20話 奥底の日々
窓もない、薄暗い室内で腹ばいに転がっていた。
家具らしい家具はなく、小さな椅子が一脚だけ置いてある狭い部屋。
腹ばいの体制からぐるりと反転し、雨漏りに染みた天井が見えた。もう一度ぐるりと身体を動かすと、また腹ばいの体制に戻る。
「あうー?」
赤子のような声を発しササハはこれが、昔の自分の記憶だということを思い出した。
どこか見覚えのある室内は、アジェ村に引っ越す前に一番長く住んでいた場所。殆ど記憶に残ってはいないが、間違いない。
住んでいた場所の地名は覚えていない。しかし、引っ越しの際、徒歩で移動した記憶がおぼろげに残っているので、アジェ村からそう遠くはないはずだ。
「あー。あうー」
「ササハ? ごめんね、お腹すいたねぇ」
一つだけある扉が開き、少しだけ若い祖母が室内へと入ってきた。扉のすぐ向こうは外の世界で、一瞬の隙間から海が見えたような気がした。
祖母は一つだけのパンと、まだ湯気が立っている器を椅子の上に置き、這いつくばるササハの背に覆いかぶさり脇から腕を通しササハを抱き起こした。
赤子とは違う、七、八歳ぐらいの子供の手足が視界に入った。子供はおむつをしているのか、ずり落ちたズボンの下には幾重にも布切れが巻かれている。
初老のやせ細った老婆が、だらりと四肢を投げ出す子供を抱えている。
硬いパンをスープに浸しせっせとササハの口に運ぶ。なのに記憶のササハは機嫌悪く泣き出し、口に入れたものを飲み込まず零してしまう。
と思えば急に視界が変わり、波の音が聴こえた。
「ササハ!」
ササハは手を引かれながら、少しだけ歩けるようになった。
しかしまだ長時間は立っておられず、周囲のことをあまり理解していない様子だった。
おぼつかない足取りで家のすぐ外を歩く。知らない、どす黒い肌をした手に引かれて。
切羽詰まった祖母の声音に、通りすがりが振り返っていく。
「あぁ、なんてこと。視えるのね。駄目よ、ああいうものについていっては駄目」
ぶつぶつと呟く祖母に、周囲は奇妙なものを見る目で通り過ぎていく。
「ほーら、ばーちゃんがまじないかけてあげる。大丈夫、もう視えなくなるからね。大丈夫、大丈夫」
家に戻った祖母はそう言って、ササハを力強く抱きしめていた。
ぐにゃりと視界が揺れると、今度はどこかの建物の裏に座っていた。外なのに足元にはボロボロの毛布が敷かれており、腰には長い、シーツを裂いて繋げたもので近くの木に繋がれていた。
「いやだ、犬みたいに……あの子どうしたのさ?」
ササハの視線は手元のツギハギ人形に向けられており、視界の外から声だけが届く。
「ああ、知らないのかい。あれは仕方ないんだよ」
「仕方ない?」
「事故か何かで両親を亡くしたらしくてよ、婆さんが一人で面倒みてるんだ。けど子供のほうは記憶喪失? か何からしくってね。何もかも忘れて赤ん坊みたいになちまったんだってよ」
「まあ、可哀想に」
「ほら、向こうから戻ってくる――あの人が言ってた婆さん。日中はああやって薬やらを売っているみたいだ。一人で留守番も出来ないらしいから、仕事中はこうやって見える場所に繋いでおくのさ」
「そうだったのねぇ。お孫さんの面倒を一人で」
お気の毒だわ。そう締めくくり、その声は聞こえなくなった。
可哀想に。大変ね。その言葉をササハはよく耳にした。村に引っ越したそのあとも。
また場面が変わり、季節は冬になっていた。ササハの視界は先程とは違い、地べたを這う高さから、子供の背丈まで高くなっていた。
「悪いけど、うちにも余裕なんてないんだよ」
