狂宴
大河の程近くの開けた広場に、狂気の宴の幕が上がった。
力任せに振り抜いた爪が脇腹を無慈悲に抉る。
サーベルタイガーの圧倒的な膂力に肉と毛皮を引き摺られ、一匹のサルが捩じ伏せられる。
彼は即死こそ免れたものの、立ち上がる間もなく押し寄せる野獣の群れに踏み潰され、動かなくなった。
樹上から急襲するパンサーを掻い潜り、背後からしがみつき、牙を立てる。
悲鳴をあげる肉を前足で押さえつけ、ぶちぶちと音を立てて喰い千切る。
勢いそのままに振り返り、即座にその血肉を吐き捨てて身を躱す。
血と唾液に目を潰されたヒグマが、太い腕をところ構わず振り乱した。
鋭い爪が肩を裂き、バイトリーダーは痛みに目を細めた。
隙をついて飛びかかったハイエナは、目一杯開かれた顎に顔面の右半分を噛み砕かれ即死した。
混沌とした戦場を器用にするすると駆け回る白兎。それを狙った猛禽類の突撃は虚しくも空を切り、バイトリーダーの背を掠め、ヒグマの延髄を砕いた。
致命傷を受けたヒグマが闇雲に放った一撃は、ヘラジカの巨大な角をへし折った。
全幅の信頼を置く武器を失ったヘラジカは一目散に逃げ去ろうとし、飛来した丸太の振り子に首の骨を折られた。
発動した罠が新たな罠を呼び起こし、戦場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
バイトリーダーは襲い来る罠を避け、揺れる丸太のブランコに足を掛けて飛び跳ねる。
その立体的な挙動に、対空手段の乏しいオオカミは捩じ伏せられ、痛々しい傷痕の残るパンサーは止めを刺される。
バイトリーダーの神経を甘い電流が駆け巡る。
彼は今、かつてないほどに満たされていた。
○
バイトリーダーはかつて人間だった。
ヒトとして生を受け、人間として社会に身を置き、そして全てを失った。
あるいは初めから何も得てなどいなかったか。
はたまた過分な才を持て余してしまったのか。
分解能というものがある。
定量的な事物を認識する識別能力とその限界。
平たく言えば、ある紙切れをどれだけ細かく千切って認識できるか、という能力だ。
例えばヒトの目の分解能は低いため、花粉の一粒さえ肉眼で捉えることができない。
光学顕微鏡の分解能ではウイルスや原子を捉えることはできず、電子顕微鏡が必要とされる。
イヌの嗅覚の分解能はヒトよりも百万倍以上優れていると言われるが、悪臭で気絶することは極稀にしかない。
彼らは匂いという名の紙切れを、百万倍以上に拡大するのではなく、ヒトよりも百万倍以上細かく切り分けられるだけなのだ。
鳥類の時間分解能はヒトよりも遥かに優れるとする説があり、カクカクと巫山戯たように頭を振る仕草は、彼らにとって常識的な速度で周囲を確認しているにすぎないとも言われる。
遺伝か突然変異か後天的疾患か、はたまた血の滲むような努力の賜物か。
バイトリーダーがもつ時間分解能は、常人の二十倍以上だった。
認識、反応、思考、決断、行動。あらゆる行動様式で優位に立ちつづける天賦の才。
プロゲーマーとして頭角を現した彼が、化物とアダ名され公式大会から排斥されるまで、そう長い時間はかからなかった。
スポーツはあくまで興行。
圧倒的な力を持つ魔王など、スポンサー企業からしてみれば邪魔な存在でしかない。
残された他のプロゲーマーたちは彼の殿堂入りを祝し、強敵の撤退を惜しみ、そして安堵した。
バイトリーダーは、己が誰からも必要とされていないことを理解した。
妬まれ、疎まれ、羨まれ、人類として突出した能力に傷つけられ、彼は心を狂わせた。
壊れた心に残されたのは、自分が化物だという残酷な自覚と、純粋無垢な闘争心だけだった。
コマ送りのように遅い世界でひとり、孤独を癒すために強者を求めた。
化物と蔑まれ、化物であることを認めた、血に飢えた獣は、ただ全力を尽くすに相応しい強敵を求めて彷徨った。
