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やっぱり帰る

「アルノルト!」

 クリームヒルトに呼ばれているのに気が付き、僕ははっとして顔を上げる。彼女の燃えるように赤い髪の毛がふわりと舞った。昼間は真っ白に見えた白衣は、空の色と同じ藍色に染まり始めている。

「急に黙りこくってしまいましたから、心配しましたわ」

「どーしたの、ご主人様―? 具合でも悪いの?」

「いや…… ちょっとだけ、昔のことを思い出してたから。それと、さっきはひどいこと言ってごめん。それにメディスンヒールで人を傷つけた。君からすれば許せることじゃないだろうけど」

「いえ……わたくしはお爺様の遺体にメスを入れ、解剖しましたわ。それは事実。あなたがわたくしとエッバを、身を挺して守ってくださった。それも事実ですわ。思うところがないわけではないですけど。それより、アルノルト」

「あなた、魔法医師大学を中退した後、医術士になりましたのね」

「うん。逃げだって言ってくれていいよ。親しい人の解剖が怖いのに、医学への道を諦めきれなかった卑怯者だ」

 クリームヒルトの顔を正面から見られなくて、僕は目をそらす。視界の端に彼女の赤い髪が見えた。

「そんなことはありませんわよ、現にわたくしの病を治してくれたではありませんか。誰も治せなかったものを、あなたは治して見せたのですわよ?」

「ありがとう」

 一度は裏切ったはずの彼女にそう言われて、安心すると同時に胸が温かくなる。

 ここ数年ずっと心に引っかかっていたものがなくなって、胸のつかえがとれた気分だ。

 同時に、クリームヒルトが僕の顔をまじまじと見ていることに気が付く

「どうしたの?」

「いえ! ずいぶんと顔立ちが変わりましたのね…… 声も変わりましたし」

「まあね。成長期だったし、相当苦労したし、嫌なこともあった」

 今度は彼女が、僕から目をそらしてしまった。 

僕の正体がばれてから、なんとなく彼女の対応はぎこちない。

 アルノルトだと名乗らなかったことを怒っているのだろうか。

 それとも、やはり逃げ出したことを卑怯だと思っているのだろうか。

「それより、クリームヒルト」

「なんですの?」

 とても大事なことだから、はっきり言っておかないと。


「服を着替えて、シャワーを浴びてきて」


 彼女はそう言った僕の顔をまじまじと見て、僕と視線が合うと、なぜか勢いよく目をそらした。

「な、なぜですの……?」

 夜の闇でもわかるくらいに顔を真っ赤にしているが、わずかに頬が緩んでいる。

片手で体を抱え込むようにしていた。

 正体がばれる前に真っ白なショーツを見たときとは違う反応だ。

「毒ガスを少しだけど浴びた可能性があるから。急いで体や服を水で洗浄したほうがいい。解毒剤はないけど、濃度が薄い塩素は水で洗い流せば大丈夫だから」

「そ、そうですの……」

 なぜか落胆した声で、そう呟いた。

「じゃあ私もー」

 エッバがもう立ち上がって、手を勢い良く上げて返事した。服の裾を払って、土を落としている。

「エッバさん! あなた、もう少し安静にしていなさいな!」 

「ううん、すごく体調がいいんだー。全然痛くないし、ふらつかないし」

 それを聞いたハイマン教授は、にやりともせずに頷いた。

「当然だ」

 性格があれでも、腕前は確かだ。さすがは教授といったところか。

「かつて、獣人の解剖も行ったからな。獣人へのメガヒールも格段に効きが良くなった」

 この、ナチュラルに人を不快にする言動はどうにかならないものか。

「後のことは専門の人間に任せて、クリームヒルト嬢、アルノルト・ホフマン、それに付き添いの獣人はゆっくり休め」

 でも気にしている体力はないので、僕たちは彼の言うとおりにすることにした。



「アルノルト…… あなたもあがりましたの?」

 僕たちは魔法医師大学の宿直室に備え付けのシャワーを浴び、衣服も変えて、大学の食堂に来ていた。

 大学は大公家の居城であったヴュルテンベルク宮殿を使っており、かつてはダンスパーティーが開催された場所を食堂に改装している。そのため天井からシャンデリアがぶら下がり、部屋の壁沿いに階段があって、食堂を見下ろせる通路へと続いていた。

