黒犬物語 ~夢みる犬~
いつ、どこで誰が何の目的でこの童話集を書いたのか
それを知るものは誰一人としていない
表紙に記されているのは『黒犬物語』という題名だけ
そこに書かれてあるのは、黒い犬たちにまつわる物語
黒犬たちの生き様を描いた一冊の本
これはその中の一つ
静かに幸せな夢を見続ける、黒犬のおとぎ話
むかし、とある北の国に小さな村があった。そこに一人の少女と年老いた大きな黒犬が家族と共に暮らしていた。
少女は村長の孫娘で、黒犬はその家の飼い犬であった。少女と犬は幼い頃から一緒に過ごしていた。春には野原で、夏には小川でよく遊び、秋には山にキノコ狩りに出かけ、寒い冬は暖炉の前で寄り添うようにしていた。
少女にとって黒犬はかけがえのない家族のはずだった。
しかしお互いに成長するにつれて、少女は大人に近づいていき、反対に黒犬は年老いていく。そのためか、次第に可愛くなくなり、懐いて来る黒犬を疎ましく感じ始めた。
今ではすっかり黒犬が嫌いになって、暴力を振るうようになった。
それでも黒犬は、いつか元の優しい少女に戻ると信じて、どんなに乱暴されても暴言を吐かれても、ただジッと耐え続けているのだった。
ある冬の日であった。
友達のところに出かけようとした少女は、愛用している桜貝の髪飾りが無いのに気付いた。それは一昨年の夏にやってきた行商人から、今は亡き祖母が買ってくれた思い出の品だった。部屋中を探し回ったが、どこにもない。
困った少女は台所で料理をしている母親に訊ねた。
「ねえ母さん、私のお気に入りの髪飾り知らない?」
「知らないわよ。部屋のどこかに落ちているんじゃないの」
「部屋の中を探したけど、見当たらなかったわ」
「もう一度、よく探してごらんなさい」
「何度も探したわ。そうだ、きっと黒犬が持っていったんだわ」
「犬が勝手に物を持ち出したりするもんですか」
母親が叱責するも、少女は引き下がらない。
「だって、他に考えられないもの。そうに違いない」
そう決めつけると少女は母親が止めるのも聞かず、黒犬のところに向かう。
ちょうど黒犬は暖炉の前で身体を丸めて、気持ち良さ気に眠っていた。少女はそれをみると、無性に腹が立った。
「起きなさい、バカ犬!」
少女はいきなり怒鳴りつけた。
黒犬は片方の目蓋を空け、耳を少し動かしただけでまたすぐに眠りにつく。
「起きなさいと言っているでしょう!」
今度は眠っている黒犬の脇腹を強く蹴った。
黒犬は突然のことに驚いて飛び起き、さっと伏せをして少女を見上げる。
「おまえ、私の大事な髪飾りを持っていったでしょう。白状しなさい。さもないと、この家から追い出すわよ」
しかし、黒犬は寂しげにクウンと鳴くだけ。まるで自分は無実だと訴えているように。
「嘘つき! どこまでも強情な奴ね。こうしてやるわ」
少女はそう言うと、力いっぱい犬の尻尾を踏みつけた。
尻尾を踏まれた黒犬は、苦痛と怒りに我を忘れた。そのまま少女に対して唸り声をあげ、少女の右足に噛み付いた。鋭い犬歯が柔らかい肉に深く突き刺さる。
思わぬ黒犬の反撃に少女は泣き叫びながら母親を呼んだ。
「母さん、助けてっ!」
悲鳴を聞きつけ、駆けつけた母親は暖炉の前で血を流しながら倒れこむ少女と酷く興奮している黒犬を見つけた。
母親は大慌てで、手にしたフライパンで黒犬を追い払い、隣の家に助けを求めた。
「誰か、すぐに夫を呼んできて来てちょうだいっ! 娘が犬に噛まれたのよ」
村人から急ぎ話を聞かされた祖父と父親は、仕事を止めて家に飛んで帰った。
命に別状は無かったが、顔に引っ掻き傷が残ってしまった。
そして、少女と母親から事情を聞いた村長と父親はかんかんに怒り、火かき棒で黒犬を打ち据えた。
「このバカ犬めっ、恩知らず!」
「娘に怪我を負わせた報い、これだけではすまさんぞ」
黒犬は身体中を打たれ、キャンキャン鳴いた。
仕舞いには手当てもされぬまま、村から叩き出されてしまった。
村を追い出された黒犬は、三日三晩、冷たい風が吹き抜ける森の中を彷徨った。
