フラッシュバック
夜、薄暗い部屋の中、僕は割り当てられた自室で授業の準備をしていた。
急な話だったし、一人に教えるのと大勢で教えるのではやり方も違う。
医術士になるための生活費稼ぎで、塾で非常勤講師をしていたのがこんなところで役に
立つとは。
森の中の敷地とはいえ、少し暑くなってきたので窓を開けた。屋敷を囲む木々が春の風
で葉擦れの音を立てている。
エッバはすでにアーデレ家から貸してもらった薄手のネグリジェ一枚ですやすやと眠っ
ていた。
「んにゅ…… ご主人様ぁ」
呼吸に合わせて豊かな胸が艶かしく上下するから目の毒だ。生地が薄手なので普段の寝
間着より下の乳房の形がはっきりとわかってさらに目の毒だ。
手元の資料に目を戻すとコンコン、と規則正しいノックの音がする。僕が入室を促すと
ゆっくりとドアを開けてクリームヒルトが入ってきた。
エッバと違いネグリジェではなくゆったりとした部屋着を均整の取れた体にまとってい
る。エッバがいるとはいえ男がいる部屋を訪ねて来るのだから、当然か。
でもこんな時間に男子の部屋を訪ねるなんて何を考えているのだろうか。
「精が出ますわね」
クリームヒルトは僕の隣に腰かけて、作成中の授業で使うための資料を眺めている。
彼女はランプの光で濃い陰ができているであろう僕の顔を見て、少し表情を暗くした。
「ご迷惑ではありませんでしたの?冷静になって考えると、大分無理をさせたようで」
「大丈夫だよ。教わるのも、教えるのも嫌いじゃないから」
「それよりも、彼女と同室で寝てもよいかと言われた時は、何を考えているのかと思いましたけど」
クリームヒルトはそう言って、安眠しているエッバのほうを見る。かたや僕のことをやや軽蔑したような目で見ていた。
そういうことか。
「彼女は少し訳ありでね。一人で寝られないから、必ず一緒の部屋で寝るんだ」
僕は苦笑いしながら、エッバの頭をなでる。彼女の黒とこげ茶の混じった髪の中、犬耳の付け根をなでると特にくすぐったそうに喉を鳴らす。
「あなたと、彼女はいったいどういう関係……」
風が少し強くなり、葉擦れの音が強くなる。その勢いか、開いていた窓が閉じられ大きな音を立てた。
「ひっ」
クリームヒルトは動じなかったが、エッバは弾かれたように飛び起きて、僕の手に抱き着いて震え始めた。
小刻みに震え、顔がランプの灯でもわかるほど青白い。
歯ががちがちとなり、俯いて、何とも視線を合わせようとしない。
クリームヒルトは何が起きたのか、と呆然としていた。
僕はエッバを振り払わず、声もかけず、ただ背中をなで続けた。風が戸を揺らす音がカタカタと部屋の中に響き、机の上に置いた羽ペンがわずかに揺れている。
やがてエッバの震えが収まり、静かな寝息を立て始める。
「ご主人様……」
犬のように甘えるその様子からは、先ほどまでの恐怖が微塵も感じられない。
「まあ、こんな感じで保護者と被保護者って感じかな」
僕はクリームヒルトのほうに向きなおり、さっきの質問に答える。
「こんな風に、大きな物音とか、人の罵声で怯えるんだ。君が静かに入ってきてくれて助かった」
「何がありましたの?」
「話したくないこともあるよ」
クリームヒルトが心配してくれているのはわかるけど、僕は嫌な言い方にならないように、でもはっきりと返事を返す。
「申し訳ございませんわ」
クリームヒルトは素直に頭を下げる。下ろしている髪が左右に流れ、普段は隠されている白いうなじがはっきりと見えた。背中との境目、普段は隠されている場所。それがあらわになったことに感情が高ぶる。
こんな時だというのに。いや、こんな時だからか。
「あなたは、不思議な人ですわね」
クリームヒルトは気持ちを漏らすように、つぶやいた。
「医術士なのに卓越した知識を持ち、獣人を引き連れて、なつかれて、彼女は訳ありで。どうして医術士になったのか知りたいですけど、聞かないことにしますわ」
「助かるよ」
それから少しだけとりとめのないことを話し、彼女は部屋を出ていった。
彼女が退室したので、僕も明日の授業の準備に戻る。
何事もなければいいのだけど。




