幕間・前夜祭
レトロでアンティークなカフェテリアの片隅で、奇妙な人形が読書に耽っている。
筋肉質で健康的な、裸の男性をかたどった像だ。
特徴的な頭部には人の頭の代わりに直径三十センチほどのまっさらな真球が座していて、局部はヤスリで削られたかのように何も残っていない。
見る者を不安にさせるアンバランス。
反面、その内心の窺い知れないミステリアスな風貌が落ち着いた店内の雰囲気にマッチしていると思うものもいるだろう。
茶系色の多いなかにあってよく映える古代ギリシャの大理石像にも似た白色は、傷も汚れもない美しい肢体を惜しげもなく晒して気品溢れる仕草で佇んでいた。
本を片手にマグカップを手に取り、たっぷりと注がれたブラックコーヒーを口元に運ぶ様はまるで一枚の絵画のよう。
純白の球体に触れたコーヒーが跡形もなく消える様はまるで出来の悪い夢のよう。
そんなどことなく近寄りがたい雰囲気の彫像に、堂々と歩み寄る影がひとつ。
頭頂部が黒くなりつつある金髪が眩しい、モデルのように背筋が伸びたヤンキー風の男だ。虎の意匠が刺繍されたスカジャンを着こなす姿はなかなか迫力がある。
白い球頭は彼の姿を認めると、本を閉じて軽く手を振った。
「おお、ユキにゃん。おひさー」
「おっす、セツナさん。ひさしぶり」
クラシカルな空気はどこへやら、ゆるい距離感で挨拶を交わした彼らは相好を崩した。
ちなみにセツナとは玉響がSNS上で名乗っているHNだ。
「どうしたの? ユキにゃんがこんなところに来るなんて珍しいじゃん」
「こんなところとか言うなよ常連さん。……まあ、なんだ、ちょっと面貸せや」
ユキと呼ばれた男が紅色の唇をつり上げる。
肉食獣のような笑みを前にして、玉響はまるで気後れすることなく返事をした。
「いいよー。いつものところね」
「いや、今回はいつものじゃなくて……」
「じゃ、先に行ってるね」
「あ、おい! 話を聞け!」
球頭の彫刻はくつくつと笑いながら、どこからともなく現れたタブレットのようなものに指を這わせると、瞬く間にいずこへと消え去ってしまった。
取り残されたユキは諦めたように溜め息を吐くと、同じようにタブレットを操作して転移した。
誰もいなくなったテーブルで、永遠に冷めない仮想上のコーヒーが寂しげに湯気を立ち上らせた。
○
暗い空間に蝋燭の火のような、暖かくも頼りない光が灯る。
光は徐々に大きく、より明るくなり、転移先の――広々とした清涼感溢れる内装を照らしだした。
広く明るい談話スペースと幾つもの個室。
反対側には迷路のように入り組んだ本棚の小道。
詰め込まれた書籍の数々は単なる見かけ倒しなどではなく、実際に手にとって読むことができる著作権切れのデータだ。
そしてその蔵書のほとんどは動物の生態や植生、気象学などといったジャングルを生き延びるのに役立つ知恵で構成される。
有志プレイヤーの手によってVRSNS上に創られた、WoJの話題を中心に扱う交流用ロビー『WoJ図書館』では日夜様々な情報が飛び交っている。
新しい書籍や論文の討議、新規参入予定者のライセンス取得に向けた勉強会、犬派と猫派の仁義なき抗争、エトセトラ。
しかし今日に限っては人も疎らで活気がない。
玉響はふと思い至ってタブレット型コンソールを呼び出すと、匿名掲示板に接続した。
彼女の予想通りSNSと打って変わって、掲示板ではひっきりなしに発言が更新されている。
そこが普段以上の熱気に包まれているのを確認すると、状況を察した玉響は肩を落とした。
「そうか、今日だったのか……」
WoJは月に一度、アップデートが行われる。
地形が変化し、樹皮の傷痕は上書きされ、常に新鮮な環境が提供される……というのが公式の声明だったが、プレイヤーたちはそこに別の要素を見出だした。
アップデート中は再ログインやリスポーンが不可となり、全ての区画で強制ログアウトさせられる。しかし中央区画の原生林に限り、数時間だけゲームを続行できるのだ。
そしてゲーム上の死を本物の死に見立てた原始的な生存競争は定期イベントと化した。
よりにもよってそのアップデートが今日。
玉響はなんとも間の悪いことだ、と相棒の不運を嘆かずにはいられなかった。
「どうした、アンタが落ち込むなんて珍しいな」
「ああ、うん。ボクの友達が昨日チュートリアルを終えたばかりでね。あんな野獣の群れに押し潰されたらトラウマになるんじゃないかって」
「友達って誰! 男!? 彼氏!?」
ユキは食い気味に詰め寄った。その瞳には好奇の光が満ち溢れている。
「女の子だよ。彼女だよ。付き合ってるよ」
「へー! いつから! そんな話ちっともしなかったじゃん!」
「だってウザくなるじゃんキミ……。見かけによらず乙女なんだから……」
「むむむ」
恋バナは乙女にとって平安時代以前から嗜まれる由緒正しい娯楽であるからして、彼の反応も宜なるかなといったところである。
見かけによらず乙女な男は何も言い返せず、総合創作媒体で手縫いしたスカジャンの虎を指先でなぞった。
そこでようやく本題を思い出したのか、彼は真剣な面持ちで玉響に告げる。
「こほん。話を戻すけど、今日はオレも参戦するから。セツナさんは来ないでよ」
「えー、それ酷くない? ユキにゃん初スコールでしょ? 見たい見たい。シュガーくんも心配だし」
「酷くない。それに戦うのは初めてでもスコール自体は初体験ではない。シュガーさんだってそんなか弱い人じゃないだろ、会ったことないけど」
強めに言い含められて玉響は頬を膨らませた。気に入らないからといって他人のログインにケチをつけるような真似は本来マナー違反だ。
真球の頭が一回り膨張し、その威圧感にユキは少し怯む。
「アンタが『やる』って宣言した日には必ずロクでもないことが起きるから嫌なんだよ。地震で強制終了されたり桜島が噴火したり冷却装置の電池が壊れたり。全部セツナさんの仕業だろ」
「ちがうもーん!」
酷すぎる強弁だが、彼にとっては切実な問題だった。既に生存競争は始まっているのだ。膨れる玉響に決して退かず、ユキは主張を通そうとする。
「『もーん』じゃないんだよ、『もーん』じゃ。とにかく、時間がないからオレはもう行くけど、絶対着いてくるなよ!」
「わかった、わかったよ。しょうがないなあ」
間延びした口調でぼんやり告げる玉響に対して不信を募らせつつ、ユキはログアウトした。
ちなみにユキの知る由もないことだが、玉響は最初から動くつもりなど微塵もなかった。
夜半にシュガーと待ち合わせていたからだ。
虚空から本を取り出した恋する乙女は、相棒が悪夢のひとときから解放され帰ってくるそのときを静かに待ちわびた。