最終話 ノア
「ぐ……、もう少し丁寧に、かつ迅速に運べんのかキサマ」
「煩い黙れ」
夫人を脇に抱えるレンシュラにベルデが文句を言う。腕を掴まれ半ば引きずられていた夫人を見て、ベルデが猛攻したので抱えて運んでいるのに注文が多い。
ベルデも口数は多いが、制服を染めていく赤に顔色はそうとう悪い。
「団長っ!」
ベルデと同じ白の制服を着た二人の男が、此方に気づいて駆け寄ってきた。どちらもレンシュラが知らない顔で、ベルデを団長と呼ぶのならフェイル部隊の人間ではなく、騎士団のほうだろう。男たちはレンシュラへの警戒を隠さず、ベルデが被せるように口を開いた。
「奥様をすぐ安全な場所へ」
「団長、この男は? それに」
「この怪我にこの男は関係ない。それより奥様を」
「どっちかはこの怪我人に回復促進薬を持ってきてやれ」
「おい。勝手に俺の部下に命令をするな」
ベルデの反応に一応警戒は解いたのか、部下の一人がレンシュラへと近づく。レンシュラは夫人を下ろし、夫人は部下が差し伸べた手を振り払うように大きく暴れた。
「奥様っ……なんてことを!」
夫人に結われた口紐を見て部下の男は青ざめる。もう一人は薬を取りに行ったか、医者を呼びに行ったかで、すでにこの場にはいない。
部下の男が夫人の口紐を解き、夫人は息を吸うと共に叫び声を上げた。
甲高い怒声が辺りに響く。
「どうして、どうしてどうしてどうして邪魔をするのよぉ! どおしてっ!」
「お、奥様! 落ち着いてください!」
「ようやく……漸くお父様のお役に立てると思ったのに!!!!」
「「!?」」
夫人の言葉に動揺が走る。
「大変です団長!」
近くで鉢合わせたのか、先程の部下がバルトロと医者らしき男を連れて戻ってきた。
しかし部下の男も、続くバルトロも焦った様子で表情が険しい。
ベルデが問いかける前に部下の男が答える。
「先程の呪具が何者かに盗まれたらしいです!」
夫人が誇らしそうに目を細めた。
「ひぃぎ、ひひゃ、ひ……」
皺枯れた、老爺のフェイルが宙に浮いている。老爺はリオに手を伸ばし、ササハは咄嗟に服の内側に隠していたカタシロ人形を投げつけた。前に母が持っておいて損はないと、内ポケットを縫い付けてくれたものだ。何度か間違って洗濯したことがあった為ササハは乗り気でなかったが、ロキアで忍ばせておけば良かったと後悔してからは活用することにした。
しかし布人形に魔力を込める余裕など無く、ただ放り投げられただけの物体は老爺をすり抜け、窓の向こうへと落ちる。
リオは咄嗟に老爺の手を躱し、ササハは扉を開けてリオを呼ぶ。
「ノア逃げるよ!」
先程月闇の館から逃げ出した時のように、再び手を取って走り出す。
――バリン、バリン、バリン!
「きゃあ!」
「っ!」
走り抜ける廊下の窓が弾け飛び、それでも足は止めず、遅れそうになるリオの手を必死に引いてササハは走った。
照明も壊されたのか人工的な明かりは一切なくなり、月光だけが頼りとなった。
誰も居ない。廊下の突き当りに階下へと続く階段が見えた。
ササハが一度後ろを振り返った時、黒のオウトツだけの顔がすぐそこまで迫っていた。
「――っ!」
咄嗟にリオの手を引き、バランスを崩して階段を転がり落ちる。
転げ落ちた距離は短く、踊り場まで互いを庇いあった。目眩を感じながらササハは顔を上げる。
階段の上からは老爺が楽しそうに此方を見下ろしていた。
「やっと、やっとォォ、ぃギ、イヒヒ」
老爺の動きは不自然で、静止と振動を繰り返す。
「やっとカナう、ヨウヤく、ヨコせ、ワタシにそのチカラをヲぉ」
(力を寄越せ? 何のこと?)