クリームヒルトの来ている服はさっきと同じ白衣。

でもシャワーを浴びてきたせいか、紅い髪がしっとりと水気を帯びて肌に張り付き、体からはかすかに石鹸の香りがして色っぽい。

僕は騒ぐ胸を押さえながら彼女の言葉にうなずいた。

エッバはメガヒールで治療したとはいえ重症だったため、塩素をクリームヒルトと一緒に洗い流した後に精密検査を受けている。

蝋燭とランプで照らされた食堂の中、僕とクリームヒルトがあの時と同じように並んで座っていた。

僕たちの前には食堂の従業員に頼んで、持ってきてもらったコーヒーが湯気を立てている。

ちなみに従業員は僕がいたときのようなおばさんではなく、若い女子だった。

 僕が医術士だと知れ渡っているのか、クリームヒルトに対する態度とはまるで違う。でもそんなことは気にしてはいられない。

 医術士になって、クリームヒルトの病気を治せたのだから。

「冷めないうちに、いただきましょう」

クリームヒルトはそう言って、ソーサーを片手で持ち、もう片方の手でカップを持ってゆっくりと口元で傾ける。

お互いに隣に座って、同じコーヒーを飲む。彼女はミルクを多めに、僕は少なめに。

カップをソーサーに置くときのかすかな音が部屋に響いた。

昔と同じ、二人で隣同士に座っているという状況。それが心地よくて。

今まで何をしてきたのか。どんな思いで日々を過ごしてきたのか。

正体がばれて気まずくなると思ったけど、あの時と同じシチュエーションが手伝ってか、とりとめのない話が次々と浮かんでくる。

数年間の空白を埋めるように多くのことを話して。コーヒーが空になったころ。

「アルノルト」

 クリームヒルトがわずかに身を寄せてきた。

「こんなことに巻き込んでしまって、申し訳ありませんわ。でも、あなたがいてくれて本当に嬉しかった」

「……僕は大したことはしてないよ。魔法医師の教授たちがメガヒールをかけて、エッバがテロリストを一人やっつけて、兵士たちが大勢のテロリストを捕まえて」

「過小評価はおよしなさい。あなたはわたくしの命の恩人ですわ」

 隣に座る彼女の膝が、僕の膝に触れた。

 数年前よりも柔らかい、彼女の体。白衣とタイトなスカート越しに、女性らしい肉付きが見え隠れする。

 僕は思わず唾を飲み込んだ。

「アルノルト?」

 白磁のような頬と燃えるように赤い髪が蝋燭とランプの光に照らされて幻想的な雰囲気をたたえていた。

 切れ長の瞳が、僕の顔を映し出している。

 そのまま彼女の体に手を伸ばしそうになる。

 数年ぶりに彼女に出会えたこと、湿疹の治った彼女がとても美しかったこと、一緒に治療して、危ない目にもあって、彼女と一応だけど和解できて。

 ため込んでいた気持ちが、あふれ出しそうになる。

 でも。

 身分の差と、一度は逃げ出したという負い目が、僕の手を止めてしまった。

 見つめあったままで、一瞬とも永遠とも思える時間が過ぎる。


でもその時間は、食堂に響いた足音で破られた。


「クリームヒルト! それにホフマン君」

「……終わった」

 くたびれた様子のクリストハルト教授とハイマン教授だった。僕たちはとっさに身を離し、平静を装う。

「こんなことに巻き込んでしまって、済まなかった」

 クリストハルト教授は僕を見て、真っ先に頭を下げた。

ハイマン教授は、白衣に付着した血痕が増えていた。

「テロリストの尋問に付き合っていたのでな、時間を食った。だがおかげでよい情報が引き出せた、と感謝されたよ」

 マッドな笑顔にクリームヒルトは顔をしかめた。

「知らんのか? 尋問や拷問に魔法医師が関わるのは常識だぞ。情報を取っている最中に死なれでもしたら意味がないからな」

 クリストハルト教授は苦い顔をしながらも、頷いた。

「最初に魔法医師大学を襲撃してきたのは陽動の部隊で、あの主犯格をはじめとする少数精鋭の本体が魔法医師数名を誘拐して政府との交渉材料にする予定だったらしい」

「要求の内容までは知らなかったらしいが、見当はつくな。組織の理念からして獣人の権利拡大か、活動資金のために多大な身代金の要求かだろう」

「でもあんな大規模な組織が…… ほかにも構成員はいるでしょうし、同様のテロが再び起きる恐れはありませんの?」

「その心配はないだろう。別の構成員の口から地方のグライヒハイトの潜伏場所がつかめたから、すぐに地方に駐屯している兵に制圧に向かうよう電報で指示を出したそうだ。それにこういったテロは各地で一斉に起こすから、行動を起こそうとしている組織なら物資の流れが活発になって尻尾がつかみやすい」

「それなら、魔法医師大学が襲撃される恐れは、もうないのですわね……」

 クリームヒルトが胸をなでおろす。

「今のところはな。だが私の研究テーマである破傷風についてよいデータが取れた。獣人にはバクテリウムヒールが効きづらかったのだが、これで効力が増すだろう。あのテロリストには礼を言わねばな」

