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鰻子こと、監視役が消えた。
この状況は俺にとって更なる好機が訪れたと言えるが、やはり現段階では自力での逃亡は難しい。周囲には物が何も無いので、超人ばりの筋力で手錠を引き千切らない限りは何も出来ない。
だが誰もいないこの貴重な時間を無駄にしたくはない。
となると……これしかないな。
ドンドンドンドン!
床に踵を叩きつけて下の階へ響かせてみる。
俺が住んでいる家は築四十年のボロアパートだから、隣人との騒音トラブルはしょっちゅうあった。
このような高級マンションで防音対策をしていないとは思えないけど、何もしないよりはマシだ。
本来ならば絶対に望まないが、今回ばかりは下の階に瞬間沸騰野郎が住んでいることを願おう。
「ヘルプミー! マイネームイズキンヤ! カモンベイベー! ギュウドンフジヤマポケモンゴー!」
もしかすると外国人が住んでいる可能性もあるので、知っている適当な英語なども叫んでみる。
「ニイハオ! シェイシェイ! パンダファンファン!」
金持ちの中国人が住んでいるかもしれないので、思い付く中国語を叫ぼうとしたが、自分の無知を再認識するだけだった。
「あ゛ぁぁぁーッ!!」
叫んだ。ひたすら叫んだ。
120デシベル以上は出しているつもりで必死に叫んだ。
「ごほっ! ごほっ!」
結果むせた。
「はぁ……はぁ……駄目か」
手応えは全くない。
反響する自分の声がやかましいだけで、到底誰かに声が届いているとは思えない。俺の家だったらすぐにカタコトの日本語を話す隣人が文句を言ってくるんだけどな。
分かりきっていたことだが、何も反応が無いというのは少し寂しい。
「はあ……」
これからどうなるんだろう、俺は。
今月の家賃をまだ払ってないし、バイト先にも無断欠勤で迷惑をかけてしまっている。
そろそろ電話なんかもかかってくるかもしれない……あ、そうだ。昨日は誰にも邪魔されないようにと携帯電話の電源を切っていたんだったな。
そのうち誰かが連絡の取れない俺の異変に気付いて警察に通報したとしても、警察は俺の居場所を特定できないかもしれない。
いや、巫女は友達の友達という関係であの場に来ていたんだ。遅かれ早かれ警察が巫女にたどり着くのは確実か。
合コンの関係で友達とは定期的に連絡を取っていたし、俺の働いているコンビニも知っているから、そのうち俺が行方不明になったことに気が付くだろう。
それこそコンビニの店長だって、突然無断欠勤をした俺を心配するだろうし、家に帰らない俺を大家さんがおかしいと思うはずだ。
こう冷静に考えてみると、案外早く家に帰れるかもしれない。
大丈夫大丈夫。俺は絶対に無事に家に帰れる。
「……」
それにしても、鰻子の奴遅いな。
見せたい物があると言っていたけど、こんなに時間がかかるものなんだろうか?
……何だか嫌な予感がするな。
ガチャン。
噂をすれば何とやら、玄関から音が聞こえた。それにシャカシャカとビニール袋が擦れるような音も聞こえる。
「あー重いわ」
廊下から姿を見せたのは鰻子ではなく巫女だった。
「あら、鰻子は?」
袋一杯に詰まったビニール袋を両手に手提げ、真っ先に鰻子の所在を訊いてきた。
「なんか俺に見せたい物があるとかで、隣の部屋に行きましたけど」
「ふーん、なるほど」
何かを納得した巫女はキッチンの中に入ってビニール袋を置いた。
大きなビニール袋が二袋。あの物量はどう考えても朝ご飯以外の物も買って来ている。
しかも一袋はホームセンター『ドッコイ商』のロゴが見えた。想定外の袋に不安を抱かずにはいられない。
「ホームセンターに行ったんですか?」
「さてね」
巫女は俺の質問をはぐらかしつつ、袋の中から取り出した食べ物などを冷蔵庫に入れながら俺の質問に答える。
「食べ物はとりあえず今日必要な分だけ買ってきたわ。ほら、パンとジュースよ」
巫女はクリームパンとやきそばパンとペットボトルの炭酸ジュースを手に取り、わざわざ俺の前に置いた。
が、しかし。
「あの、足で食えと?」
努力すれば足だけでも食べられそうではあるが、出来るならば手を使って食べたいので遠回しに訴えてみた。
「焦るんじゃないわよボケ。ちゃんと考えてあげてるんだから」
そう話すと巫女はキッチンの中へ戻り、ドッコイ商の袋だけを持って再び俺の前にやってきた。
ジャラジャラと金属の擦れる音を立てながら、巫女はビニール袋の中から鎖を取り出した。鉄の頑丈そうな鎖だ。これは間違いなく俺を縛る為の道具だろう。
「ん?」
数メートルもある長い鎖の先には足枷が付いていた。絵本の中の囚人が着けていそうな『ひ』の字が合わさった形の鉄枷である。
「ドッコイ商にそんな物売ってるのかよ……?」
「売ってるわけないでしょ。あるとするならアダルトショップくらいじゃないの? 知らないけど」
「じゃあ……どこでこんなもの……というか何だよこれ?」
「鎖と、枷」
望んではいない見たままの答えを返してくれた。
「そうじゃなくてさ、使用目的を訊いてるんだ」
「やっぱりトイレくらい一人でしてもらわないと困るじゃない。だからひとまず、トイレが使用できる距離までは自由に歩けるように鎖で繋ぐことにしたの」
そう分かり易い説明をしながら、巫女は柱に近寄って腰を下ろした。
「少しうるさいけど、我慢しなさいよ」
「おい、何する気だよ!?」
電動ドリルを手に持った巫女を見て恐怖に慄く。
「いいから黙ってなさい。ドリル耳の穴に突っ込むわよ」
俺が大人しくなったところで、巫女は手際良く電動ドリルで柱に穴を開け始める。さらにビニール袋の中から煙草の箱サイズの機械を取り出し、それと鎖を繋げた物を柱に固定された。
何の機械であるのか、そのヒントを得られるような見た目でもなく、ただの真っ黒な怪しい機械としか言えない。だからこそ恐ろしく、募る不安にゲロを吐きそうだ。
機械を柱に取り付けると、最後に俺の右足首に足枷を装着させ、鍵を使って施錠した。
機械の存在は想定外だが、形としては思っていた通りの状態だ。