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「くそっ」
無理だ。
俺の力ではこれ以上頑張っても意味がない。手首の骨が折れる前に心が折れてしまった。
「どうしたの金也、手錠を外したいの?」
俺に目線を合わせて鰻子が訊いてきた。語尾に『だよ』が付かない言葉も話せるようだな。
「当たり前だろ。手錠されて喜ぶほど、俺はまだアブノーマルじゃねえんだよ」
「じゃあ鰻子が外してあげるんだよ」
「えっ、外してくれんの?」
「うん。別にいいんだよ」
これは思わぬ好機。
巫女に俺を部屋から出すなと言われていたことをもう忘れているのか?
まあいい、ナイス天然だ。巫女とどんな間柄なのかは不明だが、鰻子が事情をよく知らされてないわけが理解できた気がする。
「なら今すぐ外してくれよ。あいつが寝てる間にさ」
「了解だよ」
鰻子はパーカーのポケットから鍵を取り出し、手錠を外してくれた。まさかそんなところに鍵があったとはな。
「取れたんだよ」
「ありがと」
俺がお礼を言うのは何か違う気もするが――まあいい。短時間だったとはいえ、もの凄い解放感だ。
不幸中の幸いのまさにそれ。色々な謎を謎のまま残しておくというのは後々心残りにはなりそうだけども、今はこの場から逃げるのが先決だ。
都合良く巫女が寝ていて、唯一の監視役である鰻子が稀に見る阿呆だ。
今ここで逃げずに、いつ逃げるのかって話である。
「……」
息を殺してそーっと立ち上がり、寝ている巫女の様子を窺いながら慎重に一歩を踏む。
忘れ物がないように、デニムのポケットに財布と携帯電話があることを確認し、もう一歩進む。
立った状態だと巫女の寝顔がよく見える。熟睡しているようだから、多少の音くらいは出しても大丈夫だろう。
正直なところ、あのウルトラ可愛い寝顔を無視してこのまま帰ってしまうのは勿体無い気もしているのだが、これ以上長居して面倒事に巻き込まれるのだけはごめんだ。
着ていたダウンジャケットがソファーの上に置かれたままだが、取りに行く勇気はない。どうせ安物だし、諦めよう。とにもかくにも、この部屋が脱出するのみだ。
さらば。
「待つんだよ」
一気に玄関まで走って部屋から出て行こうと足を踏み込んだ瞬間、俺のTシャツを鰻子が左手で掴んだ。
「部屋から出たら駄目なんだよ。鰻子とお話するんだよ」
逃げる俺を察したのか、眉をひそめて首を傾げる。
「ご、ごめんな。ちょっと用事を思い出してさ」
巫女を一瞥しながら、鰻子の意思で手を離してもらえるように嘘を付く。
「部屋から出たら駄目なんだよ」
「……」
この切迫した状況で、ゆっくりと鰻子を説得する余裕はない。そう考えた俺は仕方なく、強引に鰻子の手を服から離そうとした。
バッ、バババッ!
シャツを力ずくで何度も引っ張ってみた。しかし鰻子の握力が思いのほか強くて全然取れない。
せっかく手錠から解放されたのに、困ったものだ。
「頼むよ鰻子。どうしても家に帰らなきゃならないんだ」
「金也は監禁されているんだから、金也の家はここなんだよ」
「ちげーよ」
鰻子は断固として俺を部屋から出す気はないようだ。
手錠を外してくれたから脳天気に見逃してくれると思っていたのに、あくまでも『部屋から出さない』という巫女の言葉は守るってことかよ。
自分が危機的状況であるとはいえ、女の子に暴力を振るうわけにもいかない。
拳をしっかりと握っているので指を一つ一つ離すことも出来ない。
「とにかく座って鰻子とお話するんだよ。金也のことをもっと知りたいんだよ」
ぐぬぬっ……。
こうなったら、あの作戦で行こう。
「……分かったよ。俺は部屋を出て行かない。だから手を離してくれ」
「駄目だよ。離した途端に逃げるといけないから掴んでおくんだよ」
案外冷静なのね。だがそれも想定の範囲内だ。
「よし分かった。じゃあそのまま掴んでいればいいよ」
とりあえずは冷静に、鰻子の警戒心を和らげる為、俺はひとまずその場で正座する。
「あのさ鰻子、俺と遊ばない?」
「うん。いいんだよ」
「叩いて被ってジャンケンポンって知ってるか?」
「知らないんだよ」
俺の作戦とは、叩いて被ってジャンケンポンで遊んでいる最中に隙を見て逃亡するというものだ。
道具は無いけど、「じゃんけんに勝った方が相手の頭に右手でチョップ、負けた方は左手でガードをするんだ」などと説明しておけば必ず両手を使わざるを得なくなる。
しかも、今鰻子が俺のTシャツを握っている左手はガード専用。俺が勝ってチョップをすれば左手を離し、反射的に目も閉じてしまうはずだ。
その瞬間に玄関へとダッシュすれば絶対に逃げられる。
「なんか楽しそうな遊びなんだよ」
鰻子も気分が乗ってきた。何の疑いも抱いて無さそうだから、勝負の勢いで左手を離すことだろう。
悪く思うなよ。
「準備はいいか鰻子、左手がガードだからな!」
「了解だよ」
いざ勝負。
「叩いて被ってジャンケンポン!」
俺はパーを出し、鰻子はチョキを出した。よって勝者は鰻子!
