プロローグたち
※この作品は言うまでもなくフィクションです。実在の人物・団体・地名・事件などにはいっさい関係ありません。また密林の植生・動物の生態・病理・自然現象・社会現象・技術などに関して著しい誇張ないし錯誤表現が含まれている場合がございます。
視界の端で、一頭の蝶が羽ばたいた。
新芽のように瑞々しい、緑色の羽の蝶だ。
それが事実ならば、自分はきっと死ぬのだろう。
『何故お前たちは生きるのか?』
言葉を持たない獣たちの世界にひとつの問いが舞い降りる。
自分は、未だに答えを出せないでいる。
『生きることに何の意味があるのか?』
意味があろうとなかろうと、自分自身が納得できなければそれこそ無意味だ。
神に己の存在を委ねてみるか? ……馬鹿げている。獣に神はいない。
いや、私は……俺は……獣だったか? それとも人間だったか?
もはやどうでもいいことか。
赤黒く染まった爪が身体に食い込む。抵抗する力は残されていない。麻酔をかけられたように全身が痺れる。
血を失った身体は氷のように冷たく、脳の髄まで凍てつかせる。だのに骨身に走る鋭い痛みだけはちっとも鈍くならない。
もう何も聞こえない。問いも、答えも、鼓動も、吐息も、何も。
ああ、ケダモノにはお似合いの末路だ。
○
見上げれば無数の樹と蔦、足下にはシダ植物が鬱蒼と生い茂る大密林。
場所を変えれば山岳、湖沼、湿地、色とりどりのジャングルが君を出迎えよう。
耳を澄ませば聞こえてくるのは小鳥の囀り……そして猛獣たちの息遣い。
この世界の根本原理は単純明快、弱肉強食の一言に尽きる。
ワイルド・オブ・ジャングル。
君たちは獣になりきり、広大な自然を生き抜く。
登場する動物のバリエーションは密林に棲むものだけに留まらない。古今東西あらゆる動物が物語の主役となり……そして餌となる。
フクロウがウサギを啄み。
ヤマネコがフクロウを引き裂き。
――――――ゾウが全てを踏み均す!
最も現実に近い非現実がそこにある。
潜み、襲い、奪い、喰らい、獣として獣を相手に繰り広げる生存競争。
勇猛に、狡猾に、醜く、悍ましく、己の本分を全うするだけのゲーム。そう、これはほんのゲームにすぎない。
もっとも遊戯ではなく、狩猟なのだが……。
御託は止そう。こんなつまらない説明などではないだろう、君たちが望むのは。
見たいのだろう。血沸き肉躍る修羅の宴を。
知りたいのだろう。人外どもの心の内を。
喰らいたいのだろう。脳髄の痺れるままに、己が野性の赴くままに。
さあ、風餐を始めよう!
本物の"野性"を、本物の大自然で――!
『Wild of Jungle』
2112年8月10日発売!
○
仮想現実の世界はここ百年で格段に進歩した。
視覚作用に特化したヘッドマウントディスプレイはやがて全天周囲モニターのフルフェイスヘルメット仕様に取って変わられ、最近では人工視覚技術の応用によって目を閉じたままのゲームプレイも可能になっている。
そのなかに立体音響や匂いを発信するデバイスなどが組み込まれると、いよいよ仮想現実は本物さながらのリアリティを持つようになった。
そして今から三十余年前、ついに皮膚感覚の完全再現を可能とするデバイスが完成した。
自身の五感をモニターとし、脳と神経と筋肉をコントローラーとする、新たな世界の創造。
ボトルネックとされていた顔認証システムなどセンサー類の高速・高感度化に伴い、今や仮想現実における電脳世界は『もうひとつの現実』として認識されるようになった。
ゲームの世界に没入するのではなく、新たな世界と接続する。
亜現実。通称Linked-Virtual Reality。
L-VRの略称で親しまれるこのシステムはこれまでに軍事、医療、教育、文化など様々な分野で活躍し、ときには社会構造さえ塗り替えた。
一般家庭に流通するようになるとVRSNSをはじめとするネットワーク環境の整備が行われ、より安価かつ高性能な機器が開発された。
誰もがこの世の春を確信し、人類が到達しうる限界さえ感じていた。
しかし人間の欲望に限界はない。
2112年現在、業界にまた新たなブレイクスルーが起きようとしていた。
○
「おい、これは一体どういうことだ!」
白衣の男が吼えた。くしゃくしゃに握り潰された端末機を片手に室長のデスクへ詰め寄る様は鬼気迫るものがあり、経営企画室はにわか騒然とした。
しかしそこに座る男から返ってきた言葉はにべもないものだった。
「どうもこうも聞いての通りだ。CMは発禁。内容どうこうって話じゃないから作り直しても無駄だ。免許交付の折に配信してもらえるよう掛け合ってはいるが、一般公開は絶望的だな」