「すいません。せめて、……せめて春まで待っていただけませんか? そうしたら薬を作って、すぐに家賃も」
「春って……話にならないよ」
怖い、男の声が去った。
「あーちゃん、おおといくの?」
ササハは舌足らずに祖母に話しかけた。
雪の降る薄暗い朝。祖母の背におぶさり、のんきにおしゃべりを楽しんだ。ササハの記憶と違う、まだ月の出ていない朝。
祖母が町を出るためくぐった門は、ロキアのものだった。
「あーちゃ。あーちゃ」
「なあに」
「うふふ」
ササハはごきげんに笑っていた。
そうかと思うと同時に、急に視界が回った。
ぐるぐるぐるぐると周り、ようやく今のササハを自覚する。
知らない記憶。覚えていない出来事。
二人の、見知らぬ男女がササハに笑いかけている。その顔が視界いっぱいに近づいても、不快感なんて微塵も感じなかった。
男の人の髪の毛は焦げ茶色で、眉はちょっと太め。わざわざ整えているのか、顎髭はギザギザでへんてこな形をしている。
女の人は真っ黒のサラサラの髪で、優しげな目元の美人さん。祖母と同じ赤茶の瞳で、笑う時の口の形がそっくりだった。
夜。男女は黒い異形から逃げていた。ササハは女性の腕にすっぽりと収まり、小ちゃな小ちゃな赤子の手が、女性の黒髪を握っていた。
男性も、女性も叫んでいるのに、声は聞こえなかった。山の中を逃げて、海に阻まれた。ササハの視界は女性の胸に塞がれて、揺れる振動だけが伝わった。
黒い煙が伸びてきて、女性の腕を包んだ。
黒い煙はササハまで届き、しかし次の瞬間女性の腕を離し、広い星空が飛び込んだ。
黒い煙と、青白い光。星空を隠していた黒が静まり、痩せて皺が増えた手がササハを引き寄せる。抱き上げることは出来ない。女性は上着を脱ぎ、ササハを包んで涙を流していた。
横を見る。何となく伸ばした手は赤子のものではなくて、子供のものへと成長していた。手を伸ばした先には、興味を引くキラキラと光る青白い檻がある。その檻の真ん中には鎖に繋がれた黒と、黒にもたれ掛かる人影が見えて――その人影が何かを認識する前に、ササハの目は塞がれた。
「なーんでこの子は思い出しちゃうかな」
「俺のせいかな。俺が最後に会いたいなんてワガママ言ったから」
「うるさい。今更弱るな」
――だれ? きゃあ!
「ふふ…………あぁ――大きくなったなぁ」
ぐんと抱き上げられ、ササハは叫ぶ。
さっき見た男の人。太っちょ眉の変てこ顎髭の人。
ササハを一度下ろし、またぎゅっと抱きしめる。
「サーサ」
――…………。
「ササちゃん」
――ばぁ、ちゃ
「やぁだ、こんな美人に対してー。今くらい母さんって呼んでよ」
「俺も俺も。俺もお父さんって呼んで欲しいなぁ!」
――っぅ、ひうっ……!
「もう、泣き虫んぼ」
「父さんが高い高いしてやるぞ。ほらほらー」
「止めなさいよ。嫌がってるじゃない」
「ええ! ごめん!」
――ぅああ、あ。うわあああ。おかあさ、ぉとおさん!
「ごめんねぇ。私がヘマしちゃったばっかりに」
「うぉおおおん! あの男! アイツだけは許せん! 一発ぶん殴ってやる!」
「やあだよ。それにあんたが、あんな奴と同じところに行くわけないでしょ」
「それでも殴りに行くぅ!!」
ササハを抱きしめたまま二人とも涙を流した。
痛みと、苦しみは無いのに、暖かいと、愛しいは沢山あった。なのに、それがどんどん遠ざかっていくのを感じた。
――やだ。嫌だ行かないで!
ササハから手を離し、二人は何かを悟った顔をしている。
――ササハも行く。一緒にいたい!
