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「はい出来上がり。すぐに手錠を外してあげるから、もうちょっとだけ待ちなさいよ」
巫女は床に散らばる木屑を手で集めて拾い、ビニール袋に入れていた。
「手錠を外してくれるのか?」
「ええ。何か問題でも?」
「いや、無いけど……」
それはつまり、普段から手錠を外した状態でいいってことか?
いくら銃を持っているとはいえ、俺の両手を自由にするってのは驚きだ。
完全にナメられているってことだが、俺にとっては好都合だから何も言わないでおこう。
「あーそれと、アンタを監禁する上で守って欲しいルールが三つあるのよ」
「ルール?」
「ええそうよ。安心なさい、難しいルールじゃないわ。チンパンジーでも理解できるものよ」
巫女は手に付いた木屑を叩いて払うと、俺と面と向かって話せる位置であぐらをかき、人差し指を立てた。
「ルールその一。私に逆らわないこと。機嫌が良い時なら多少の口答えを聞き流してあげられるけど、機嫌が悪い時は容赦なくぶちのめすから肝に銘じておきなさい」
俺は小さく首肯した。それを見て、巫女は中指を立てる。
「ルールそのニ。私の睡眠を絶対に妨害しないこと。さっきはただの二度寝みたいなものだったから良かったけど、喧しく騒いだりしたら尻の穴に銃弾ぶち込むわよ」
俺は素早く二度首肯した。続けて巫女は薬指を立てる。
「ルールその三。一日に一回だけ、私の許容範囲かつ倫理的、物理的に可能なお願いを叶えてあげる。当然願い事を増やす願いは駄目だし、逆に願いを言わないのも駄目よ。分かった?」
言いたいことは分かっているのだが、俺はすぐに頷けなかった。
だって俺は魔法のランプを見つけたわけでも、橙色の玉を七つ集めたわけでもないのだ。なのに願い事を叶えてあげるだなんて急に言われても、頭の中は疑問符がクルクルと飛び回ってしまうだけだった。
「願い事って、例えばどんなこと?」
「例えばと言われてもね。ハンバーグが食べたいとかでもいいし、服が欲しいでもいいし、単純にアンタが望む事を言えばいいだけよ」
つまり監禁されて自由を奪われることを代償に、大富豪の子供のようなわがままを一日に一回だけ体験できるルールだということか。
いかれてんな。
「じゃあ家に帰りたいとかは?」
「駄目に決まってんでしょ」
だろうな。
「第一、アンタに帰る家なんてないわよ。昨日アパートの大家さんと話をして解約してきたから」
「……は?」
か い や く?
「それに、アンタが働いてたコンビニも今日で辞めると伝えておいたからね。これで何の気兼ねもなくここにいられるでしょ?」
「ちょ、ちょっと待てちょっと待て! お前急に何言ってんだよ!?」
聞き捨てならない巫女の発言に俺は平静さを失う。
「解約ってどういうことだよ!?」
「文字通りよ。アンタが滞納していたニヶ月分の家賃を口座に振り込んだら、大家さんは喜んで解約の手続きをしてくれたわよ。滞納癖のある面倒な奴が居なくなって良かったとも言ってたわ」
「なんですと!?」
確かに滞納はしてたが、今月まとめて払う約束をしていたはずだ。
あの爺さん、周5でマッサージしてやった恩を忘れやがったのか!
「……待てよ。仮にそれが事実なら、俺の部屋の中にあった物はどうなるんだ?」
「物も少ないようだったし、しばらくは大家さんが保管してくれるそうよ。そのうち処分するかもしれないけどね」
「何勝手なことを!?」
「まあどうせ別に大した物は無いんでしょ? それに必要な物があるなら取りに行けばいいだけだし」
「行けねーーじゃん!!」
手錠と足枷をアピールしながら叫んだ。
「大丈夫よ。一日一回のお願いとして望むのなら、私が取りに行ってあげるわ」
「くっ」
そういうことか。なんて腹立たしい奴だ。
しかし、正直なところ無くなって困るのは服くらいしかないから、大した物が無いという表現は正しい。
だがお前が言うなって話である。
「じゃあコンビニを辞めるってのは、店長を脅したりでもしたのかよ?」
「それは電話で、アンタの代理として辞めると言っただけよ。消費期限切れの弁当を持って帰るような奴は他の従業員の悪影響になるからって、迷うことなく承諾してくれたわ」
「……」
口を開けたまま、俺は硬直した。
「それは、マジなのか?」
「マジよ」
「家の話も、全部?」
「ええ。大家の名前は浜谷正平、コンビニの店長は末永雅司。望むなら住所や従業員の名前も全部答えてあげるわよ。アンタの嫌いなギャル女がプチ整形してるなんて情報もあるわ」
巫女の言った大家さんと店長の名前はその通りで、二人共にネットで検索すれば名前が出てくるほど有名でもない。
ギャル女の整形についてはどうでもいいが、ギャル女を知っているという時点で俺は身が竦む思いである。
「……そんなこと、どうやって調べたんだよ?」
「それは内緒。というよりは、説明が長くなるから面倒だわ。まあ、アンタが今日の願いとして望むのなら説明してあげるわよ」
「さっきから何が願い事だよ──ほんと、マジでふざけんなって! 今の家を探すのにどれだけ苦労したと思ってんだよ!」
六畳一間のトイレと風呂付きで家賃三万円という破格の安さだった。過去にちょっとした事件が起きたらしく、夜な夜な人の気配がするような曰く付きだったが、それを差し引いても十分に安いと言える金額だった。
稼ぎが少ない身としては、仕事は変えても引っ越しだけはしたくなかったのに……。
大家も大家だが、こいつは一体何様のつもりだ?
