治癒魔法以外の魔法が使われなくなったわけ
一月後。
石造りの駅のホームに、汽笛を響かせて汽車が入ってくる。
黒光りのする車体がいくつも繋げられ、先頭に据えられた機関部の煙突からはもうもうと煙が空へと流れていた。
その様子をボンネットというつばの広い女性帽子をかぶり、ブラウスの上からジャケットを羽織って旅着に身を包んだエッバが犬耳を抑えながら見ていた。尻尾は僕は治療院で着ているズボン・ワイシャツの上から一張羅のジャケットを羽織っている。
これから行くところを考えればみすぼらしいほどだが、これが僕の持っている最上級の服装だ。
「すごいですねー、ご主人様。こんな黒くて大きな煙突が付いた箱が、すごい速さで動くんですから」
「うん、そうだね」
この汽車をはじめとする科学の発達が、かつては人々の暮らしを支えた魔法が、省みられなくなった理由の一つだ。
数百年前は馬やゴーレムで荷や人を運んでいたという。
だが、ゴーレムを操れる魔法使いは一握りしかいない。
一方汽車は相応の教育を受ければ大体の人間が動かせる。鉄、それを作るための溶鉱炉、鉄鉱石を熱するためのコークス、線路の建設など魔法と比較すれば桁違いの準備・触媒を要するが、魔法使いを要請するよりも安上がりで済む。
戦争においても同様だ。少数の人間が魔法で攻撃を放つより、多くの人間が撃つ銃と大砲の方が強く扱いやすい。
大砲並みの破壊力を持つ魔法使いは滅多にいない。
だが大砲や銃を扱う兵士や将校が死んだり傷付いても、魔法使いと違いすぐに補充がきく。
こうして、少数の人間しか使えない魔法に代わり大勢の人間が使える科学がこの大陸に広く浸透するようになった。
現在、魔法は治癒魔法を除きこの大陸ではほとんど使われていない。
僕たちは汽車に乗り、帝都シュトゥットガルトへ赴くことになった。クリームヒルトからの一通の招待状によって。
「拝啓 オーラフ・ウンラント様
青葉若葉の芽吹く季節、如何お過ごしかしら?
先日は大変お世話になりましたわ。あなたのおかげで、物心ついてからずっと悩まされていた湿疹と縁を切ることができましたの。ここ数日、鏡を見るたびに喜びをかみしめております。
自分の見識不足を恥じいるばかりですわ。
つきましては、あなたから医学についていろいろと教えを受けたいと思いまして、帝都へお越しいただきたく存じます」
プライドの高い魔法医師が、医術士に教えを乞うなんて珍しい。僕にお礼をするための方便かもしれないが、医学の知識を習うという理由があれば患者を特別扱いしたことにはならない。なかなかうまい方法だ。
「無論お礼として十分な謝礼と、おもてなしも致しますわ。汽車の乗車券もあなたの助手の分を含め同封しましたわ。来ますわよね? かしこ」
という内容だ。丁寧なのか馬鹿にしているのはわからないが、魔法医師というのは研究と勉強ばかりしているせいか言葉遊びが下手で誤解されやすい人が多い。きっと彼女は真面目に書いたのだろう。
ここまでされて、下手に断ってアーデレ家から恨みを買うほうが危険か。
僕はそう判断し、行くことにした。留守の間、治療院のほうは知り合いの医術士に代理を頼んでおいたから大丈夫だろう。
「ご主人様、どうしたんですかー? 乗りましょうよー」
先に乗車したエッバの声で僕は我に返る。
万一に備え、護身用の武器を入れたポケットの中身を確かめる。ガラス同士が触れ合う澄んだ音。よし、大丈夫だ。
僕は膝を高く上げて汽車のタラップに足をかけた。
再びの汽笛の音とともに、汽車はゆっくりと走り出した。
はじめは徒歩のほうが早いと思われるくらいのスピードだが、徐々に駆け足ほどの速度になり、やがて馬が全力疾走しても追いつかないほどの速度となる。
「ご主人様―! 見てください、真っ黒な煙が後ろに飛んでってますよ! それに町がどんどん後ろに飛んでいきます! すごいですねー」
エッバは革張りの柔らかな席に後ろ向きに座り、窓越しに景色を見ていた。黒と茶の毛の混じった獣人の尾が興奮のあまりぶんぶんと左右に振れている。
そのせいでジャケットがめくれて、ブラウスの隙間から白い臀部がチラ見していた。
帝都への旅は正直言って気が重いが、彼女のあんな様子を見られるのなら悪くないだろう。純粋に汽車の旅を楽しむことにした。
クリームヒルトが用意してくれた席はなんと一等車、しかも貸し切りだった。汽車といえば屋根すらない、石炭を乗せる貨車に乗る三等車しか乗ったことがない僕たちにはずいぶんな贅沢だ。
体が沈む椅子と背中を預けられる背もたれがある部屋はすごく心地いい。車体は緩やかなカーブを通るたびに体が左右に揺れ、レールのつなぎ目を通るたびに上下に揺れるけれどその振動すら気持ちいい。
切符を切りに来た車掌が、一等車に獣人が乗っているのを見て怪訝な顔をしていたのだけが不愉快だったが。
発車しばらくは街の中を走っていた汽車は、すぐに平原や森に出る。
そして汽車を乗せる線路は、別の国へとつながっている。東方にあると言われる島国では全ての国境が海だそうだが、この大陸は陸を歩いていけばいずれ国境にたどり着く。
国境を越えた先にある他国とは今のところ戦争になっていない。
数十年前に平和条約が結ばれたからだ。
平和になった今では国境をまたぐように鉄道が敷かれ、人や物の行き来も盛んになっている。
馬車よりも速く、しかも大量の物資を運搬できる汽車が国中の主な都市を結ぶことで、人・物資の流通が飛躍的に効率化した。効率化された流通は商工業の発展をもたらし、発展は資金と投資を促し、それがさらなる発展を生んだ。
巨大化した国家予算により、医学の研究も進んだのだ。
でも平和万歳、と素直に喜べない。
平和は、所詮次の戦争のための準備期間でしかない。戦争が終わったのも互いの国が疲弊し、戦争を続けられなくなったからにすぎない。
互いの国力が充実し利害が対立すればまた戦争が起きるかもしれない。
嫌なことばかり考えていることに気が付き、僕は気持ちを切り替えるために外を見ることにした。
森の出口に見える、山に掘られた黒い闇。トンネルだ。汽車が警告のため汽笛を鳴らす。
「エッバ、窓を閉じろ」
窓から身を乗り出して景色を楽しんでいたエッバに僕は警告するが、一瞬遅れてトンネル内に充満した煙がエッバの顔を煤だらけにした。
この煙みたいに、平和も突如として破られるかもしれない。
いや、今が平和というのがそもそもの間違いだ。国家同士で戦争をしていないだけだ。