饗宴
中央区画の原生林は初心者がジャングルに慣れ親しむのに最も適した土地であり、身を隠す場所が最も多い戦略的な区画でもある。
そのため上級者は初心者のために日頃自重しているが、定期的に起きるスコールの際には、茂みに引っ込む初心者に代わって現れ、箍が外れたように狂騒する。
見たこともないような悪夢を前にしてテンションを上げている新参者に、本物の野性を教えるため。
なにより彼ら自身の舌根を悦ばせるため。
現在バイトリーダーが目指しているのは、北の霊峰から南部にかけてジャングルを縦に割る大河・ハイドロヒュドラのほど近く。大雨の影響により水量を増しつつある危険地帯だった。
基本的に危険な場所であるほど立ち回りが難しく、より強者が集う傾向にある。
道中の戦闘で少し出遅れたバイトリーダーが着く頃には、既に混沌の宴が始まっていた。
地上ではゴリラとカンガルーが殴り合う。
見上げれば樹冠のなかハヤブサとピューマがドッグファイトを繰り広げている。
樹上と地上を立体的に駆け巡るツキノワグマとヒグマとグリズリーが三つ巴の様相を呈し、茂みからはブチハイエナが簒奪の瞬間を待ちわびる。
対峙した者以外にも気を張り巡らせなければ生き残ることはできないサバイバルの妙。
幾重もの駆け引きに魅せられて、シマリスもコウモリもトンビも、新参者たちは種族を越えて同じ枝葉から仲よく観戦する。
ハイドロヒュドラから聞こえてくる溢れんばかりの濁流の轟音は等しく彼らの理性を吹きとばし、熱狂する咆哮をも掻き消した。
バイトリーダーは気を逸らせることなく茂みに分け入り、大人しく観戦した。
地上での闘いが佳境に入る。
カンガルーの強靭な脚から繰り出された両足蹴りを、ゴリラが掴んだのだ。
千載一遇の好機にゴリラの丸太のような腕が隆起し、力任せに振り回さんとする。
観衆の雄叫びに呼応するように濁流は激しさを増し、決着の時をますます盛り上げていた。
しかしそれはカンガルーの仕掛けた罠だった。
八十キロに及ぶ自重を支えて立ち上がれる筋肉の塊、尻尾を器用に絡ませてゴリラの足を掬うと、形勢は一転した。
闘いの始まる前に握り拳でドラミングをしたことから動物知識の浅さを見抜いたカンガルーの洞察力の勝利だ。
もしも投げようとせず、その万力で両足を握り潰されていたなら、決して勝敗は逆転しなかっただろう。
滑りながらも必死に後ずさり、体制を立て直そうとするゴリラだったが、このチャンスを逃すカンガルーではない。
彼は滑りやすい泥ではなく表面に凹凸のある太い木の根を踏み込み、水平方向へ素早く跳躍する。
一瞬で肉薄した獣の形相に面食らい、怯えたゴリラは咄嗟に頭部を守る他なく、一方的な攻撃を受けて泥のなかに撃沈した。
見事勝利を収めたカンガルーに喝采が送られる。
聴衆に向けてサイドチェスト、サイドトライセップスと次々にポージングを披露しはじめた。
一見サービス精神旺盛なように見えるが、よく観察すればそれはカンガルーの基本姿勢を大きく崩すものではなく、襲撃者を釣りだして叩き伏せることを目的としているのは明白だった。
身を潜める襲撃者たちは、自分には荷が重いと思ったのか余所の動向を探るばかりで動こうとしない。
バイトリーダーは決した趨勢に興味を失くし、立ち去ろうとした。
しかしその前に影が割り込む。
チャンピオンはキザな仕草で進行方向の樹木に凭れかかり、挑発するように前足を振る。芸達者なカンガルーだ。
バイトリーダーはその仕草を一瞥すると、カンガルーに向かって歩を進めた。
こうも分かりやすく闘争の場を作らせておいて、尻尾を巻いて逃げ出したのでは男が廃る。
未だ痙攣している血塗れのゴリラを横目に、二頭の獣が対峙した。
新たな挑戦者に沸き上がるオーディエンス。
しかし濁流も歓声も叩きつける雨粒も、もはや獣たちの世界には存在しない。
