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「――はあ……。お疲れ様でしたぁ」
その日の夜、仕事終わりの疲労度はいつにも増してあった。
巫女に言われた言葉が何気にショックだったのと、のちにさりげなくオーナーから責任を問われた事に耐え難いストレスを与えられたからである。
もうそろそろ円形脱毛症が出来てもおかしくないかも。
「……」
帰り道。普段から自転車で通勤している俺は、当然この日も自転車に乗って帰宅していた。
その信号待ちで空を見上げた際、目に飛び込んできたのはビルの外壁に設置された携帯電話の看板広告である。
今年出たばかりの若手俳優が写っているその看板を見ながら、嫉妬をして、自分の現状を自分で笑うのだ。
夢を追い始めた当初はあの看板広告に俺が起用されてやるぜ!
なんていうスカスカの自信と希望を抱き、燃える情熱を抑えるのが大変だったくらいだ、この世界は実力だけではく、それ以上に運が必要だという現実を知った今、情熱なんてものは鎮火しかかっている。
夢を諦めるには早い年齢だが、未来を現実的に見据えて行動するならば、夢を諦める事も間違った決断にはならないだろう。
ましてや学歴の無い俺にとっては選択肢なんて無いも同然だ。一歩間違えれば、そこで人生は終わる。
オーディションの時も俺の履歴書を見て鼻で笑う人もいたし、高校でも行こうかな……、今さらか。
「はあ……」
自分自身が、嫌になる。
「んだオラァ!」
「ん?」
信号を渡った先でやけに人が込み合っている場所が出来ていた。その中心からは怒るような男の声が聞こえたので、興味本意で俺は近付いてみる。
「……あ」
この国の平均身長より十センチ以上も背が高い俺は、ゆっくりと歩いて傍観しているやじうまの一番後ろで立っていても中の様子が確認出来たのだが、なんと、そこには巫女と鰻子が立っていて、その二人に絡んでいるガラの悪い格好をした二十代くらいの男が五人もいた。
周りの人間は関心はあるものの、ガタイは良くガラの悪い男達五人にビビっているのか止めに入ろうとはしない。
「おい何をやってるんだ!?」
この時点で巫女という存在をよく知らない俺は、どちらが危険な状態なのかという判断を完全に見誤ってしまった。生意気なクレーム女というのは分かっていたけど、無視をするわけにはいかない。
俺は自転車を止めて人込みをかいくぐり、巫女たちの前に駆け寄る。
「女の子相手に何をやってるんだ?」
そう俺が格好良く五人もの男達の前に立ちはだかる事が出来たのは、アクション俳優をやるかもしれないという妄想未来の仕事に応じる為に空手を習っていたからだ。
他にも合気道やテコンドー、柔道やレスリングなど、色々と格闘技を学んできた俺はめちゃくちゃ強いのである。
「なんだお前?」
「見ての通りお前達と同じ一般人だよ。こんな状況みたら無視は出来ないだろ」
女の子を助けにやってきた、正義感丸出しのナルシストっぽい男。周囲の目からはそんな情報が送られてくる。
「結城来てくれたのね! さすが私の彼氏!」
「は?」
突然巫女が俺の腕を掴んで慣れ慣れしく体を密着させてきたので呆然とする。
「実はね結城、この顔面トラブルメイカー達が身の程知らずで私達をナンパしてきたの。どう見ても十代ピチピチの私達を何の迷いもなくナンパしてくるロリコンクソ生ゴミ野郎だったから正直に気持ち悪いから死んでくださいって言うと逆切れ、今度は脅迫して無理やりどこかに連れて行こうとしているんだから、マジムカデだし!」
頼んでもいないのに巫女は事の経緯を説明してくれた。マジムカデについては詳細不明である。
「はあ……いや、何で俺の名前知ってるの?」
「おい彼氏さんよぉ」
俺の質問に巫女が答える前に、チンピラの一人が俺に一歩近付いた。
「アンタの彼女が俺の服にガム吐いてくれちゃったんだけど」と、チンピラは自分のTシャツに付いたガムを指差した。
「弁償してくれよ。これ限定もんで十万したんだわ」
この時の俺の給料だと十万の出費は死活問題だ。もとより、俺に払う理由も義理もないので関係のない話だ。
「そんなの払うわけないだろ。洗ったら取れるんじゃないのか?」
俺は真面目に言った。
「お前なめてんのか?」
相手は真面目に受け取ってくれなかった。
「いい加減にしねえよ、てめえら二人ともげええええええええええええええええええっ!?」
ジリジリと詰め寄ってきたチンピラの一人の股間に、巫女はスタンガンらしき物を押し当てた。
電気ショックを食らったチンピラは股間を手で押さえて倒れ、辺りは騒然とする。
「逃げるわよ」
「は?」
巫女は俺の腕を掴んで走り出す。と同時に、俺の耳にパトカーのサイレンが聞こえてきた。俺は何も悪い事をしていないから逃げる必要はなかったけど、強引に腕を引っ張られるがままに足を動かしていた。
「自転車があるんだよ自転車!」
「んなもん後で取りに行きなさいよ」
元々押しに弱い俺は無理に拒むことはなく、巫女に腕を引かれるがままその場から離れたのだった。
「ハア……ハア……何だよ一体?」
逃げた先は公園だった。一人息を切らしながらベンチに座り、白い吐息を噴出する。
「何って? 馬鹿なのアンタ、逃げなきゃ警察に捕まっていたわよ」
腕を組み、見下すような視線で言う。その背で鰻子は土に指を使って絵を描いていた。
「どうして俺が捕まるんだよ。思わず逃げてきちゃったけどさ、関係ないじゃん、君だって被害者なんだろ?」
「何を見てたのよ。私は公然と『股間痺れ法違反』を犯したじゃない」
「そんな法律聞いた事ないけど。ちゃんと話せば正当防衛だと分かってくれたはずさ」
「終わった事をいつまでも愚痴ってんじゃないわよ。小さい男ね」
巫女はひたすら口が悪かった。腹はもちろん立っていたが、わざわざ怒る気にもなれなかった。
「大体、何で君は俺の名前を知っていたんだ?」
「ネームプレート付けていたじゃない」
「ああ、そっか」
仕事の時にはいつも胸に名前の書かれたプレートを付けている。当たり前の事すぎて忘れていたな。
「はあ……やっぱり俺自転車取りに行って来るよ。心配しなくても、もし警察に何かを訊かれても君の事は適当に話しておくから」
よく見なくとも美人だし、運命の出会いなんて言葉が頭を過ぎったりしたのだけど、最終的にあまり関わら無い方がいい人物という結論に至った。
普通の人間とは違う異様な空気を持っていたし、スタンガンのような武器も持ってる。
後ろの鰻子からは無機質な印象を受けたし、夜の公園という場所が一層俺の不信感を増大させていた。
俺はベンチを立ち、「んじゃ」軽く挨拶をしてこの場から去ろうとする。
「今の仕事、楽しいの?」
去る俺の背に、巫女は不意な質問をしてきた。
「は?」
立ち止まって振り向き、眉をひそめる。
「夢を諦めてイタリアンの店でも開こうかな。もしくは本場のイタリアにでも修業に行ってみようかな、なんて考えているような顔をしてるわね」
腕を組んでそう言う巫女の言葉に耳を疑った。
そりゃそうだろう。
テレビでよく見る霊能力者や、人のオーラや未来が見えるという人間をまったく信じていなかった俺にとって、巫女の言葉は当時流行っていたカンフーをする動物園のサルよりも衝撃的な事だった。