「とうっ!」
「ぶはっ!」
鰻子の水平チョップが俺の鼻にめり込んだ。マジかこいつと思いつつも、中断はせずに勝負を続ける。
「てて……もう一回! 叩いて被ってジャンケンポン!」
俺はグー出し、鰻子はパーを出した。よって勝者は鰻子!
「とうっ!」
「ぶあはっ!」
鰻子の水平チョップが俺の鼻にまためり込んだ。
俺はめげずにもう一度勝負を挑みたいところだったが、あまりの痛みに勝負を中断する。
「ててて……ちょっと、なんでさっきから鼻チョップすんの!?」
一度目は流したが、やはり無視できない行為である。真っ赤になった鼻を押さえ、痛みに目頭が熱くなった。
「だって金也が頭をガードするから、鰻子は鼻にしか攻撃できなかったんだよ」
ルールをちゃんと理解できていなかったわけか。これは素直に俺の非であると認めよう。
「なるほどね! 俺の説明不足だったよ。次から鼻にチョップは禁止な。頭以外はチョップ禁止! 分かった?」
「了解だよ」
一抹の不安を抱きつつも、鰻子を信じてもう一度勝負を挑む。
「叩いて被ってジャンケンポン!」
俺はグーを出し、鰻子はパーを出した。よって勝者は鰻子!
「とうっ!」
「いっでぇぇぇぇっ!?」
俺のガードをくぐり抜け、鰻子の水平チョップが俺の額にめり込んだ。脳髄まで響き渡る重い衝撃に一瞬意識を失いかけた俺は、あまりの痛みに一時勝負を中断した。
「ちょ……ちょっと! 頭以外は駄目って言ったじゃん!」
「頭だよ?」
鰻子は真顔で答えた。
「いやまあ確かに頭なんだけどさ、水平チョップで額に攻撃されたら腕でガードしてる意味がないじゃないか。そもそも水平にチョップが間違っているんだよ。縦に来い、縦に。分かるか?」
「うーん。鰻子は縦にチョップをすればいいの?」
「そうそう、その通りだよ! 鰻子は天才だな。じゃあもう一回やるぞ!」
「うん!」
俺は本来の目的を失念し、またまた鰻子に勝負を挑んだ。
「叩いて被ってジャンケン──ポげぇぇぇえッ!?」
突然右側頭部に衝撃が走った。俺はその反動で体を倒し、床でも頭を強打する。
「ギャーギャーうっさいわね。誰の許可を得て騒いでんのよカス」
なんてこった。
調子に乗って騒いでいたせいで巫女が起きてしまったようだ。
「いってえな! 何しやがった!?」
側頭部がジンジンとして熱い。アドレナリンが出ていなかったら気絶していたレベルの痛みだ。
「喧しいわね。銃のグリップをこめかみにフルスイングしただけよ」
振り向くと、巫女は銃身を握り、まるで拳銃を斧のように持っている。
「しただけて!? 銃の使い方間違ってるし、馬鹿じゃねえのか!」
思わず吐露してしまった感情を、聞き流してくれるような女ではなかった。
巫女は殴打した俺のこめかみに銃口を当て、記憶新しいデジャヴを引き起こす。
「馬鹿はアンタよ。手錠が付いていないようだけど、どこへ行くつもりだったのかしらね?」
「……」
そうだ。俺は逃げるつもりだったんだ。鰻子との勝負に夢中になって忘れていた。我ながらアホすぎる。
「ト、トイレに行こうと思いまして……。鰻子に無理を言って手錠を外してもらいました」
銃口を突き付けられた状態での沈黙は精神的に難しく、目を泳がせながら答える。