歩けば歩くほど、寒さが身に沁みた。空腹で堪らず、鼻先で餌が落ちてないか、嗅ぎ分けてみる。真冬の真っ只中に食えるものはない。
なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。
黒犬は追い出した人間たちを恨み、憎み、そして悲しんだ。
あんなに優しかった少女は、どうして自分を苦しめるのか。当然、黒犬にはわからなかった。
力弱く歩いていると、木々の間から音も無く粉雪が風にのって踊り始めてきた。同時に、人気のないはず森で話しかける声が黒犬の耳に入ってきた。
「おい、そこの老いた黒犬。こんなところで何をやっているんだ?」
鼻先を上に向けると、虚空には白いローブを纏った小さな雪の精霊たちがいた。
「それに、そんなしょぼくれた顔して一体どうした?」
「おいらたちに話してみな。何か力になれるかもしれないぜ」
黒犬が村を追い出された事情を話すと、雪の精霊たちは怒り出した。
「それは酷い話だ、許す事はできない」
「これから山や森に一雪降らせるつもりだったが、真っ先に人間どもの村を氷漬けにしてやろう」
「おまえさんをそんな目に遭わせた、娘の目を潰してやろう」
風に舞いながら雪の精霊たちは相談を始めた。
そして、そのうちの一人が代表してこう言った。
「哀れな黒犬よ。このままずっと歩いて行くと、大きなイチイがある。その根元に洞があるから、そこでゆっくり休んでキズを癒すがいい。その間、我らはおまえに代わって仕返しをしてやろう」
黒犬は雪の精霊たちと別れ、先を進んで行くとやがて、目の前に大きなイチイの樹が現れた。天まで届きそうなその樹の下には、ポッカリと穴が開いていた。黒犬は辺りを注意深く嗅ぎながら、洞の中に入る。
不思議なことに洞の中は暖かく、芳しい香りが漂って心地良かった。ここにいると、打たれたキズも痛まず、空腹感もない。
黒犬は壁にもたれるように身体を横たえた。歩き疲れたせいか、急に眠たくなってきたからだ。
そして、そのまま寝息を立てて夢の中に落ちていった。
その頃、少女が住んでいた村では、大変な事態が発生していた。
突如として例年にない大雪に見舞われ、さらに近隣の村々とをつなぐ街道まで塞いでしまった。雪は止む気配がない。
雪掻きしてもすぐに埋もれてしまうため、人々は村の外に出ることもできない。この大雪が雪の精霊たちの仕業だとは、誰も知る由もない。
遠くの街にキズの治療に向かうはずだった少女も、家に閉じこもるしかなかった。いつ止むともしれぬ雪を少女は恨めしく思った。次に考えたのは、黒犬はどこに行ってしまったのか、と。
あの後、桜貝の髪飾りは思わぬところから見つかった。自分が浴室に置いていたのを、すっかり忘れていたのだ。
髪飾りを見つけた直後、嬉しさと同時に打ち据えられた黒犬が、今になって可哀想に感じてきたのだ。けれど、自分に怪我を負わせたことは、やはり許せない。
少女は不自由になった片足を擦りながら、雪を眺めていた。
その夜。少女は台所にいる母親におやすみを言い、部屋に戻ろうと応接間を通りかかったら、村長と村人たちが話し合っている声が聞こえた。
「このまま雪が降り続いたら、食料や燃料が足りなくなっちまう」
「なんとかならないものか」
すると、村人の一人がこんな事を口にした。
「森の奥にあるという、虹色に輝く奇跡の湖に行ってはどうだろう?」
「どんな願い事でも叶うという、あれか?」
「馬鹿げた事を言うな。あれは迷信だ」
村長が声を荒げる。
「迷信なもんか。うちの婆さまが子供の頃、その湖に大切にしていた腕輪を投げ入れて願いを叶えたって言ってた」
すると、もう一人も
「おらも聞いたことがある。どんなに寒くても決して氷が張らないそうだ。おまけに湖の水はどんな病や怪我を治すことができるらしい」
その話を耳にした娘は、すぐさま部屋に戻った。そして暫らく悩んだあげく、怪我を治すため、こっそり外に出るのを決めた。そして食料庫から四日分のパンやチーズ、厚切りハムにミルクを持ち出し、ハイキング用のリュックに詰める。
