魔法医師
魔法の名前は適当です。
今日の午前は治療院が休みなので、エッバと僕らの住む街「ハイデルベルク」を歩く。僕は長袖のシャツにズボンというシンプルな服装で、エッバは長袖のチュニックに動きやすいチノパンツ。ゆったりとしたチュニックの生地の上からでも豊かな胸部がその存在を主張していた。
ハイデルベルクはオレンジ色の屋根の家が立ち並び、町の渓谷の北斜面には古代に建てられた城がまだその姿を残しており、観光名所の一つとなっている。この国で最も温暖な街の一つで、真冬でもめったに雪が降らない。
住宅街から少し歩くと商店街となり、オープンカフェを開いている飲食店、店先に果物や野菜を並べ布の日よけで上を覆っている八百屋、雑貨を扱う店などが立ち並ぶ。
「ご主人様とお出かけなんて、すごく嬉しいです」
「いつも行ってるだろ?」
「嬉しいことは何度やっても嬉しいんです」
よほど大切なことなのか、エッバは二度どころか三度繰り返す。
「そういうものか」
「そういうものです!」
エッバがチュニックからはみ出た黒と茶色の毛が混じった尾を左右に大きく振って喜びを表現していた。
医療の進歩とともに町の風景も変わったという。
かつては通りの窓から残飯が捨てられ、路上に放し飼いになっている豚がそれを食べていた。人糞も同様だった。
それが今では道から家畜も糞尿も残飯も一掃され、ずいぶんと清潔になった。
小石と砂利で舗装された道路は雨が降っても水たまりが形成されにくく、馬車の往来も容易となる。
そんなことを考えていると、すれ違った馬車が道路に落ちていた石に車輪を乗り上げる。馬車が大きく左右に揺れ、エッバの方に向かってきた。
危ないなんて言わない。必要ない。
エッバは僕が気付いた時にはすでに馬車から距離を取っていたからだ。
尾をひるがえして犬のシェパードのようにしなやかに跳びあがる。身体能力に秀でた獣人ならではの動きだ。
だが馬車の御者は当たったと思ったらしく、馬のくつわを引っ張って馬車を止め、降りてきた。
「すまねえ、大丈夫かあんちゃん……」
帽子を脱いで僕に頭を下げたが、隣にいたエッバを見るや態度を変えた。
「どこに目をつけてやがる、獣人風情が」
御者が吐いてきた唾を苦もなくかわしたエッバ。
なのに怒鳴りつけてきただけの御者に怯え、僕の腕を抱いた。
腕に押し付けられたエッバの豊かな胸越しに伝わってくる、彼女の震え。
エッバは時折こうして震えが走る。心の傷はここ数年で癒えても、刻みつけられた記憶のフラッシュバックは完治してない。
僕は何も言わず、ただ彼女の頭と犬耳を撫でた。エッバの髪はサラサラで、犬耳は柔らかさの中に芯があって気持ちがいい。
エッバは目をつむり、撫でられるがままになっていた。嫌なことがあった時はエッバにこうしてあげるのが僕たち二人の間の決まりごとの一つだ。
普段ならこうしていれば震えは収まる。だが今回はエッバは耳を逆立て、突如目を見開いた。
エッバの視線の先。そこには、馬車に轢かれたのだろうか、血にまみれた子猫が横たわっていた。
「ご主人様」
「……いや」
猫を素早く視診した僕は首を横に振った。獣医ではないけれどもう取り返しのつかないことはわかる。
猫は吐血し、四肢が潰され、腸すらはみ出している。
呼吸も荒く、失血性のショックだろう。
医術士の使うヒールは小さな傷を治すのが精いっぱいで、ここまでの重傷を治療することは不可能だ
再びエッバの耳が逆立つ。
ローファーが地面を叩く音が、雑踏の中でやけにはっきりと聞こえた。
白衣を身にまとった少女が、死にかかっている猫のほうへと近づいていく。