女性が口を開いた。けれど声はすでに届かなくなっていた。
優しい手が透けて、完全に離れてしまう。ササハも必死に叫んで追いかけたけれど、距離は開くばかりで追いつくことが出来ない。
――――! ――――!!
自身の声すら音にならなくなって、なのに視界はどんどん白に染まっていく。ササハも、もう何を叫んだのかは覚えていない。
ただ愛しくて、優しい時間。
誰かが「 良かった 」と、嬉しそうな涙声で言った。
「――――……?!」
ササハは目覚めて、なのに目を開ける事が出来なくて、静かにパニックになった。
「やっと起きたか?」
閉じた目にのしかかっていた圧迫感が遠のき、見えたのは白いタオルと、怒ったようなリオの顔。
「寝ながら泣くなよ。寝るならちゃんと寝ろ」
「……ノ、ァ?」
掠れた声で名前を呼んだ。
リオは不機嫌そうな表情のまま、再びササハの顔にタオルを押し付ける。
「お前また泣いてんのな」
「……っさぃ、コホ」
喉が乾いて張り付いている。
リオがベッドサイドにあるローチェストから水差しを取り、まだ横になったままのササハに飲ませようとし、上手くいかずに枕が濡れた。
ササハはリオの手を借りながら上半身を起こす。
一人用のベッドに清潔な白いシーツ。窓の外は星空が広がり、窓からの景色では分からないが、波の音がそう遠くない場所から届いている。
壁にべた付けされているベッドとの間に枕を挟み、クッション代わりに楽な姿勢を確かめた。
「ここは?」
「知らない」
「他に人は? レンシュラさんはどこ?」
「知らない。おれはここに居た。起きたら誰もいなかった。暇だからお前を見てた」
部屋の中に光源はなく、それでも月明かりだけで十分に明るかった。
見回した室内は知らない場所で、年季は入っているが白の壁に、白のカーテン。簡素なベッドは二つ置いてあり、二つのベッドの間には正方形のローチェスト。椅子もそれぞれのベッド脇に一脚ずつ置いてあるのに、リオは椅子には座らず、膝立ちでササハのベッドの上に伸びている。
部屋の様子からして診療所かしらと当たりをつける。建物や備品は古いようだが、掃除の行き届いた部屋と、清潔なシーツは心地よかった。
「ノアは眠くないの?」
「眠くない」
「リオはどうしてるの?」
「知らない」
リオから受け取った水差しをローチェストに戻す。どれ程眠っていたのだろうか。目元が熱くて、少し頭痛もする。身体がだるく、熱が出ていたのかも知れない。
手には包帯が巻かれ、首も同様の状態だ。首を絞められて振りほどく時にでも引っ掻いたようだ。じっとリオが包帯を見つめている。
「大丈夫か?」
「平気」
「本当は痛いんだろ」
「もう、そんなに痛くないよ。だから平気」
「本当に?」
「本当だよ」
「ふーん」
リオがベッドによじ登り、壁を背に座っていたササハの隣に同じように座る。リオは特に目的があったわけでもなく、窓を振り返り星空を楽しんでいる。
他の、人の声のしない遅い時間。窓から入る風が涼しくて、目を閉じ堪能する。
「お母さんに会ったの」
「んー?」
「お父さんにも、初めて会ったわ」
「良かったじゃん」
純粋な感想からリオが笑う。
「そうなの。とっても――幸せな時間だった」
閉じた視界で、口元が緩む。
とくとくと心臓が音を奏で、風が熱を和らげていく。
「ねえ、ノア」
「ん?」
「ノアは幽霊なの?」
「…………」
「ノアも、いつかどこかに行っちゃう?」
「知らない」
「また、わたしと会ってくれる?」
「さあな」
「なら、来年」
白のレースカーテンがふわりと揺れる。
ササハは目を閉じ身を委ねた。
「来年のお誕生日も、おめでとうって言いたいな」
すぐ隣からは、何の返事も返ってこなかった。




