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こちらの意見など端から聞く気の無い相手に嫌だと言ったところで意味は無く、俺はただただ不安を抱えたまま時が過ぎるのを感じていた。
準備をしろと言われても、寝癖を直す程度しかする気も起こらず、先ほどあった出来事を全て話して無茶苦茶にしてやろうとさえ考えるほどだ。
「では車を用意させるので、私は先に下りて待ってますねぇ」
どことなくテンションの下がっている京香は一足先に部屋を出て行った――と、ほぼ同時に忘れかけていた男が姿を現した。
「ふぅ……体力を消耗して少し寝てしまっていた」
用を足す前よりも痩せたように見える巫女パパがトイレから出てくると、ちょうどキッチンで冷蔵庫からジュースを取り出していた巫女と対峙する。
「……み、巫女!?」
一瞬にして黒い禍々しいオーラを放ち始めた巫女に身を竦ませる。トイレに入る前だったら大惨事になっていたかもしれない。
「どこから湧いて出てきたのよハゲ。汚物らしくトイレの神様にでもなったのかしら?」
「汚物!? い、いや、実はな。臨時収入があったのでお前に金を返しに来たのだ」
「臨時収入?」
疑問に目を細める巫女のそばに寄り、巫女パパは内ポケットから厚みのある封筒を取り出した。
「百万円だ。残りは……またいずれな」
そう言って封筒を巫女に手渡した。俺の記憶だと借金は百万円だったはずだが、本当はもっとあるのかもな。
しかし札束を目の前で見ると関係が無いのにドキッとしてしまう。
「こんな金どうしたのよ? 競馬でも当たったの?」
「違う。実はミーを雇ってくれる人がいてな。前金として貰ったのだ」
「……呆れた。また殺し屋だなんて馬鹿な事してるの。それならまだ競馬の方が良かったわよ。まあもういいわ。用が済んだならさっさと出て行って。私は今から出るから」
渡された封筒で巫女パパを払うような動作をする。
「うむ、そうか……しかし、先ほどの男達はどこに行――」
「ああーっ!」
巫女パパが余計な事を言いそうだったので、俺はごまかすために大声を出した。だがその先の事は何も考えていなかったので、冷たい巫女の視線が氷柱のように尖って俺を突き刺してくる。
「あ、いや、あれだ。やっぱり行くのをやめてくれないか?」
「今さら何言ってんのよボケカス。私が行くと言ったら行くのよ。それがたとえどこであろうとね」
聞こえはいいけど言ってることはただの自己中である。だが、どうにかキムタキのことはごまかせそうだ。
「じゃあもう出るわよ」
巫女は俺の前まで近付くと、足枷の鍵を開錠する。
「ミコリーヌ。鰻子の事はお願いね」
「うん。分かった」
ミコリーヌは小さく頷いて返事した。
「このままでいいのかよ?」
巫女は足枷を外しただけで、俺が逃げないように手錠などをする気配はない。
「アンタはもう逃げ癖がついたクソみたいな男じゃないでしょ?」
振り向き様にそう言った。
「……卑怯だなお前」
少なからず男としてのしょうもないプライドがある俺にとって、巫女の言葉はとても効果的と言える。そういう意図があって巫女が言っていると分かっていても抗えないのは、やはりそれ以外の理由があるからなのかもしれないが。
「男が馬鹿なのよ。さっさと出るわよ。ほら、アンタもよハゲ」
巫女は巫女パパの尻を足蹴りしながら廊下を進み、俺もその後ろを付いて歩く。
部屋を出て地上に降りると、マンションの入り口で車を止めて待つ京香とその取り巻きの黒スーツ男が一人立っていた。
いかにも暴力団ってな感じの黒い高級車に乗る事も忍びないが、行き先が実家だけに一歩が非常に踏みづらい。
「どうぞ巫女さん」
京香自ら後部座席のドアを開けた。
「なあ、マジで行くのかよ?」
車に乗る巫女に、やはり気の進まない俺は三度訊ねる。
「強引に連れて行かれたいの?」
座席の奥からそう言う巫女に、横で微笑む京香の顔を見て、俺は魂が抜けるように脱力しながら車に乗った。
「──ところで先ほどから気になってはいたのですけど、このおじさんは誰なんですかぁ?」
京香は怪訝な表情で巫女パパを見る。
そういえば巫女パパはトイレに入っていたから、まだ二人は顔を合わせてなかったのか。
「ミーは巫女の父親だ」
腕を組んで偉そうに答える。
「えっ!? 巫女さんの……そんなまさか……」
京香は眉をひそめる。
奇抜に剥げた厳つい風貌のおじさんが本当に巫女の父親なのか? と疑うのは分かるが、巫女に関する様々な情報を持っていそうな京香が巫女パパを知らないというのはちょっと腑に落ちないところではある。
可能性としては、自称殺し屋なだけあって自らの素性が洩れないように何かしらの工作をしているのかもしれないという事だろう。
「京香、さっさと車に乗りなさい」
「は、はい」
京香は巫女に急かされ、慌てて後部のドアを閉めて助手席に乗った。同時に黒スーツの男も運転席に乗る。
「……」
窓の外で佇む巫女パパが軽く手を挙げたので、反射的に俺も小さく頭を下げて返事した。巫女パパとはまた会いそうな気がしてならない。願わくば、毛が生え揃う時まで冬眠していただきたいのだが。
「では、金也さんの実家に向かって下さい」
「はい」
京香の命令で車は発進した。
「なあ、まさか俺の実家がどこにあるのか知ってるのか?」
俺に道案内を頼むような事もしないようなので、もしやと思い京香に訊いてみる。
「その通りです。さすが金也さん、察しが良いですね」
正面を向いたまま答えた。
「はあーあ。ったくよ……ていうか親父は仕事でいないかもしれないぜ。母さんも出かけてるかもしれないし」
ドアにひじを立てて頬杖をつき、隣に座る巫女へ話しかける。
「今日は妹の命日なんでしょ? だったら普通休みでしょ」
「確かに……いやいや、親父は医者だからな。妹の命日だとしても一日丸々休みを取っているとは思えない」
「だったら帰るまで待つか、働いてる病院に乗り込むまでの事よ」
なんてこった。
「マジで!? それだけは勘弁してくれ」
「だったら家にいる事を祈ってなさい」
祈るも何も――俺が実家にいた頃は、毎年妹の命日は親父は休みを取っていたことを本当は知っている。おそらく今年も休みを取って、今朝母さんと二人で墓参りに行ったのだろう。
病院に行っている可能性も無くも無いが、こういう時に限って家にいるもんなんだよな。