チュートリアル
ある晴れた冬の午後三時。
シュガーは仄明るい自室の中心でL-VR機器の準備を進めていた。つい先月購入したばかりの最新モデルだ。
スマートな流線形。メタリックな光沢のパールホワイト。戦闘機のキャノピーを思わせる形状だがアクリル樹脂とは違い、分厚い合金製の外殻は全体が不透明で内部構造が見通せない。
矯めつ眇めつ眺めた末に小休憩を挟んだにもかかわらず、彼女はまだまだ興奮を抑えられずにいた。
少なくない身銭を切ってまでL-VR機器を購入した理由には、より小型で安価なVR端末では亜現実への接続制限が大きすぎたこともある。
その二つはさながら百年前のパソコンとスマートフォンの関係に似ていて、既存のコンテンツを消費するだけの出力装置では創造的な活動がほとんどできない。
玉響に招待されるばかりでなく、たまには自分がL-VRお茶会を主催してあげたいという彼女の惚気が事の発端だった。
シュガーは深く澱んだ瞳に暗い光を宿らせて、外部コード類の接続と冷却装置の充電をすっかり済ませたのを指差し確認すると、自身の装備を整えるために全裸になった。
視覚映像補助ゴーグルは書いて字のごとく網膜を通じた映像の補助装置として機能する。
必要不可欠というわけではないが、瞼越しに光量を調節することで視覚的な違和感が少なくなるため、プロゲーマーの間では特に重宝される。
眼鏡を着用していても問題なく使える幅広仕様だ。
ゴーグルのこめかみ付近にあるコードをヘルメット内部の端子と接続し、その上からヘルメットをかぶる。
フルフェイス・インターフェースは本体機とプレイヤーの感覚情報を調整する中継機だ。
匂いや風圧に音声の出力、酸素の供給もここで行われる。
高精度で脳波を入出力する機能もあり、このヘルメットと本体機のリンクこそ肝心要のボトルネックだというのは、例によって話が長い相棒の言だ。
次いで絶縁素材の貞操帯を忘れず装着して、神経接続機器を着込む。
指先からつま先まで全身に凹凸のある金属部品が点在する薄手のボディスーツだ。
保温性に優れる冬用と通気性に優れる夏用の二タイプが販売されているため見た目ほど寒くはない。
首元のラバーを専用のチョーカーに繋げてヘルメットと接続する。これで接続は完了だ。
シュガーはぴっちりと肌に吸いつくスーツによって露になる慎ましやかなボディラインを撫で下ろす。
普段なら溜め息のひとつでも吐くところだが、今はそういう気分ではないらしい。
少女は満足げに鼻をならすと、自室の中央に鎮座する棺桶にいそいそと横たわり、すっぽり収まった。
内部に生えている幾つかのコードをヘルメットから突出した接続端子と換気弁に繋ぎ、躊躇うことなく起動を命じる。
下部の箱型が低い唸り声とともに大量の外気を吸い込みはじめる。
棺桶の内部構造がエアバッグのように膨れあがり、スーツの金属部品に電極が押し当てられる。
脊髄や頸椎付近のひときわ大きい凹凸が嵌まると、万が一にも外れないよう余分に膨らみ全身が圧迫された。
ヘルメット内は十分な空間が保たれており呼吸をするのに不快感はない。
身体を締めつける圧迫感も慣れてしまえば却って心地良いものに感じられる。
シュガーは眠ってしまいそうな快感の中でゆっくりと目を瞑り、脳へと流れ込む情報に身を委ねた。
○
気がつけば彼女は初期設定の衣装、白いポロシャツと短パンに身を包み、真っ白な世界に立っていた。
辺りを見渡せば、果てのない空間にいくつかのホログラムがしゃぼん玉のように浮かんでいる。
VRSNS、マルチメディア、インターネット、オフィスアプリケーション、総合創作媒体、VR図書館。
設定やダウンロードをしなくても扱えるコンテンツに紛れた、目当てのアイコンを探す。
買い切りでありながらサービス終了の概念がある、少し珍しいゲーム。
サービス終了の際にはソロプレイモードを実装すると公式が宣言したゲーム。
WoJと銘打たれたアイコンを引き寄せて触れれば、白一色の殺風景な空間は、半紙を墨に浸けたようにたちまち黒く塗り潰されていった。
『Hello,World』
電子音声が耳元に囁く。
それと同時に、漆黒の空間に緑色のワイヤーフレームが張り巡らされた。
壁と天井はなく、格子状の世界はところどころが盛り上がり、あるいは木々の輪郭を浮かび上がらせている。
たったこれだけの変化で地面の凹凸や木の幹まで認識できるのは、脳の補正能力と人間の想像力の賜物だろうか。