そうして辿り着いた果てがこのジャングルだった。ここでは誰もが殺意に塗れ、我武者羅に生きようとしていた。
言葉はいらない。名もない獣として振るまい、ただ行動と結果のみが残る世界。
獅子博兎を宗として、決して妥協を許さず、常に全力を尽くすことが貴ばれる世界。
人間も化物に垣根はない。彼らは愚直なまでに獣で、果てしなく対等な存在だった。
バイトリーダーはジャングルを愛していた。
だからこそ知りたかった。
それが何者なのか。
運営が用意したダミースコアなのか。
ゲームを台無しにするチートなのか。
夢にまでみた、本物の実力者なのか。
序列第二位『全知全能』の白兎。
どの議論においても常に実在を否定されてきた、WoJの都市伝説。
血の河に紅く染められ屍の山に立った草食動物が、微かに笑ったような気がした。
○
最後の一頭、シロサイの巨体が泥に沈むと、辺りには風と雨の音だけが響き渡った。
全身に傷を負ったサーベルタイガーと、未だに無傷の白兎が向かい合う。
万策尽きた。
ウサギには彼に止めを刺す能力がない。
手負いのサーベルタイガーには白兎が逃げるのを咎められない。
互いが己の敗北を悟った。
しかし諦めてはいなかった。
互いが互いへ殺意を向けるのをやめなかった。
白兎はおもむろに大河の下流へと歩き出した。
バイトリーダーは、その後に続いて歩く。
彼らには経過した時間を知る術がない。
スコールから一時間が経てば、視界がブラックアウトして強制終了させられる。
おそらく残された時間はそう長くない。
雨の音だけが一層大きく響いていた。
ふとバイトリーダーは疑問に思った。
――何か違和感がある。何に違和感がある?
突然、白兎が駆け出した。
――違う。追ってはいけない。何故そう思う?
バイトリーダーは後を追って駆け出した。
彼は自分の直感を信じきれなかった。
――やめろ。まだ間に合う。……何故そう思う?
鼓動が、暴風が、雨の音が、彼を満たした。
――そうだ! 足りないんだ!
轟。
――音が!
バイトリーダーは振り返った。
しかし既に手遅れだった。
塞き止められていた濁流が、大量の土砂と大木を引き連れて襲いかかった。
バイトリーダーはあっけなく呑み込まれた。
白兎は近くの樹へ飛び乗り、濁流を躱した。
その樹は押し寄せる質量に耐えられず、根本から折れて流される。
最後の策――北部は霊峰の水源付近に幾重もの仕掛けを施し、ある程度水量を増した頃に遠隔で塞き止め、ダム決壊による擬似的な土石流を発生させる試みは、最高のタイミングで実ったのだ。
白兎は勝利に酔いしれて笑った。
ひどく乗り心地の悪い原木のカヌーに揺られ、止めどなく涌き出るカタルシスに呑まれ、高揚感のまま濁流へ身を投げようかと考えたそのとき。
水流の先で、サーベルタイガーの肉体が浮かんだ。
大型トラックの衝突に勝るとも劣らない衝撃を受け、荒れ狂う泥の奔流に全身を引き裂かれ、今なお傷口に土を刷り込まれる敗者の惨状。
白兎は驚異的なバランス感覚をもって流れる大木を乗り継いで、その肉塊へと駆け出した。
慢心や感傷があったわけではない。
ただ、確信めいた予感があったのだ。
――まだ彼は生きている。
彼が最寄りの大木に乗り込むと同時、バイトリーダーは全霊を振り絞って同じ木にしがみついた。
目はもはや開かず、鼻と唇は抉れ、雄々しい毛皮は見るも無惨に破れ、左肩から腹にかけて泥まみれの筋肉が露出している。
揺らぎ、浮き、沈み、回転する、不安定な足場に立てることが信じられないほどの満身創痍。
序列第二位の白兎は、その姿にある種の神秘性を感じていた。
血生臭い戦場に最後まで抗う者。
孤軍奮闘、されど一騎当千。
最も多くを喰らい、最も強く在りつづける、最強であるがゆえの最強。
序列第一位『喰い千切る盟主』。
互いに歩み寄り、おもむろに立ち止まる。
肉体の脆弱さも、刻まれた致命の傷痕も、彼らにとっては関係ない。
ジャングルの頂点に君臨する彼らは、最後の瞬間まで獣でありつづけた。