だが帰る
「本日はお疲れさまでしたわ」
授業が終わった後、数人の学生から質問を受けた後に教室から出るとクリームヒルトがそう声をかけてくる。
「それじゃ、屋敷に戻ろうか。明日はエッバと帝都を観光して回る予定だし、早めに休みたい」
これ以上魔法医師大学にいたくない。気疲れするし、どうも慣れない。
しかしそれを聞いたクリームヒルトは驚いたように声を出す。
「もう帰るんですの? 魔法医師大学の中をもっと案内して差し上げますわよ」
「そうだけど、これ以上いる意味もないし。見学も授業も終わったしね。それに僕の正体がばれるリスクもある」
「それはそうですけど……」
僕は彼女にこれ以上言われないうちにエッバとともに足早に外へ向かおうとする。だけど教室の後ろの出口から出てきたクリストハルト教授と鉢合わせした。
「先ほどの授業は素晴らしかった。ウンラント君!」
彼はそう言って僕の手をがっしりと握る。農民や労働者の手とはまるで違う、魔法医師独特の固くも細い指。
魔法医師学長からお褒めの言葉をいただくのは名誉なことだけど、一介の医術士には不似合いな待遇にも感じられて複雑だ。
ここが廊下で、すれ違う学生や教授もいるというのに。
学長が一日講師と握手をしてる?
彼、いったい何者なんだ?
やんごとなきお方かしら。
周囲のひそひそとした話し声が痛い。
こういう風に珍しい知識と巡り合ったときに我を忘れたように夢中になるのは、クリームヒルトとそっくりで親子なのだと感じさせた。
それから彼は、他の教授にも紹介したいと僕を医局へ案内しようと言い出した。
「お父様……?」
さすがのクリームヒルトも目を丸くしていた。
医局とは魔法医師の控室のようなところで、魔法医師のたまり場だ。そんなところへ入っていくなんて冗談じゃない。気づまりしそうだ。
魔法医師の聖域兼たまり場で、医術士なんてそこにいていい人間じゃない。
だけどすっかり上機嫌な彼は、僕の言葉など耳に入る様子がなかった。
まずいな…… このままだと断りづらい。
しかし今の状態に最後の一押しをしたのは、意外な人物だった。
「いーじゃないですかー、行きましょー。ご主人様にはいつも堂々としていてほしいんですー」
エッバの声の調子はいつもと同じだけど、僕にだけわかる陰を感じた。
僕の態度を見て、不安に感じたのかもしれない。彼女の心はひびの入った卵のようなもので、ちょっとしたことで壊れてしまう。
「わかりました。行きましょう」
僕は観念して、いたたまれない場所へと足を踏み出す。
クリストハルト教授に案内され医局へ入室する。
医局は入る前から独特の、よく言えば神聖な悪く言えば排他的なオーラが漂っている感じで、入り口の前で躊躇してしまう。
だが足踏みしていてもらちが明かないので、クリストハルト教授、クリームヒルトに続いて入室する。
医局とは普通の学校でいえば職員室のようなものだ。
白衣を身にまとった壮年・老年が分厚い医学書の並べられ、置かれた机の前に座り談笑したり議論したりしていた。その中にはさっきのハイマン教授もいたが、僕とエッバを見ると一斉に怪訝な表情を見せた。
僕の顔を見て、さっきの授業を聞いてくれた人でさえそうだった。
部外者が入ってきたことを快く思ってはいないのだろう。
彼らと目が合うのが嫌で、視線をさまよわせていると医局の壁に飾られた額縁が目に入った。歴代学長の写真らしく、簡単な経歴と名前が書かれているが、そのうちの一つに目が留まる。
豊かな白いひげを蓄え、丸縁の眼鏡をかけた上品で真面目そうな紳士。
苗字が、アーデレ。
「あれは……」
「お察しの通り、わたくしのお爺様の写真ですわ。誠実で優しい方で、わたくしとよく遊んで、よく魔法医師とはこうあるべきと教えてくださいました。簡単な医学の絵本も見せてくださって、大好きでしたわ」
過去形でそう言ったので、僕はそれ以上の詮索を避けた。
それに祖父の写真を見るクリームヒルトの目が悲しげで、申し訳なさを感じたのも気になった。
当然のことだろうけど。
「皆さん、この男性は本日一日講師として招き、東方の医学の講義をしてくれたオーラフ・ウンラントという方です。教授の皆様にご紹介いたしたく、こちらへ案内しました」
「お忙しいところ、申し訳ありません…… ご紹介にあずかりましたオーラフ・ウンラントです。こちらは助手のエッバです」
クリストハルト教授の紹介で、僕は軽く頭を下げた。
並みいる教授たちは突然のことに呆然としながらも注目している。
うう、きまり悪い。
というか、それだけのためにわざわざ僕を医局へ案内したのだろうか?
それから、クリストハルト教授は軽く唾を飲み込んだ。
並みいる教授の顔を見渡す。
さっきまでと雰囲気が変わった彼の様子に、医局内は水を打ったように静まり返った。
それから、寝耳に水の情報が僕の耳朶に飛び込んでくる。
「皆さま、このウンラントを一日講師ではなく、非常勤講師として迎えたいと思います」