「別に家なんてどこでもいいじゃない。大体あんな汚い家に執着してるなんて、ゴキブリ脳にもほどがあるわよ」
「ゴキ……」
人を逆撫でするのが上手い女だ。ずっと我慢していたけど、堪忍袋の緒が切れた。
「金持ちのお前には分からねえだろうけどな! 俺みたいな貧乏人には有り難い部屋だったんだよ!」
「情けない奴ね。自分の不甲斐なさを大声で言って恥ずかしくないわけ?」
はいプッツン切れました。
「おま――ッ」
「それは遠回しにこう聞こえるわね。こんなマンションに住めたら住むけど、貧乏人だからあの汚い家に住まざるを得ないってね」
畳み掛けてくんな。
俺はあまりの苛立ちに白目を向き、頭は湯気立つプスプス状態になる。
「そうですけどそれが何か?」
歯を食いしばって訊いた。
「貧乏人って大抵そう。自分のしょうもない人生を何かにつけて正当化して、他人を蔑んでひと時の意味の無い優越感に浸るの。きっと最後まで金持ちを妬みながら死んでいくのね。そんな敗者思考だから搾取される側だということに何故気付かないのかしら」
「こんの!」
ブチブチブチブッチーンですよ!
全国の低所得者の思いを代表して、俺はこの歪んだ固定観念を持つ金持ち女に反論してやる。
「それこそ金持ちの勝手な思い込みだろ。貧乏人の誰もが努力も苦労もしてないっていう考え方は間違ってるぞ!」
「理解力の乏しい奴ね。金も頭も心も貧しいなんて底辺の極みよ。教えておいてあげるわ。そんなことを言っている間はずっと貧しいままよ。そういう考えは『諦め』って言うの。つまり負け犬の遠吠えね」
巫女は立ち上がり、真正面から俺を見下ろした。負けじと俺は睨み付けるように巫女を見上げる。
「吠えるだけの負け犬が、何を言っても耳障りなだけなのよ。せめて何か一つでも他人に誇れることを成してから、ワンワンと吠えなさいっての」
「……ッ」
ギシギシと、奥歯が軋む。
「裸の王様に人は頭を下げたくないし、中卒の医者に命を預けたくはないし、恋愛経験の無い奴に恋愛相談なんてしないでしょう? 世の中はより多くの経験と、より良い結果を残した者が評価されるの。アンタみたいに中途半端な奴が何をほざこうが、私どころか、誰の心にも言葉は響かないわよ」
人の癇に障ることをべらべらと喋ってくれる。
だけど言っていることが正論すぎるので、俺は何も言えぬまま息を呑み込んだ。
悔しいが、これ以上の反論は恥を上塗りするだけである。
「とにかくアンタは私に従っていればいいのよ。それ以外の選択肢は無いの。お分かり?」
「お前は……俺を、どうしたいんだよ?」
こんなに悔しい思いをするのは久々だ。苛立ちと情けなさが俺の目頭を熱くする。でも絶対に泣かねえ。泣いてたまるか。
「ふふ。目が潤んでるわよ。余程私に言われた言葉が悔しかったみたいね」
もはや何を言われても俺の怒りメーターはすでに振り切れてる。
「ふう」
返事をしない俺を見た巫女は深く息を吐くと、その場にしゃがんだ。
ジッとこちらを見つめ、ふと微笑む。
そして、「!?」
それは不意に起きた――出来事だった。
ほんの一瞬の間に全神経が唇に集中し、頭の中が真っ白になる。
髪から香る甘い匂いに意識は散漫し、その中で巫女の体温を感じ取った。
……。
……。
……。
三秒間。
唇に余韻を残し、巫女は離れた。
「これで少しは気が静まったかしら?」
まばたきを忘れている俺に巫女が訊く。
だが、未だ唇に意識が囚われている俺は、返事をせずにボーっと遠くを見つめていた。
「ま、超絶美人である私にキスをされれば当然の反応よね。じゃ、手錠を外してあげる──と思ったけど、鍵は鰻子が持っているんだったわ」
心ここに在らず。巫女の言葉は全て独り言のよう。
「にしても遅いわね。ねえ、本当に隣の部屋へ行っただけなの?」
「……」
「おいこら、シカトしてんじゃないわよ。足の小指吹き飛ばすわよ」
俺はぺしぺしと頬を平手打ちされ、遊離していた意識を取り戻す。
「さっさと私の質問に答えなさいよカス」
「あ、ああ。隣の部屋に行くとしか言ってなかったけど」
「はぁ……しょうがない子ね。面倒だけど見に行ってあげましょ」
言葉そのまま面倒くさそうに立ち上がり、体の向きを玄関に向けた。
すると、ガチャン。