老爺が見ているのはリオで、あくまで関心は彼にしか無い。
(それに、あの薔薇の中心にあるのって……)
フェイルだという証の、赤薔薇の心臓。つい先程、月闇の館で対峙した時も見た、赤い宝石で出来たような薔薇の結晶。しかし一点。先程とは違う箇所がある。
老爺の胸に咲く赤薔薇の中心に、先程は無かったはずの呪具が埋め込まれていた。
「ササハ、お前足が……」
リオの声に注意が戻る。
リオは立っているが、ササハは未だ座り込んだまま。立てないことは無いが、走ることは難しい。どうやら階段を落ちた際に足を痛めたようだ。
見た目だけでも分かるほど変色し腫れた足に、リオの表情が歪む。
「これくらい平気よ」
強がって見せるが、リオの顔が更に痛ましく歪んだ。
「おぶってやる! おれが担いで走るから」
「無理よ」
「出来る! 言っとくけど、おれ一人じゃ絶対逃げたりしないからな」
「分かってる。だから、考えましょう」
「……考える?」
「ほら、あのおじいちゃんも何でか襲ってこないし、レンシュラさんたちが来てくれるまで無事なら良いのよ」
「!」
老爺はササハの言う通り、退路を断つように黒の煙を撒き散らしているが、直接襲って来るわけではない。理由があるのかないのか、老爺の動きは異様で、赤い光だけが意志を持つように輝いていた。
「ノア。頭の、ノアの頭についてるやつ剣に変えられない?」
「剣?」
視線は老爺に向けたまま。しかし視界の端にいるリオは、何のことか分からないと言う表情を浮かべた。
「第六魔力で剣に変えられるんだって」
「? あ、これか?」
柔らかい金の髪に浮かぶ石に指をぶつける。
向こうでは老爺の首が、右に、真下に、座りが悪そうに動いている。
「ちょっと試してみてよ」
「う、うん」
リオは手に取ろうとするが、剣に変わるどころか外れもしなかった。
まずいなとササハは悟られないよう震えを殺す。
老爺は襲ってこないが、迫る死への恐怖が見逃されている訳ではないと告げている。そしてその恐怖を感じているのはササハだけのようだ。
(ノアは怖がってるけど)
絶望はしていない。
なぜかササハは老爺の寝室で見た走り書きを思い出した。
――『あの呪具と子供を利用し、足りないものを補う』
(もしかしてノアは殺したくない? だから近づいて来ないの?)
老爺との距離は変わらず、ササハは碌に走れない。
老爺は赤薔薇に呪具を埋め込み取り込んでいる。
リオは感じていないだろうが、黒い煙が視界の外を縫ってササハを追い詰めている。老爺は狡猾で、それでいてせっかちなようだ。
ササハは浅かった呼吸を整え、無意識に唇を噛み締めた。痛みは無視して立ち上がる。
「おまっ、怪我してんのにじっとしてろ!」
「ノア。作戦を立てましょ」
「作戦?」
「そう。二手に別れて、ノアが囮になるの」
「何言って…………」
「獣は動いてるものに気を取られるから、ノアは出来るだけ遠くまで走るのよ」
ササハは微笑んだ。
実は背中側にもカタシロポケットはあるが、魔力を注いで操るだけの気力も集中力も無い。
(せめて呪具だけでも引っこ抜け無いかしら)
可能性があるならとつま先に力を込めた。叫び出したいほどの激痛が感覚を麻痺させる。
「じゃあノア、お願いね。せーのって言ったら」
走り出してと言おうとしてその背に庇われる。
遮られた視界で、ノアが大きく振り返った。
「バカじゃねーの」
「ノ」
「おれはそういう顔で笑う奴は信用しない!」
ハチミツ色の瞳に水の膜が揺れている。
「剣でアイツをやっつければいいんだろ」
零れてはいない目元を擦って、ノアはササハの前に立つ。
薄暗いはずの踊り場は、いつの間にかノアの影が他に混ざら無いほど明るくなっていた。なぜだとササハが辺りを見回すと、青より白に近い光が粒子となり、うねりながら風を生み出して一箇所に集められているのが見えた。
ノアは頭上の特殊魔具は手にしていない。白の光の風を集め、一本の剣を作り上げていた。
細く長い刀身は不純物の存在しない氷のように透き通り、光だけを反射している。剣に集められる光の粒子は弾けては消え、小さな火花のようだった。
ノアが剣を構える。
「ノア!」
そして老爺に向かって走り出した。階段をかけ上がり、老爺が笑っているように口元を歪めた。
大きく剣を振るがゆるりとした動作で躱される。もう一撃、二撃とノアは老爺を追い詰めるが、それは勘違いで老爺はノアの後ろを取る。
「ギィ、ヒ、ィヒヒ、モゥ、スグ。ァト、、、コシ」
「うるせぇ! おれはもう言いなりなんてならない! 我慢しない!」
ノアが逃れるように剣を振るう。
「お前の望みは絶対に叶わない!」
「………………、グ、ガァァァァァァァァァ!!!!」
攻撃が当たった訳ではなく、ノアの言葉に老爺は怒号を上げた。建物が大きく揺れササハは壁に手をついた。
「つぅ!」
ササハは立っていることが出来ず顔を歪めて尻餅をつく。
老爺がノアへと向かい、揺れが小さくなる。老爺が向かってきたことでノアの剣先を掠め、フェイルの黒い煙が削がれた。
老爺はうめき声を上げ距離を取る。ノアを見下ろし、上空へと浮かぶ。
(あの煙って削れるんだ!)
