ… 魔物、ってか、元人間にも容赦ないんだ…」
オォオオオォオ
ルビィの魔力で床に捻じ伏せられたままの月の魔物が、それでも威嚇しようと吼える。が、それも幾分力無い。
「ふん。そのザマで凄んでどうするつもりじゃ?」
月の魔物を見下す、ルビィのその様を見て、
「なあクイーン・パール、ちょっと大丈夫なのか? 俺にはいびってるようにしか見えないんだけど。あの構図。」
くりあは一抹の不安を覚え、パールに訊いてみる。
「さっき吹っ飛ばされたのをまだ赦してないんだろ? ま、消されはしないだろうから、心配おしでないよ。」
「…いや、なんて言うかさ。月下美人的には複雑なんじゃなかろうかと。だって、元恋人なんだろ?」
「じゃあ、お前が止めてみるかい? あのルビィを。」
「…無理!」
「それなら黙ってな。ああ、ほら、夜の女王を呼び出すよ。」
辺りの空気が一変した。暗く、冷たく。
… … … …
ルビィが何かを口にしている。人の言葉には似つかわしくない、もっと暗くて、深い音のような、音ではないような、何かを。
「何? 何だ?」
「夜の国の扉を開いているんだよ。もうすぐ… ああ、ほら、夜の国の女王が来る。」
暗く冷たい空気が、月の魔物の上で凝縮していく。暗く、暗く。夜よりも深い闇の色に染まり、引き裂かれた。
「妾を呼んだかえ?」
漆黒の闇の色の長い、長い髪。象牙のような肌に、そう、ムーンストーンのような輝きの瞳の、その女性は、夜空を象る星をちりばめたような漆黒のドレスに身を包んでいた。
「……!」
背筋に悪寒が走ったのを、パールとくりあは感じた。月に住む夜の国の女王、彼女の圧倒的な存在感は、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を与える。
「まことに勝手ながら、お願いを致します。そちらの貴女様の眷属となった魂を契約より解放して頂きたいのですが、如何なものでしょうか。」
と、動じる気配も無く、夜の国の女王に進言するあたり流石北の魔女と言ったところか。
「ほっほっほ。何を言い出すかと思えば。そこな魂は妾に助けを求めた。再び生きる事を望んでな。妾から解放されれば、そこな魂に待つのは死出の旅路え?」
夜の国の女王が、ころころと笑う。
「はい。承知しております。ですが、あの者は死してもなお再会を願った伴侶と共に居ります。願いを果たした今、二人を共に冥府へと還したいと存じます。」
「ふむ… だが、そこな魂は妾の僕でもあるのじゃ。さて、どうしたものかえ?」
そう言いながら夜の国の女王の笑みには、この上なく冷徹な色が含まれているのだ。
「おお! そうそう、妾には欲しいものがあったなぁ。それとであれば引き換えにしても良いかもしれぬな。どうかえ?」
と、残酷なほど美しい微笑みを投げかけてくる。
「畏まりました。」
恭しく一礼してルビィは夜の国の女王の言葉に従う意思を見せる。
「…えっ? ちょっと勝手に約束なんかしちゃ…」
「黙っておいで。」
成り行きを見守っていた二人だったが、うろたえるくりあが割って入ろうとした。無理難題を押し付けられたら叶わない、と、思ったからだが、パールに静止される。
「なんで…」
「いいから。大人しくしておいで。」
ルビィとパールの意図が読めず、食いつくくりあを、パールは黙らせる。
「何か、用かえ?」
くりあの方を向いて、気分を害した様子の見える夜の国の女王は冷たい視線を送る。
「失礼致しました。あの者はまだ子供ゆえ、ご無礼をお許しくださいませ。」
「ふむ… まあ良い。それでは良いかえ? 妾は蜃気楼の百合を所望じゃ。哀れな人の子よ、明日の夜までにというのはちと酷であろう。いつまでになら妾の元に蜃気楼の百合を持てるかえ?」
ルビィの謝罪に気を取り直したのか、夜の国の女王が条件を突き出す。
「…一週間ほどの猶予を頂ければ、必ずや蜃気楼の百合を貴女様に献上致しましょう。」
「ほう… まあ、妾もそれ以上は待てぬえ? 心せよ、一週間が過ぎれば、この話は水に流す、良いな?」
「もちろんでございます。」
「妾はもう帰る。蜃気楼の百合を手に入れるまで、妾を呼んでくれるな。ではな。」
そう言い残して夜の国の女王は、闇夜の空気に溶け込んで、消えた。
その場の空気が、軽くなる。ほっ、と一息入れる間も無く、