誰にも見つからないようにするため、夜明けと同時に家を抜け出した。そして雪が降りしきる中、森の中にある泉を目指した。
道のりは楽ではない。深い雪で足元は悪く、しかも片足を怪我しているため思ったより前に進めない。半日掛けて、少女はようやく街道を抜け、森の入り口付近に辿り着いた。
そこで少女は、ふと首をかしげた。
森の雪が今まで通ってきた道より少なく、加えてあれだけ降っていた雪がパタリと止んだのだ。
「不思議なこともあるのね。森に着いた途端、雪が止んでしまうなんて」
その時、誰もいないはずの森で声が聞こえた。
「おい、人間の娘。こんなところで何をしているんだ?」
「森に入ったって、食べ物は無いぞ」
話しかけてきたのは、雪の精霊たちだった。
少女は答えた。
「飼っていた犬に怪我を負わされたの。だからキズを治すために、森の奥にある奇跡の湖を探しにきたの」
「犬に怪我を負わされた、だって? そいつはもしかして黒い犬か?」
少女は目を丸くして、
「ええっ、そうよ。どうして知っているの?」
それを聞いた精霊たちは次々にこう言った。
「さてはおまえか。黒犬を苛めた人間の娘は」
「黒犬を追い出した張本人だな。なんて酷い奴だ」
「おまえなんか、こうしてやる」
雪の精霊たちは、少女の顔を包み込むように張り付く。
凍てついた感触が顔中に走り、少女は思わず目を閉じた。
「きゃっ! つ、冷たいっ! 何をするの」
手を振り回して抵抗するが、精霊たちは離れない。
「おまえに苛められた黒犬の仇だ。思い知るがいい」
少女の顔は雪で白く化粧をしたようになり、目蓋が開けられなくなってしまった。
「目が見えなくなって、森の中を彷徨うがいい」
「そして、狼たちの餌食になってしまえ」
「おまえの村はこのまま氷漬けにしてやる。たとえ心から反省したとて、もう遅い」
雪の精霊たちはそういい残すと、少女から離れてどこかへ去って行った。
目が見えない少女は、その場に蹲って泣いた。不安と恐怖、そして一人ぼっちの寂しさが少女の心を支配する。このままでは、本当に狼の餌食になるかもしれない。
「お父さん、お母さん……怖いわ。……誰か、誰か助けて!」
少女は叫び声を挙げた。
どのくらい、時間が過ぎたのか。少女は雪の中を何かが近寄ってくる音を耳にした。
足音から、どうやら四足の動物であるらしい。正体不明の動物は、しきりに少女の周りを嗅いでいた。そして時おり、ざらついた舌で顔や手を舐めた。
餌に餓えた狼だろうか。そう考えると、少女はすぐに逃げ出したかった。だが、足を怪我しているうえ、寒さと恐怖で身体も動かない。
動物はおもむろに、「わんっ」と鳴いた。鳴き声で動物の正体が、犬だというのは判った。その犬こそ、少女が幼い頃から一緒に過ごし、また先日追い出した黒犬なのだが、目の見えない少女がその事実に気付く事は無い。
そして少女の服の裾を口でくいっ、と引っ張った。
「いや……お願い、助けて」
このまま食べられてしまうのではないか、少女はそう思った。
だが、黒犬は動かない少女に襲いかかる様子はない。あれだけ酷い目に遭わされたというのに。それどころか何処かへ案内しようと、もう一度、裾を引っ張る。
「もしかして、私を助けてくれるっていうの?」
問いに応えるように、黒犬は少女の顔をペロペロと舐めた。その仕草に少女は、何か懐かしい感じがした。ゆっくり立ち上がって、黒犬に掴まる。
黒犬は少女の目となり足となって、歩き出した。そして、まず自分が休んでいたイチイの樹に案内した。
「ここは何処かしら? とても暖かいわ」
洞に連れて来られた少女は、安心したのか急にお腹が空いてきた。リュックに食べ物があることを思い出し、パンを一個と厚切りハムを一切れ、そしてミルクを出した。
「ほら、あなたもお食べ。遠慮しなくていいわ、助けてくれたお礼よ」
黒犬は差し出されたハムを、嬉しそうに食べた。
少女もパンを食べながら、
「わたしね、虹色に輝く湖を探しているの。あなたも一緒に探してくれないかしら」