ササハはそう判断し、ならばと周囲を見渡す。辺りには割れたガラスが散乱し、月の光が強く入り込む。
(注意を逸らして隙きを作りたい。そしたらきっとノアがやっつけてくれる!)
だが割れた窓枠が転がっていても、フェイルには通常の物理攻撃は効かない。
(音を出す? 名前を呼ぶ? けどあの人の名前分かんな――あ!)
ササハはこの際足はもげてもいいとばかりに立ち上がり、階段の手摺に体重を預けながら何とか三段だけ階段を上がった。
ササハに気を取られたのはノアのほうで、老爺はそれをチャンスと捉えたのか、ノアへと向って降下の姿勢を取った。
「ちょぉっと待ったぁぁ!!」
老爺は止まらず、それでもササハは声を張り上げる。
「この手帳の命が惜しくば、こっちに来なさいよ!!」
手帳と言う言葉に老爺が止まる。ノアの剣を警戒した距離。
老爺の空洞の目がササハへと向き、ササハは短い悲鳴を呑み込みながらも、片手を突き上げ手帳を見せる。
「大事なことが書いてあるんでしょ! 来ないとビリビリに破っちゃうわよ!」
言いながら、実際に開いた手帳を両手で割く真似をする。
老爺の顔が、怒りを表すように歪んだ。その背後に――。
「ノア!」
ノアが飛び上がり、老爺を斜めに切り裂いた。
「イギャァァァァァァァァァ!!!!」
頭が割れんばかりの絶叫を上げ、黒の煙が泥のようにその場に崩れ落ちる。ノアの剣はちょうど呪具を切り裂き、半分に割れた呪具が泥へと沈む。老爺の胸に咲いた赤い薔薇も真っ二つに裂け、跡形もなく消え去った。ヘドロの様に崩れた黒の煙も灰のように散っていき、最後には二つに別れた呪具の残骸だけが残った。
「はあ、はあ、」
どちらか分からない、深い呼吸音が響く。割れた窓から入り込む風が冷たく、なのに熱を持ったように身体は熱い。
「ノア……」
ササハがへたり込みそうな足を叱咤し、声をかける。今すぐにでも駆け寄りたいのにそれすらも出来ない。
「サ、サ……」
ハチミツ色の瞳がゆっくりと下を向き、剣を成していた光の粒子も霧散した。
「ノア! 良かった。無事だよね? 怪我はない?」
ノアは階段の近くまで歩みを進め、なのにピタリとその場で止まってしまう。
階下から見上げるササハは影となり、ノアの表情はよく見えない。
「サ――」
ノアの身体が揺れて崩れる。
「ノア!」
「ありがとうございました」
「!?」
すぐ後ろから声がし振り返る。
「メル君?」
しかし誰もいない。だが、声は確かにメルのものだった。メルも気になるが、それよりもノアだとササハは階段を上がろうとし、膝をつく。歩くのも這うのも痛みは変わらなかったので残りは這い登った。
「ノ――」
ノアに手を伸ばし、触れる前にもう片方の手が何かに触れた。それは呪具に巻きつけられていた布。包帯だと思ってい細長い布は、幾つかのリボンを縫い合わせたものだった。
「……あれ、」
途端ササハの視界が回る。ササハはそのまま意識を手放した。
夢を見る。ロキアで起きたことと同じような、人の記憶を覗き込む夢。
腹が膨れた女性がゆったりとした椅子に座り笑顔を浮かべている。嬉しそうに此方を見上げ、男性の手が腹を優しく撫でる。
見知らぬ部屋で、ローサの母親ではない、五十代前後の女性が怒りを顕に此方へ指を突きつける。女の子では駄目だ。次こそ男児を産ませろとヒステリックに叫んでいる。