そう思う彼女の目の前に一羽の鳥が舞い降りた。
緑色の線で象られた巨大な鳥だ。体高は四メートルほどもあり、その頭からは彼岸花の花弁に似た特徴的な冠羽が生えている。
緑の枠線だけの存在だが、神話に登場するヤタガラスのような神秘性さえ感じられる。
その巨鳥はおもむろに大きく仰け反り、その長大な翼――を象ったフレームを広げると、獣のような咆哮をあげた。
『Croaaaaaaaak!!』
何故『啼く』という言葉に『帝』の字が使われているのか、心の根っこまで理解が行き届いた。シュガーはそう思わずにいられなかった。
怒号とともに砕け散る漆黒の世界。
巨鳥を中心に広がる波紋が、黒く塗り潰された硝子を吹き飛ばし、本物の世界を目覚めさせる。
晴天、陽光、白い雲。目眩く色とりどりの自然に目を細めれば、土の匂いまではっきりと感じられる。
ワイヤーフレームを覆い隠すように現れた大自然は、新緑から腐葉土まで現実のものとなんら変わらない質感でそこにあった。
『野性の世界へ、ようこそ。
私の名はクジャク。カンムリガラスのクジャクだ。
以後お見知り置きを……』
その荘厳な姿を晒し、よく響くバリトンボイスで歓迎の意を示した巨鳥改めカラス。
頭上の黒い彼岸花のような飾り羽は、烏の濡れ羽色のなかにあってなお深く冥く美しく、黒曜石を思わせる独特の輝きを放っている。クジャク自身の洗練された居佇まいも相俟って、まるで王冠のようだった。
しかしシュガーは訝しんだ。カンムリガラスなどという生物はこの世に存在しない。
玉響によればワイルドシリーズ開発陣といえば、ドラゴンなどの幻獣や神話生物さえ邪道呼ばわりして憚らない、生粋の過激派ケモナー集団だ。
いくらスポンサーの意向であろうと、創作生物なんて登場させた日には末代まで祟られるだろう。
彼女が困惑を深めていると、クジャクは厳かに口を開いた。
『まずは君の名を教えてもらおうか。
もちろん偽名でも構わないとも。君の心の野性を解き放つための真名なのだから……』
やたら濃いキャラをしているクジャクへ意識を向けると、彼女の目の前に文字入力ボックスが浮かんだ。
しかし入力デバイスはない。
音声入力をしようにも声がでない。その肉体は小さく、ますます不自由になる。
『既に利用規約に同意してもらった通り、これから君は人外に身をやつすことになる。当然声帯もその動物のものとなり、ヒトの言葉を発することはできなくなる。手指の操作もな。
無粋なメニュー画面や煩わしいコンソールなど我々の世界には不要。ここは現実と同質の原理によって規定され、規定された通りに動作する』
小さくなる体と相対的にますます大きくなっていくクジャクを見上げて、僅かに心が高鳴った。
白いハツカネズミとなった彼女は確信する。――たしかにこれは、正気を失ってケダモノと化しても不思議ではない。
操作感覚の鈍さが、精巧で清涼な風が、風に靡く髭と毛皮が、これこそ本来の姿なのだと言わんばかりに感覚神経を刺激する。
胡蝶之夢事件では尻尾やヒゲを欠損したと言い発狂する者もいた。
シュガーが自身の変調を確かめ終えると、クジャクは話をつづけた。
『この世界が現実に準拠すると言っても例外はつき物だ。君たちの野性を存分に振るってもらうため用意したシステム――現実には存在しない、ゲームとしての体裁を保つために泣く泣く導入した原理も少なからずある。
言うよりも行うが易しだ。さあ、名乗るがよい』
持って回った言い方だが、要するにしつこく浮かびつづけているメッセージボックスを操作しろということだ。
神経接続機器による肉体操作と、脳波コントローラーを並行して操るのは少しコツがいるが、ライセンス取得に欠かせない技能でもある。
クジャクは送信された真名を受け取ると、満足げに頷いた。
『よろしい。その感覚を忘れるな。
これから簡単なチュートリアルが始まるが、基本操作は今のモノと大して変わらん。落ち着いてやるといい。
では、また会おう』
入力された名前を呼びもせず、クジャクはのそのそと歩き去ってしまった。
自分らしさとは名前ごときに縛られるものではなく、真名ですら己を律するものではない。WoJの世界観に沿った行動ではあるが、シュガーは少しだけ拍子抜けした。
事前情報によればチュートリアル終了時に質問タイムがあるらしい。
彼女はどんな質問をぶつけてやろうか考えながら、森の開けた場所に設置されている、公園の大型遊具めいたわんぱく施設に向かった。
◯
クソァァァァァッ!!