「お前はいったい、何がしたいんだ」

 敬語を使う必要も感じず、僕は質問をぶつけた。だが彼は涼しい顔で受け流す。

「私は、医学の研究と実践以外に興味はない。尋問もその一環というだけだ」

「……私はそろそろお暇するよ」

少し剣呑な雰囲気の中、クリストハルト教授が席を立った。

「お父様? もう行かれるのですか?」

「ああ。先ほどの襲撃の件が知れわたり、多少面倒な事態になってな……」

「誰かお怪我でも?」

「いや、怪我人の治療は終わっている。これからの予定に、少し面倒ごとが起きてな」

 クリストハルト教授は曖昧に言うと、校舎に戻って行った。

 そろそろ寝ないと、明日が辛くなるな。

 僕はそう思って、席を立った。その後ろから声がかけられた。

「逃げるのか?」

 ハイマン教授の言葉に頷く。もう悔しいとも思わない。

「僕がここで非常勤講師をやるなんて、無理だって今日わかったでしょう? それに医術士としての仕事に誇りもあるし、治療院も放ってはおけませんから。明日にはどちらにしろ帰る予定でしたし」

「アルノルト、それは……」

 クリームヒルトが引き留めたけど、こればかりはどうしようもない。

「正直、私は貴様に大学に戻ってほしいと思うのだがね」

 ハイマン教授が僕のほうを見て言った。その言葉に耳を疑う。

 僕が医術士だとばらし、逃げ出したと非難したこいつが、なぜ?

「あのメディスンヒール、一地方においておくには惜しい。破傷風の研究とは別テーマだがぜひとも研究してみたいのだ。他の薬品ではできないのか? 試行回数はどれくらいだ? 人間や獣人以外にも試したことはあるか?」

 こいつは、人間や獣人を実験対象としか思っていないのか。

「質問には答えかねます。大学にも戻りません」

「そうか。だが貴様は必ず戻ってくるだろう」

 気になる一言だったけど、それ以上その場にいたくなくて僕は席を立った。



翌日の昼。もう一晩アーデレ家に泊めてもらった後、テロの後だというのに元気なエッバとともに軽く帝都を観光し、それが終わると僕はシュトゥットガルトの駅に来ていた。

予定通りハイデルベルクに帰ることにした僕を、たった一人クリームヒルトだけが見送りに来てくれた。あの時と、同じ。クリストハルト教授は昨日言っていた面倒な事態とやらで、来られないらしい。

エッバはすでに汽車内に乗り込んでいる。一等車がたいそう気に入ったらしい。

「本当に、よろしいですの? あなたほどの実力があればいつでも復学はできますのよ?」

春風にたなびく赤髪を手で押さえながら、クリームヒルトが僕を引き留める。だけど。

「いや、いいよ。久し振りに大学に戻ったり、重傷者の治療にあたってよくわかった。ああいう雰囲気は気づまりするよ。やっぱり僕は地方の小さな治療院でやっているのが性に合ってる」

「そうですの……」

 何度も繰り返したやりとり。

「あなたは数年前、幼いころから魔法医師の教育を受けてきたわたくしの成績を常に上回りましたわ。魔法医師の道を諦めても、誰も治せなかったわたくしの病を治して見せました。そして今回は、命まで救っていただきました。感謝してもしきれませんわ」

彼女の気持ちが伝わってくる、あんな顔をさせてしまうことに胸が痛む。

 でも僕が魔法医師大学で仕事をしても、周囲から白い目で見られるのが目に見えている。クリームヒルトやクリストハルト教授、僕の授業を受けたいくらかの生徒は受け入れてくれるけど、否定的な空気には勝てない。

「でも、気が向いたらいつでも戻ってきてくださいまし。再びあなたと机を並べたり、共に仕事をすることを楽しみにしておりますわ」

 出発が近いことを知らせるベルが駅に響く。

「もう行くよ」

 それに返事せず、僕が汽車の方へ足を向けると、後ろからクリームヒルトの意を決したような声が聞こえた。

「アルノルト!」

 彼女の声に振り向くと。

 クリームヒルトの赤い顔と、紅い髪が目の前に迫ってきて。

 ピンク色の唇が、僕のそれに押し付けられていた。

 彼女のくぐもったような息が耳に心地よくて、やわらかいぷりぷりした感触の唇が官能的で。

 彼女の甘い香りが鼻の奥いっぱいに広がって、

 びっくりもしたけれど、それ以上に胸がくすぐったくてふわふわした。

 どれくらいそうしていたのだろう。

 息が苦しくなるころ、クリームヒルトは体を離した。

「わたくしの初めてですわ。光栄に思いなさい」

「決して、わたくしのことが忘れられないように」

 クリームヒルトは髪の色以上に真っ赤な顔で、でも僕からは決して目をそらさなかった。

 汽車が駅を離れ、周囲の景色が高速で後ろに流れ、トンネルに入っても唇の感触が消えなかった。


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