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もう、忘れたの

「はあ、なんですかこれは? 目くらまし?」


 インテリが馬鹿にしたような声を上げるのがガス越しに聞こえる。

 ガスは火山でも火事でも白か黒だ。色付きのガスなど、化学の専門家でもなければめったにお目にかかることはない。


 だからこそ、用心深いはずのインテリが判断を誤ったのだろう。

 黄緑のガスをわずかに吸い込むやインテリの状態が急変した。

 まず、猛烈な咳が出た。

 風邪の咳などとは比べ物にならない。常人が呼吸をする回数は一分間に十数回だが、それをはるかに上回る頻度と速度で咳をし、鼻から鼻水が垂れ、口からは痰が出る。

 当然呼吸などできようはずもない。

 さらに目は白目が充血し、一瞬にしてただれ始めた。

 傷ついたものを前にした魔法医師としての本能か、クリームヒルトが駆け寄ろうとする。


「近寄らないで! 巻き込まれるぞ!」

 僕の警告に彼女は歩を止めた。

 あと一歩近づいていたら、彼女も同じ運命をたどっていただろう。

 そうしている間に、彼は嘔吐し始め、吐しゃ物に体を突っ込んでうつぶせに倒れた。

 指先も動かなくなる。どうやら意識を失ったらしい。


「な、何が……」

 クリームヒルトはメディスンヒールを使って人がのたうち回ることに呆然としているが、別に不思議じゃない。

「メディスンヒールの力で、とある薬の濃度を調整しただけだよ」

「薬……? あれが、ですの?」

「魔法医師大学にあっただろ? 塩素だよ」

 塩素。

 午前中に見せてもらった、水の腐敗を防ぐための薬品だ。それと同じものをハイデルベルクから持ってきて、メディスンヒールで濃度を調整した。


 塩素は水分と結びつくと塩酸と化し、有機体を破壊する。

 

 細菌に対しては殺菌作用として働くが、その作用機序は人体に対しても変わらない。


 呼吸器に侵入すれば気管の水分と結合して塩酸と化す。それによって気管を、目の網膜の水分と結びつけば網膜を酸で破壊できる。


「僕が初めてメディスンヒールを使ったときのことは覚えてる?」

「ええ…… わたくしの湿疹を治したときですわよね。なぜガス状になるのか、疑問でしたけど」

「いざというとき、こうやって使うためなんだ。僕は『毒ガス』って呼んでるけど」 


 僕も昔、テロに巻き込まれた人間を見た。

 怖くなり、身を守る方法を身に着けたいと考えた。

 周りの人間や患者はそこまで考えなかった。どこか楽観的で、周囲でテロが起こっても自分だけは大丈夫と考えている節がある。

 でも医学の勉強をしたせいで人が傷ついて、傷口を見ればどういう風に怪我をしたかリアルに想像できてしまう僕はとても他人事とは思えなかった。

 まず第一に考えたのは拳銃や剣など護身用の武器を持つことだ。

 いざというときに法律や警察はすぐ僕を助けてくれないから。助けを呼びに行く間に、傷つけられたり、殺されたりすることもあるだろう。


 だが勉強ばかりしてきた僕は武器の扱いなんて上手いわけもなく。素手よりは多少ましだろうが、武器を相手に奪われればもっとひどい結果になることは目に見えている。

ならば武器を使わない、ボクシングやレスリングといった素手の格闘技を習うにしても、武器以上に体格がものをいう世界では僕みたいな貧弱な人間にはとても向いていない。

 なら強い人間を横においておけばいい。エッバを助手にしたのはそのためもある。


 エッバは獣人だ。獣人はかつて西の大陸から奴隷として連れてこられ、多くが糞尿垂れ流し、ろくな食料もない輸送船内で命を落とした。命からがらこの地に渡ってきた者も過酷な労働で病気になるか命を落とし、天寿を全うできたものはほとんどいない。

 淘汰されてきた血統のたまものか、人間とは比較にならないほどの運動神経を持ち、傭兵や曲芸の分野で活躍するものが多い。

 だがエッバが傍にいない場合もある。もしその時に身に危険がせまったら?

 自分の手持ちの、ヒールや医学知識で身を守る方法はないか?

 そう思った末に出来上がったのがこれだ。


 他の薬でも試したが、容易にガスになること、効きが早いことなどから塩素が一番いい。

 クリームヒルトは倒れたインテリを見て唖然としていたが、僕のほうに向きなおると憎しみを込めた視線で睨みつけた。


「あなた、人を癒すための力で何ということを」


 理想が高い彼女にしてみれば、医学を殺傷に使うなど許せることではないのだろう。

 でも。


「毒と薬は紙一重だよ。量が毒を成す。薬だって、量次第で毒になる。薬理学の授業で教わるだろう? 独学の混じってる僕より、大学で勉強した君のほうが詳しいはずだ」


 僕は震える手を握りしめ、努めて平然と言う。

「治す技術は綺麗なものばかりじゃない。魔法医師にだって、覚えがあるだろう」

彼女は一瞬だけ動揺したが、すぐに強気な調子で食って掛かった。

「あなたに魔法医師の何がわかりますの! お爺様を貶めるような発言は取り消しなさい! 一体何を根拠に……」

 それからも彼女は口々に僕をののしる。


 普段の彼女なら絶対に言わないようなセリフまで。

 彼女も緊張で疲れていたのだろう。

 それはわかっていたはずなのに。

 僕も疲れていたのか。

 つい。

 彼女に対し決して言ってはならない、彼女の古傷を抉る言葉を言ってしまった。



「お爺様、お爺様って…… 君は自分のおじいさんに何をしたのかもう忘れたの?」



フラグを回収していきます。

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