「…なあ、ちょっと、勝手に約束してたけど、蜃気楼の百合って…」
不安の色を隠せないくりあが、躊躇いがちに言いかける。
「吠えるな、ボウヤ。それが一番確実で、簡単な方法なんじゃ。」
険しい表情のルビィは、ある一点を睨んだままくりあに応える。
「だからさ、簡単な方法って言うけどさ、それには蜃気楼の百合が引き換えなんだろ? だけど、それって…」
情けない声でそう言いながら、くりあは、ちら、とパールの方を向く。
「…。お前に言われなくても分かっているよ、くりあ。」
くりあの視線を受けて、パールが答える。やはりその表情は芳しくない。パールもルビィも無茶は承知の上なのだ。それでも、その条件を呑んだ方が確実なのだ。
あの夜の国の女王に立ち向かうだけの力は無いのだ。それだけの力の差がある。
アノ… シンキロウノユリ トハ イッタイ
「蜃気楼の百合ってね、蜃気楼の町にだけ咲く百合のことなんだよ。たださ、蜃気楼の町って、その名前の通り蜃気楼なんだよね。ホントにあるのかも疑わしい町なんだ。」
三人のただならぬ雰囲気に動揺している月下美人が尋ね、それに答えるのはくりあ。
マア ソレデハ…
「そうなんだ。ホントに町があったとしても、蜃気楼だからさ。蜃気楼の町の、蜃気楼の百合なんて手に触れる事もできないと思うんだけど。」
全くなんてムチャな要求を受けちゃうのかな、と、くりあの視線は床に落ちる。
「ま、普通は、だからね。考えはあるから、心配おしでないよ。あんたは砂漠に蜃気楼が出ることだけを祈っていてくれたらいい。」
にやり、と、どこか余裕の笑みを月下美人に向けるパール。またそんな根拠のない自信を、と言いかけてパールに軽く小突かれるくりあ。
「…さて。こやつを正気に戻すのは骨が折れるのぅ。月下美人、一週間程度このままでも良いかのぅ? 今までと同じ生活を、あと一週間だけじゃ。今、こやつを正気に戻しても良いんじゃが…」
床に押さえ付けられている月の魔物に視線を向け、ルビィが溜息を漏らす。これから先のことを考えると、今此処で魔力を使いたくない。恐らくこの月の魔物を正気に戻すのにはかなりの魔力を消費してしまうだろうから。
ワタシハ ダイジョウブデス
スガタヲタガエタダケデ キヅケナカッタジブンガ トテモハズカシイ
ワタシノコトバガ トドカナイノガ ワタシヲワスレタママナノガ
アトイッシュウカントイウナラ …ワタシハマッテイマスカラ
コノヒトノ ナガイクルシミニクラベタラ イッシュウカンナド…
月下美人が花びらを振るわせる。以前は無かった、微かな希望が滲む。後悔と、自責の念も生まれてはいるのだが。
「そうか、悪いのぅ。蜃気楼の町に入る為に、少しでも魔力を温存しておきたいんじゃよ。約束は、必ず果たすからのう。」
ルビィがそう月下美人に誓うと、くりあがぼそっと横槍を入れた。
「…さらっと言ってるけどさ、ホントに蜃気楼の町に辿り着けるのかよぅ。」
「……。」
無言で赤い瞳が睨む。
「すっ、すいません、出過ぎました。」
「じゃあ、一週間だね。悪いね、最初に約束した時より、だいぶ遅くなっちまって。」
パールが済まなそうに月下美人に言う。
イイエ アナタハ ワタシノゼツボウヲ キボウニカエテクレマシタ
ソレダケデモ ワタシハシアワセデス
ドウカ ブジニカエッテキテクダサイネ
ゴブウンヲ オイノリシテオリマスワ
祈るように、縋るように、月下美人が。
「早速行ってくる。一週間後には、必ず! …ルビィ。」
「ああ。」
一陣の風と共に、三人の姿がガラスの塔から掻き消える。
ドウカ キズツクコトノ ナイヨウニ
月下美人は、ガラスの向こう側に飛び立った三人を暫く見送った。
ワタシノウタハ モウ アナタニハ トドカナイケレド
セメテ コヨイダケハ タダヒトコトダケデモ
アナタニ トドクコトヲ ネガイマス
人の声で歌うことが叶わなくなってから幾星霜、声に成らぬ声で、姿を違えた恋人の為に、月下美人は再び歌を口にした。かすかな音色にさえ、成らぬ歌を。
後少し、もう少しで、再び相見えることができるのだと、かすかな希望を胸に抱き。声に成らぬ声は、愛の歌を紡ぐ。
僅か一滴、魔物の目から涙がこぼれた。
ワタシノウタハ アナタニ トドキマシタカ?
月下美人は花びらを震わせ、床に伏す月の魔物に届かぬ声をかけた。
続きは明日の夜更新します。