彼らの認識からは生存と殺戮を除く一切が排除され、その色彩の失われた視界には敵の隆起する筋骨が鮮明に浮かび上がる。
サーベルタイガーが低く構えて牙を剥き唸ると、カンガルーもまた両足を揃えた変則的なフリッカースタイルで構えた。
――ボクシング。
L-VRゲームで培ったにしろ現実のボクサーにしろ、彼らの操るカンガルーは厄介極まりない。
小刻みな跳躍によるフットワークは強靭なバネをもつカンガルーと相性が良く、尻尾による姿勢保持に加えて蹴りという選択肢さえ新たに手に入れたそれは、頂点の一角とも言うべき洗練された暴力だ。
素手のヒトならば何十人と束になったところで敵わない圧倒的な脅威。
しかし対峙しているのは単なるヒトではない。
カンガルーが得たものがヒトの技術ならば、相対するサーベルタイガーが持つのはヒトの執念。
野獣の暴威に加えるべきは知恵や技術ではない。悪意だ。
張り詰めた糸のような凍てつく重圧を前にして、バイトリーダーは死線へと踏み入った。
一足飛びに駆け、両前足を大きく広げ、爪と牙を剥き出しにして強襲する。
躍りかかる巨体。抱きすくめる腕。喰らいつく顎門。
爪が食い込めば忽ち引き倒し、牙が食い込めば即ち致死。持てるアドバンテージを無慈悲に叩きつける野獣の心得、捕食の極意。
獰猛な死が顕現した刹那。カンガルーが繰り出した恐るべき速さのフリッカージャブは、僅か半秒にも満たない濃密な世界の中にあって、確実に狙い済まして放たれたものだった。
その狙いは剣歯の根本。長く不安定なそれは普通の歯よりも掛かる圧力が大きく、その分だけ脆い。
攻防一体、迫り来るは秒間五発を誇る神速の拳。
しかしバイトリーダーは僅かな首の動きと、口内への最小限のダメージだけで致命打を逃れる。
その瞬発力と判断力に瞠目する間もなく、拳を噛み砕かれぬよう手元へ引き込むと、第二の刃――死の抱擁がカンガルーに襲いかかる。
弾けるように振るわれた左拳が片爪を撃ち落とし、咄嗟に前方へ跳躍することで残る爪をも掻い潜る。
死角――喉元、首の下。重力に従って落ちてくる巨体は凶器であり、急所である。
両足と尾の三点で泥濘む大地を踏みしめて押し返す。ここが正念場。死合の急所。
ありったけの力を振り絞り体躯を支えると、左フックで脇腹を抉り、右アッパーが腹部を突き上げる。バイトリーダーは苦しげに呻いた。
しかし、その二発から先は続かなかった。
コンマ三秒。死角に潜ってから経ったその時間は、かの爪牙が再び肉体を襲うには十分だった。
表皮に食い込む爪から迸る苦痛と重量に、カンガルーは右膝を屈する。
決着の瞬間、見上げればそこに広がるのはぞろりと立ち並んだ牙の群れ。
――信じられない。
――何故、気づ――!
カンガルーは驚愕と畏怖の念を隠せずにいた。
必殺の瞬間、頭部を噛み砕くのを突然止めて懐へと潜り込んだサーベルタイガー。
くずおれる身体の隙間にするりと入り込み、バランスを崩した脚部が跳ね上げられ、無防備な肢体が宙を舞う。
次の瞬間、カンガルーは樹冠から降り注ぐ毒蛇の雨に食い破られ絶命した。
○
熱狂する観客など歯牙にもかけず、バイトリーダーは戦場を後にした。
彼が求めるのは名誉でもなければ称賛でもない。
――ただ、強者の血肉を。
彼は双眸を爛々と輝かせ、脳を麻薬に浸したかのような奇妙な覚醒状態で辺りを見渡す。
雨の一粒さえはっきりと視認できる。些細な地形の妙を余さず把握し、利用する算段が幾千幾万と浮かんでは消える。
――今の自分に勝てる生物など、この世の何処にも存在しないだろう。
そう確信できるほどの高揚感。かつてないほど鋭敏に研ぎ澄まされた直感が、視界の隅に僅かな違和感を捉える。
しかし新たな獲物の登場に奮い立ったのも束の間、その高揚は儚くも解けた。
目立たない茂みの奥のそのまた木の洞。
根元に近い小さな窪みで、小さな小さなジャパニーズホワイトが震えていた。