血を吸い続けてきたかのように赤い髪が、腰まで伸びて白衣を血潮で染めるかのように彩っている。切れ長の意志が強そうな瞳に整った鼻梁は女神の彫像を思わせる美しさだ。しかし顔にいくつか湿疹があり、その美しさを損なっていた。
白衣の裾からのぞく手や足はまるでミルクのように白く艶があるのに、湿疹のできた顔だけは潰れたトマトのシミがかかったかのように赤く、膿が滲んでさえいる。
かなり痒みがあるのか、歩きながらでさえ時折湿疹を指で引っ掻いていた。
彼女の顔を見た途端に、僕は胸が痛いほど騒ぐ。
「ご主人様―。どうしたの?」
エッバが犬耳を軽く伏せ、心配そうに僕を見上げてくる。
「何でもないよ」
僕は他の人間と同じようにこの場を立ち去ろうとしたけど、彼女から目が離せなかった。体が血で染まり内臓がはみ出た猫を彼女は恐れる様子もなく、その傍らにゆっくりとひざまずく。ブーツの底に血が付着した。
彼女は痙攣している猫を観察し、いつの間にか取り出した手袋をはめた手で軽く猫を触った。それから掌を猫にかざし、桃色の唇を開く。
「メガヒール」
掌から溢れ出る青い光が猫を包み込む。
荒い呼吸も、冷汗も収まり、飛び出た腸も吸い込まれるように腹部に収まっていく。内臓がすべて戻った後に傷口に青い光が集中し、元通りにふさがった。
「ほら、終わりましたわよ」
致命傷を負った動物を元通りにしたことを、自慢したり賞賛を求めたりすることも一切なく、ただ当然のことのように彼女は言った。
猫を心配していたエッバを飼い主と勘違いしたらしい。
だが致命傷を治療された猫は、馬車に轢かれたことが夢のように「ごろにゃん」と一鳴きすると、軽快な足取りでその場を去って行く。やがてその姿は雑踏の中に消えていった。
「あ、ありがとうございます」
「気にすることはないですわ。傷つき病める者を癒すことが『魔法医師』の誇りであり高貴なる義務ですから」
少女は顔の湿疹を再び引っ掻く。その時の表情に自嘲めいたものを感じた。
だがそれも一瞬のことで、颯爽とその場を後にする。
血を吸ったかのように赤い髪は雑踏に紛れてもその存在感が色あせることはなかったが、やがて彼女は人ごみの中へ消えていった。
「すごかったですね」
「うん。魔法医師でもあれだけの使い手は珍しい」
魔法医師。それは医術士と同じく医学を生業とする者だが、専門が違う。
医術士は生薬や魔法、それにちょっとした小技などあらゆるものを併用し小さな病気を治す。命にかかわらないような病気を担当することが多い。
一方魔法医師は強力な治癒魔法を用いて、重症や重病の患者を治していく。命にかかわる病気を治すのが仕事だ。
医学を生業とする者は現在大別してその二つだ。魔法医師は大学への入学、高価な学費、厳しい国家試験と実習など、ハードルと給料と社会的ステイタスが非常に高い。
一方医術士は学校に行く必要すらない。昔ながらの徒弟制で、そこで数年働いた後に試験を受け、一定の知識と治癒魔法が使えると認められれば資格を持てるのだ。
そして二者の差を決定的なものにしているのが「メガヒール」だ。綿密な解剖学・生理学の知識をもとに行う魔法で、人間の自己治癒力を高めるだけの通常のヒールと違い、失った血液、破壊された骨や内臓などの内部組織を「創り出して」しまう。
メガヒールの開発によりそれまで救えなかった重傷者の治療が可能になった。
習得には魔法医師大学に入学し、猛勉強に耐え、ある特殊な条件をクリアすることで可能になるといわれるがその内容は一般には公開されていない。
「それにしても、あのメガヒール……」
メガヒールは魔力の消費がけた外れに大きく、熟練した魔法医師でも一日五、六回の使用が限界。しかも使用した直後は立っているのもおぼつかないほどに消費する。だがあの少女はまだ余力を残していたようにすら思える。相当の使い手だ。