やっっってられるかこんなもん!
チュートリアルの難易度じゃねえよ!
現実じゃん、現実! ロープの軋みも風の揺れもほぼ完全再現されたなかで、しかも小ネズミの身体で各所に隠された『チーズ片』を集めろってか! 無茶言え! ネズミやゴキブリは小柄で素早いとか世間じゃ言われてるけど歩幅とか考えたらヒトの全力疾走のがずっと速いんだぞ! 体格はパワーなんだよ!
『キーーーッ!』
キーじゃねえんだよクソ鳥このやろう! チュートリアルならせめて敵はカラスとか子猫とかその辺だろうが! なんでハヤブサが三羽も巡回してやがるんだよ! アホか! ムキーッ!
シュガーはおくびにも出さず内心で激昂すると、表情に出さないまま即座に落ち着いた。この手のゲームには冷静さが肝心だと知っているからだ。
彼女は氷のような理性で自制した。
このゲームには『ステータス』がある。
しかしそれは一般的なゲームのステータスとはかけ離れたものだった。
筋力値、硬直値、敏捷値、集中値は能力の多寡を表す数値ではなく、それぞれ能動的に消費することで恩恵を与れる、謂わばMPだ。
筋力値は文字通り筋力を求められる時に消費すると、その分スムーズに行動できるようになる。
同様に硬直値は身体を引き締める力が増す。
敏捷値は体感時間を引き延ばすことができ、集中値は視覚・聴覚・嗅覚といった感覚を高めて索敵に役立てられる。
余談だが移動速度の上昇は敏捷値ではなく、筋力値の担当だ。
総括すると、それぞれ方向性の違う火事場の馬鹿力といったところだろうか。
どれだけ発動しても最大値は減らず、消費した数値は時間経過で自然回復するため再使用待機時間に近い性質もある。
ちなみにこの能力値はNPCも有する。
今まさに強襲する爪から逃れようと全力で身を捩り、健闘虚しく空へ拐われてしまったシュガーは身をもって理解した。
空中でズタズタに引き裂かれて地面に降り注ぐかつて自分だった血肉を見て、彼女は叫ぶ。叫ぼうとした。叫べなかった。ヒトの声は出せない。
「ヂギィィィィィッ!」
ガラスを引っ掻くような金切り声なら出た。
◯
『ほう、試練を乗り越えたか。どうかな、ヒトの脆弱な魂で生を勝ち取った感想は? もっとも今は喋れないだろうがな……くっくっく』
地面に下嘴を擦りつけるような姿勢で話すクジャクを、シュガーは憮然として睨みつけた。
しかし悲しいかな小ネズミの肉体ではいまいち迫力に欠ける。クジャクはくつくつと嗤った。
『八つ裂きにして焼鳥パーティを開催してやる、とでも言いたげだな? 試練を乗り越えた者が等しく醸す不遜な態度だ……。
しかし残念ながら私はチュートリアルのみの存在。開発陣の性癖らしい。本編には出られない。
貴様が望むならこの場で相手をしてやってもいいのだがな、今のままでは勝ち目がないことくらい分かるだろう?』
小ネズミは静かに頭を振った。ステータス以外の基礎スペックが動物の種類ごとに設定されていることを地獄のチュートリアルで察したからだ。
小ネズミとクソ鳥でさえ格差が激しかったのに、このアホデカ妖怪カラスに勝てるはずがない。
クジャクはやや残念そうに頷いた。
『冗談はさておいて、まだ説明すべきことはある。次は戦闘経験値と野性値について語らねばなるまい。
さあ、近くへ寄りたまえ……』
さあ、こい、とふんぞり返るクジャクに対して彼女は少々気後れしながらも近づいた。素直な性分なのだ。
するとそこには低い笑い声と真っ暗な――――。
『愚か者め』