足りない。足りない。もっと力を――。そう、カルアンから――……。
――“ごめんなさい お父様“
そう言って女の子が泣いていた。
額に何かが触れるのを感じササハは目を開けた。
触れていたのは人の手で、すぐに疲れ切ったレンシュラの顔が見える。
ササハが眠っていたのは半日程で、現在はまだリオークの明けの館にいるらしい。ササハが寝ている部屋は借りていた客室で、レンシュラもササハも勝手に出歩くことは禁止されている。レンシュラがササハの部屋にいるのはベルデに無理を言ったからだそうだ。
「ノアは?」
「そこにいる」
「へ?」
あお向けに顔だけ向けて話していたササハは、その時ようやく、隣にいる人物に気がついた。
頬や顔にガーゼを貼り、明るい日差しに馴染む金の髪が、眠る横顔にかかっている。ぼんやりする頭で無事だったやら、何でいるのだろうと考えたところで、自身の右手が相手のシャツを掴んで握り込んでいるのが目に入った。
「どうしても離さないから、流石にベルデも笑っていた」
苦笑を浮かべるベルデを想像する。無理に引き剥がすことも出来ただろうに。
「ベルデさん、怪我は?」
「大丈夫だ。薬を飲んだらすぐ回復した――お前も起きられるなら薬を飲め」
「今日は外、騒がしいですね」
「……昨晩の後処理と、別の屋敷に移る準備をしているらしい」
上階や、遠くの廊下を行き交う足音が聞こえる。
昨晩と言われて、今更足の痛みが思い出されていく。
「フェイルはやっつけたんですよね?」
「ああ」
「呪具は? 誰も、何ともありませんか?」
「大丈夫だ。リオーク夫人もご息女も落ち着いたと、ベルデが喜んでいたくらいだ」
その言葉に力が抜ける。
良かったと。呪具を壊しても、悪い影響は出なかったようだ。
ササハは折角だからとレンシュラにあれこれ質問をし始める。
「あのフェイルは大旦那様で間違いないんですか?」
「分からない」
「分からない?」
「お前たち以外の目撃証言がないからな」
唯一夫人が目撃していそうなのだが、ショックからか記憶が曖昧だと言う。
「そう、ですか……」
昨日の今日だ。分かっていることのほうが少ないのだろう。
ササハは昨日見た夢を思い返し、もしかしたらあのリボンは夫人の物だったのだろうかと目を閉じる。内容の殆どは忘れてしまった。それでも悲しそうな女の子の声だけは忘れられそうにない。
パチリと目を開け、起き上がろうとする。熱を持った足の痛みに眉を寄せた。
「無理に起き上がるな」
「大丈夫です」
レンシュラがため息をついて立ち上がる。
どうやら水を入れて――違う薬の準備をしているようだ。少し離れたテーブルの上で液体を注ぐ音に耳を傾ける。
「そう言えば、メ――――」
視界の端でカーテンが揺れたのかと思い、違うとすぐに解った。
金の髪が額から零れ、長いまつげが上を向く。
「ノア! 起きたの? 大丈夫?」
ササハの声にレンシュラが振り返った。
布が擦れる音が続き、ゆっくりと上体を起こすと、包帯を巻かれた自身の手を見ている。下を向く視線は前髪に隠れ、そのままじっと動かない。
「ノア? それともリオ?」
返事が無くてササハが呼ぶ。
ゆっくりと顔を上げた彼は、一筋の涙を零し微笑んだ。
【黒と赤の幻編】これにて完結です。
ご拝読ありがとうございました。感謝!




