序
涙が流れて川と成り、海に成るまで幾星霜。
針葉樹の切り立つ森に、静かに水を湛えし泉。それは誰の涙の為せる業か。月は遠く天空に、地平は遠く緑が居並び、其処に在るは嘆くガラスの塔のみと、誰が知り得るか…
…声を無くした姫君は、ガラスの塔の最上階でただ一人、孤独と恐怖に震えて眠る。日の光が哀れみと共に降り注いでも、姫君を癒すことは無く。
青い空はどこまでも青く、姫君に遠い祖国を思い起こさせる。曇天は孤独を弥増しては姫君を絶望させ、雨は冷たく降り注いでは姫君に悲しみの爪を突き立てる。
音の無い静かな夜、それは星の瞬きが聞こえそうな静寂の中。月が天に姿を見せた時、月の魔物がガラスの塔に舞い降りる。月が夜空に君臨している間だけ、魔物は地上に留まることが出来るのだそうだ。
そうしてそのひと時、魔物は奪った声を姫君に返す。一夜の間、姫君の歌に聞き入るために。姫君は歌う。今の、この現を忘れようと、ただ一心に歌う。
ガラスが姫君の歌に共鳴してみせる。その小さく、けれど凛とした共鳴は姫君の歌声に良く似合う。ガラスの響きと姫君の歌が、小さな世界を織り上げる。儚く淋しげな、哀しみに満ちた美しい世界を。その世界に魔物は酔い痴れ、夜は瞬く間に過ぎていくのだ。
空が白み始める直前、月が魔力を失う前、再び魔物は姫君から声を奪う。そして一人、命を失う前に月へと帰る。歌うことさえ出来なくなった姫君は、静かで深い慟哭を。
その繰り返しがもう幾晩と続いたことだろう。…姫君の絶望のうちで。
「どうして私の傍に居てくれなかったの。」
塔からは深緑に染まる森だけが見える。あとは限りなく続く青い空。
どんなに恋人の影を求めても、その人はこのガラスの塔の場所さえ知らぬはず。無駄だと知りながら、今更なのだと分かっていても、あの時、あの瞬間傍に居てくれたのなら、と、姫君は思わずにはいられなかった。
そうしたら、こんなことには成らなかったのではないかと。これほどの悲しみと絶望に包まれること無く、今も、愛しい人の傍に居ることが出来たのではないか、と。
ガラスの塔は固く冷たく、孤独を抱えて聳え立つ。遥かな地平の先に、今は戻ることも叶わぬ祖国を思う度、姫君の頬にはらはらと涙が落ちる。助けに来るものは無い。涙が流れるのは、悲しみ故か、絶望故か。
その繰り返しが幾日と続いたことか。…姫君の悲しみのうちで。
姫君の嘆きに応えるものは無く、救いが訪れる気配も無く、ただ固く冷たいガラスの塔が高く、高く空を臨んでいるだけ。
幾千の夜と幾千の日を越え、ついに孤独と絶望と、そして深い悲しみの果てに胸が張り裂けた姫君は、そこで命果てた。…たった一人きり。
看取ったものは、遠く輝く太陽だけ。
そうしてその晩も、闇色の羽を広げ、魔物がガラスの塔へ舞い降りる。姫君の死を知った月の魔物は、気も狂わんばかりに嘆き悲しんだ。
嘆きの果てに、姫君を一輪の花に変えた。たおやかで美しい、満月の晩にだけ咲く花に。
そして魔物は叶わぬ夢を見る。
「歌ッテオクレ。」
…と。