渾身の出来だと満足していた矢先の宣告に、広告宣伝を担当していた白衣は項垂れる。
ただでさえ広報には気を遣う試みな上に、キツいゴア表現のあるゲームなのだから、もちろんこうなることも覚悟していた。
だが実際にそうと知らされると、想像以上に落胆が大きい。
「まあ安心しろよ。映像自体はスポンサー様が買い取ってくれるんだから、どう転んだって仕事がパアになるわけじゃないんだ。きっと俺たちの代わりに上手いこと使ってくれるさ」
彼なりの慰めなのだろう、男は突き出た腹を揺らして明るく笑った。
白衣とて喚き散らしたところで何の解決にもならないことくらい百も承知だ。幼馴染みの気遣いに対して恥の上塗りにならないよう、無理やり笑顔を作って話題を変える。
「あー、スポンサー様といえば、あのデバッガーは取り込めそうか? えらくご執心だったけど」
「問題ない。向こうから申し出てきたってよ。思えば天下の医療連様が根回しを怠るはずないわな」
「そりゃそうか。言うまでもないだろうが、一応こっちでもパイプは作っておけよ。また世話になるかもしれないんだ」
「わかってるよ」
信じがたいことにWoJのデバッガーは一人しかいない。
超広大なマップ、夥しい数のプレイアブルキャラクター、NPCのAI。表面上の破綻やバグの確認だけでも数年がかりの作業を覚悟していた多岐に渡るチェック項目を、たった二ヶ月強でクリアしてしまった怪物だ。
一体どんな手品を使ったのか、複数のL-VR機器を稼働させて、多人数で行うべき作業さえやってのけたらしい。
しかしその人物がスポンサー……日本の医療業界を牛耳る巨大資本から優遇された理由は、その有能さのためだけではない。
あまりにも向こう見ずで、優秀な治験患者だったからだ。
現在L-VRにおいて、人外に身をやつすことは禁忌とされている。
宗教観や技術力、文化的な需要の違いがあるとはいえ、米・中・韓といったプロゲーマーの本場でさえ敬遠し、開発自体を停止しているほどだ。
宗教観と技術力と文化的な需要が全て揃ったプロゲーマーの本場のひとつ、日本においても未だに忌避感が強くあり、テストプレイヤーやデバッガーの募集には難航した。
しかし例の事件が過去のものになったという事実認識さえあればL-VRの世界はひっくり返る。
この企画が成功すれば忌避観を払拭できる。それどころか新たな市場が拓ける。先駆者として得られるものは途方もなく大きい。
決して失敗は許されない。慎重と万全を期す必要がある。だからこそ囲い込む価値がある。
おそらく医療連もそう判断したのだろう。
「できることならウチで預りたかったけどなあ。結局金が全てかよ、世知辛え」
「なんだ、珍しいな。まさか惚れちまったのか?」
ボヤく白衣を幼馴染みが嗜めた。
国内で日本大医療連盟を批判するような発言は冗談でも許されない。下手を打てば物理的に消されてしまうからだ。
「いや俺は物心ついたときからレムちゃん一筋なんで。そうじゃなくて、アレもこっち側のケがあったからさ」
「ああ、確かに。あれは人間じゃなくてヒトに恋する目だった。昔のジギーと同じ目。そして今のジギーと似た雰囲気。イイ人はもう捕まえてるらしい。つまり同志だ」
書類を提出しようと近づいた職員は、賢明にも見なかったフリをして立ち去った。
社内で初期メンバーに動物の話題を持ち出すのは冗談でも許されない。下手を打てば精神的に壊されてしまうからだ。
「おやおや、『昔の』? なんだ、ジギタリスちゃんとはずっと一緒ってわけじゃなかったのか? レムちゃんは俺が生まれた時から懇ろな関係だったからなあ」
「鳥頭め、忘れちまったならまた一から語ってやろうか。俺たちには愛に至るまでの濃密なラヴ・ストーリーがあるんだよ。
だいたいお前こそ生まれた時から一緒なんて、ただでさえヨウムはヒトより寿命が短いんだ。ゾウガメとは比べ物にならん。後追い自殺は止めないが今のうちに覚悟はしておけよ」
「ぐっ……! やだねえ、寿命の長さで選ん」
「表出ろやテメエ! 吐いた唾は飲めんぞ!」
「やってやろうじゃねえかよこの野郎! テストプレイついでだ、WoJでケリつけんぞ!」
二人は愛とプライドを賭けた真剣勝負のために立ち去った。
後に残された職員たちは呆然と彼らを見送り、書類を届けそびれた者は無言でそれを室長の机に叩きつけた。日常茶飯事だ。
密林は待ちいたる。エンディングを持たない獣の世界は、ただそこに在りつづける。
野性とは何か。野生とは何が違うのか。
その答えはきっとここにある。
ようこそ来たれ、『密林の野性たち』よ!
亜現実:電脳空間
L-VR :電脳空間との接続
という程度に考えてくださいまし