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「鰻子、俺のことなんか気にせずに寝てもいいんだぞ」
「んー。でも鰻子は金也の着替えを手伝うという使命があるんだよ」
拳を握り、無理やり目を開いて強く言った。でもすぐにまぶたは落ちた。
「そんなことは後でいいから。大人しく寝とけって」
「分かったんだよ」
あっさりと使命を破棄したな。まあ、可愛いから許す。
鰻子はその場に横になってうずくまり、あっという間に眠ってしまった。よほど眠たかったんだな。
……たぶん、おじさんがどうとか言っていたのは、深夜にあるテレビ番組を見ていたんだと思う。確か昨日は朝まで討論番組があったはずだから、きっとそれを見ていたに違いない。
「ふああ……」
あくびをする。
気持ち良さそうに眠っている鰻子を見てると俺まで眠くなってしまう。
だけどそう簡単に二度寝するわけにはいかない。ここではいつ何が起こるか分からないから、少しの油断が大きな後悔を生むことになりかねない。
なんだかんだそれなりに学習はしているんだ。
俺はそっと窓を開けてベランダに出る。
暖かい部屋の中にいるよりは、肌寒い外の方が目が覚める――なんて思ったけど、太陽光と肌寒い気温が心地良い。むしろベランダの方がよく眠れそうだ。
柵に寄り掛かり、地上を見下ろす。
「あーあ」
なーんか、本格的に危機感が無くなってきてるかもしれない。
巫女に対して警戒心はあるんだけど、今こうしてリラックスをしている自分がいる事実は偽れない。慣れっていうのはホント怖いな。
どう考え直してみても俺は事件に巻き込まれているんだけど、その実感すらも薄れてきてる。危機感を継続させなければならないことは分かっているんだけど、鰻子の寝顔を見たり、こんな心地良い環境でほのぼのと出来る時間がある以上、それはとても難しいことだ。
苦痛があるとすれば、この足枷と電流、そして行動の読めない巫女の存在だろう。
……思考も変わってきたな。
何が悪いかなんて全てだろうに、今の俺は良し悪しを判断している。自分が一人で暮らしていた時よりも、良いと感じたことが頭の中で明確になってきた。
まずい。これは本当にまずいぞ。
このままではこの生活が当たり前になってきて、数十年後に『行方不明だった成人男性発見! のん気に監禁した女と同棲していた!』なんて週刊誌に書かれるんだ。
そんな記事を書かれた日にゃ、俺個人どころか家族や親戚にも迷惑をかけてしまう。
しかもよく考えてみろ。
こんな生活がいつまでも続くわけがない。巫女の気まぐれでいつ捨てられてもおかしくはないんだ。
すると俺はどうなる?
下手すれば童貞中年無職、加速的に人生のエンディングへまっしぐらだ。
「あわわわわわ」
足が震えてきた。
手に職の無い俺が、これといって特技の無い俺が、胸を張る学歴の無い俺が中年オーバーで世に放たれてみろ……結局コンビニ店員じゃね?
「あばばばばば」
全身が震えてきた。
別にコンビニ店員は悪くないんだが、中年で肩書きがフリーターなのが問題なのである。だって日本は年齢や経歴に偏見がある視野の狭い社会なんだもの。
「あばばばばば」
俺の予定ではもっと輝かしい未来がある予定だった。
漠然とはしていたが、中年の俺は一般人の平均年収前後くらいのお金を貰い、家庭を持って人並みの暮らしをしているつもりだった。
だがしかし、このままでは最悪路上で段ボールを組み立てることになってしまう。
人が捨てた雑誌や、住宅街のゴミ捨て場から空き缶を拾って売却をすることが唯一の収入源になる。
不良にはかっこうの的になり、意味も無いのに殴られたり蹴られたりするんだ。
通行人には白い目で見られ、子供にも見下され、最終的には厳ついおっさんにヤバイ仕事を与えられて、それを失敗した俺は残りの人生を刑務所で過ごすんだ……。
「れられられられー」
精神崩壊だ。
もっと俺は現状だけではなく、未来を見据えて行動しなければならない。
様子を見ようだとか、何とかなるとか、そんな悠長で甘い考えが心底にあったからこそ今の俺がいるんだ。
人並みを脱線した将来が現実味を帯びてきた今、俺は考え方を改める時が来たのかもしれん。
「よし!」
両頬を叩き、気合を入れる。とにかく今は余計なことを考えず、出来ることから始めよう。
地上を見下ろせば通勤するサラリーマンや学生などがいる。隣の部屋に巫女がいるので多少なりと不安はあるが、ここは思い切って挑戦してみるとしよう。
「すー」
深く、息を吸う。
そして「ヘルプミー!!」
腹の底から声を出して叫んだ。
ゴー!
だけどタイミングが悪かったようで、目を閉じてしまうほどの強風が俺の声をかき消した。
当然、地上の人々は誰一人として気付きはしない。
だけどあきらめずに「助けてえええええええ!!」と俺は叫ぶ。
だがその度に風が吹き荒れ、叫ぶ俺の声を遮断した。まるで神様が故意に風を吹かしているようだ。そんなにも俺をここから逃がしたくないのかよ。
「くそ! ……ふう」
肩の力を抜いて、手すり壁にもたれるように腰を落とした。
何度も何度も不安を誤魔化そうとしても意味がなくて、何度も何度も挑戦しても持続しなくて、何度も何度も頭を悩ませても正しい答えが分からない。
花村のことを情緒不安定だとか内心馬鹿にしていたけど、俺も振り幅が狭いだけで、人のことは言えなかった。
完全に自分を見失ってるな、俺。……旅人にでもなろうかな。妄想で。
「まあそう落ち込むな。ユーの言葉はミーがちゃんと聞いている」
「そうなんすか。そりゃありがとうござ……えっ?」
渋い男の声が耳に届き、俺は声のした方向に頭を向ける。
しかし、誰もいない。
もしやと思い、俺は立ち上がって隣の部屋(鰻子の部屋)のベランダを覗いてみた。
「……え」
なんとそこには、ライフルを持ったスーツ姿の殺し屋っぽい人がいた。