オードブル
密林の南東に位置する、血と泥と腸の湿原。
陽がよく差し込む明るい雰囲気の沼沢地は、その神秘的な景観に反しておどろおどろしい愛称で親しまれる。
その理由は語るに及ばず。
このエリアがゲームを始めたばかりの初心者にとって最も立ち入り易く、最も風光明媚で、そして最も理不尽な領域だからに他ならない。
陽光に煌めく水面は穏やかに揺れ、朝露に濡れる新緑はまるで宝石のよう。
太く畝る木の根に足を絡めとられ、水底に身を隠した猛獣の糧となるまで、迷い込んだ初心者たちは雄大な景色に感嘆の溜め息を惜しまないだろう。
決して気を緩めることなく水辺を警戒する賢明な諸君にはもれなくウェルカムドリンクが振る舞われる。垂れ下がる蔦に擬態した毒蛇たちの独自ブレンドだ、どうかご遠慮なさらず。
美しい薔薇に棘があるように。極彩色のキノコが毒をもつように。この湿原もまたヘドロのような悪意をその景観でもって包み隠しているのだ。
そんな殺伐としたサバイバルゲームに身を投じていることを忘れてしまうほどに清閑とした密林の奥地を、一頭の猛獣が傷だらけの巨体を揺らして歩いていた。
筋骨隆々の上半身。射竦める鋭い眼光。血と泥に塗れてなお荒々しくも美しい毛皮。なによりも特徴的なのはその研ぎ澄まされた長大な牙……。
サーベルタイガーだ。
真名をバイトリーダーという。
彼が得意とする肩を怒らせるようにして猫科特有のしなを作る歩き方は、専門家をして本物のトラと見分けがつかないと言わしめるほどだ。
しかし今はその汚れきった風体もあいまって随分と窮屈そうに見える。
時おり息を切らせ、苦しそうに呻く様子はまさに手負いの獣を思わせた。
彼は広い湖を避け、毛皮が汚れるのも厭わずに泥濘んだ沼の畔をしばらく歩くと、ある大きな水溜まりに目を留めておもむろに立ち止まった。
その水はお世辞にも澄んでいるとは言えない。身体を清めるために立ち寄ったわけではないようだ。
彼は僅かに息を潜めると、そこになにかがあるのを確信しているかのように、波紋ひとつ起こらない水面を凝視した。
先程までとは打って変わって疲労を感じさせない佇まいのまま微動だにしない。
森林に、ざわめく風と微かな獣の唸り声だけが木霊していた。
そのまま動きを見せずに数分が経った。
血塗れのトラは消耗した体力を隠すように、荒くなる吐息を唸り声で掻き消している。
そわそわと集中力を欠きはじめ、ついに勘違いだったことを認めたのか、水面から顔を背けた。
――瞬間。
音も響かぬ刹那、水飛沫が舞い踊る。
大きく裂けた長大な顎が、泥も土も宙を舞う水滴をも喰らい、生物史上屈指の咬合力をもって血肉を貪らんと襲いかかった。
サーベルタイガーは虚を突かれながらも横っ飛びに跳ねた。剥き出しになった乱杭歯のひとつが毛皮を掠め、大顎の先端ではトラの尾が翻される。
恐ろしい死の門から辛くも逃れた彼は、勝機を得たとばかりにその獣へと向き直る。
イリエワニ。世界最大のワニとして知られるクロコダイルの一種だ。
小さく口を開き不揃いの牙を覗かせる様は、あたかも薄ら笑いを浮かべているかのように見える。
もし己に猫科動物の四肢があったならば一も二もなく飛びかかっている、とでも言わんばかりの不遜で不敵な笑みだ。
しかし捕食者の恐ろしい貌を見てなお怯まず、陸上に身を晒したワニを冷たく見据えて、バイトリーダーは深く嗤う。
己が種の誇りを見せつけるように獰猛な牙を剥き出しにして、弓の弦を引き絞るように低く構える。
対するイリエワニは視界の妨げにならない程度の絶妙な塩梅で口を開け、剣虎の突撃を待ち受ける。
両雄ともに歴戦の肉食獣。最善を尽くし野性を勝ち抜いてきた狩人。故に紙一重の差が生死を分けるのだ。
トラはじりじりと側面に回り込もうとする。
対するワニは頭を僅かに動かして牽制する。その背後には沼があり、大きく回り込むことはできない。地の理はワニに味方している。そして時間さえも。
纏わりついた水滴がサーベルタイガーから体温と体力を奪っていく。前足の先が僅かに震えたのをワニは見逃さない。
狡猾に含み笑い、勝利を確実なものにすべく威嚇して寄せつけない。
もはや一刻の猶予もない。バイトリーダーは意を決して飛び込んだ。
イリエワニとてあくまで生物。骨格という制限があるため咄嗟に噛みつける範囲は限られる。
敵の正面から外れて大きな弧を描くように駆け出し、体を傾けて曲がり、後足を狙って牙を晒す。ここならば相手の顎は届かない――!
しかしそれを予見していたかのように、ワニはもうひとつの武器を振りかざした。
ワニといえば顎の力。そして獲物を水中へと引きずり込む体重。遊泳能力と潜水能力には凄まじいものがあり、特に全身を回転させて肉を喰い千切る『デスロール』と呼ばれる技は有名で、ときにはカバやスイギュウといった大型の動物さえ瀕死に追いこむ破壊力をもつ。
だからこそ、この武器は軽視されがちになる。
丸太のように太く重い尾の一撃を受けて、トラの巨体が宙を舞った。
跳ね上げられた高さは二メートルにも及び、途中で樹木に引っ掛かることもない。
ぐにゃり、と背骨が不自然に歪み、やがて上昇が止まる。
彼はこのまま物理法則に従って落ちるだろう。
雌雄は決した。
地上ではワニが顎を目一杯開いて見上げている。
降り注ぐ命の滴を待ちわびるように。
しかし実際のところそうではないのは、彼自身が最もよく理解していた。
尾に、あまりにも手応えがなさすぎたのだ。
流麗に身を捻り、バイトリーダーは唯一絶対の死角であるワニの背中に着地した。
ワニは捕食者を振り払おうと慌てて体を捩るも、敵は重さ百キロを越える巨体。加えて鱗には爪が深々と食い込み、誇り高き刃が延髄を刺し貫くまで一秒も残されていない。
死の直前、ワニの脳裏を過ったのは尾の一撃を与えたとき――薄皮一枚触れさせながら肉体をすり抜けたかのような、神業ともいうべき跳躍だった。
強敵が絶命したのを見届けると、剣虎は前足でその骸を押さえつけ、牙をもって引きちぎった。
硬い表皮を突き破ると、そこには紅く滴るご馳走が待ち受けている。
固く引き締まった筋繊維は本来噛み切ることさえ困難で、泥ごと獲物を呑み込む生物特有の生臭さに満ち溢れているのだろう。
バイトリーダーは吹き上がる鮮血を浴び、陶然と舌なめずりした。
彼は戦果を胃袋にしまい終えると、血で汚れた爪と口回りを拭いもせず戦場を後にした。
堂々と、王者の貫禄で、振り返りもせず。
無惨に喰い散らされた獣の死骸は、彼の露悪趣味のためのものではない。
強大な獣の死骸はそれ自体が『危険地帯』の証明であり、弱者を遠ざけ強者を呼び寄せる道標となる。
彼らが正道を歩むための道標。
この密林の正道とはケダモノであること。
群れを拒み、喰らい喰われる修羅に身を堕とし、畜生の身に甘んじることなく、弱肉強食の神髄を得ることだ。
やがてぽつぽつと降り始めた雨は、吹き止まない強風とともに穏やかな環境を貪り尽くす。
これから徐々に激しさを増し、ゆくゆくは大河に氾濫をもたらすのだろう。
視界は悪く、足場はさらに悪くなる。身体は風に流され、四肢は寒さにかじかむ。
月に一度ほどの頻度で起こる天候不順は、雲の流れや匂いの違い――有り体に言えば現実と同じような変化――の他にはほとんど予兆がなく、準備もなしに嵌まってしまえばゲームを続けることは儘ならない。
常に姿を変え続ける過酷な大自然を生き延びるのは、本物の実力者のみ。
人間としてゲームを楽しむ者ではなく、ヒトとして獣の本懐を遂げんとする者のみ。
バイトリーダーは密林の只中を歩き続ける。まだ見ぬ強者の肉を求めて。
彼の実力の高さは、彼の辿った足跡に残される無数の血肉が証明している。
降り注ぐ雨にいつしか泥も返り血もすっかり洗い流され、傷ひとつない雄々しき金毛が密林に浮かび上がった。
木々をしならせる風雨さえものともせず、バイトリーダーは手負いの演技を止め、確かな足取りで中央区画は原生林――初心者エリアへと向かった。