問いかけに黒犬はただ一言、「わんっ」と返事した。
「ありがとう。あなたって、とても優しいのね」
少女はとても嬉しくなって、傍らにいる黒犬の頭を撫でた。黒犬も怨みや憎しみを忘れ、再び巡り会えた少女との出会いを喜んでいた。
イチイの洞の中で一夜を過ごした少女と黒犬は、翌朝から森の奥にあるという湖を求めて出発した。
出かける前に黒犬は少女のために、どこからか適当な木の棒を探してきた。少女は片手でそれを杖代わりに使い、もう片手でははぐれないように、黒犬の背中に手を置いて歩いた。
一人と一匹の旅は、決して楽なものではない。
目の見えない少女は、雪に足をとられて何度も転び、杖を失くしそうになった。その度に黒犬は杖を拾っては少女に渡しを繰り返した。
また別の時には、偶然に餌を探し求めた狼の群れに襲われた。黒犬は少女を庇うように前に出て、鋭い牙をむいて狼どもと対峙した。
多勢に無勢、狼の群れが一斉に襲い掛かり、まずは黒犬から血祭りに挙げようとする。
だが、黒犬は狼の遠吠えにも負けないくらいの大きな唸り声を挙げたかと思うと、電光の速さで狼のリーダー目掛けて、食らい掛かった。
思わぬ反撃に狼のリーダーは驚いた。人間から餌をもらい、寝床を与えられ、狩りの仕方も知らぬ軟弱な飼い犬ごときが、自分たちに立ち向かってこようなど、考えていなかったからだ。
だが、狼のリーダーも負けてはいない。幼い子どもや群れを生かすために、何としても餌を捕らねばならない。そして何より、野生に生きる獣の本能と矜持が許さないのだ。
両者は上になり、下になりを繰り返し、噛み合いながら雪と血にまみれて闘い続けた。
そして、勝者と敗者とに判れる瞬間がやって来た。
勝利者の座を勝ち取ったのは、黒犬のほうであった。
敗れて横たわった狼は、とどめを刺せと言わんばかりに、力弱く鳴いた。だが、黒犬のほうも立っているのが、やっとだった。
黒犬は他の狼たちが見守る中、リーダーに敬意を払うように血で汚れた顔を舐めまわした。そして、いったん少女の許へ行き、リュックに鼻を摺り寄せて食べ物をねだった。
少女は目が見えないながらも、黒犬があることを願い出ていること理解した。そしてリュックから残っていた食べ物を出し、それを狼たちの前に置いた。
「……何のつもりだ?」
狼のリーダーが聞いた。
「ただでくれてやるわけではない。お前たちに聞きたいことがある」黒犬が言った。「この森のどこかに奇跡の湖があるはずだ」
狼はしばらく考えたあげく「よかろう」と答え、黒犬たちに湖の場所を教えた。
それから二日間、少女と黒犬は食べ物が無いまま、森の奥深くを歩き続けた。どちらも疲れと空腹で、いつしか会話も減っていた。特に黒犬は狼との戦いで負傷したままで、いつ倒れてもおかしくない状態だった。
進んでは少し休み、また歩いては休憩をする。少女と黒犬は互いを労い、励ましあうことで、絆を深めていった。
そして、ついに少女と黒犬は目的の湖に辿り着いた。
「やっと奇跡の湖に着いたのね」
水の匂いとせせらぐ音を聞いて少女は、はやる気持ちを抑えきれない。
話しに聞いた湖だと確信したのだ。
周囲を高い木々で囲まれた湖には氷一つなく、水面は虹色に光り輝いて、この世とは思えない幻想的な光景が広がっていた。もちろん、少女の目にその光景は映らない。
黒犬に連れられて、湖の畔まで近づいた。そしてその水を両手ですくってみたが、冬だというのに、冷たくない。
すくった水で試しに凍りついた目蓋を何度も洗う。けれども、閉ざされた瞳は少しも開こうとしない。次に足の傷口にも水をかけてみるが、沁みるだけで治る様子もない。
「やっぱり、ただの迷信だったのかしら」
少女は悲しみに表情を曇らせた。傍らにいた黒犬も心配そうに見上げる。
「心配しないで。ここまで来れたのは、あなたのおかげよ。ありがとう」
気丈に言いながら、少女が黒犬の頭を撫でようと手を伸ばした時だった。
黒犬がどさっ、と音を立てながら地面に倒れた。舌を出し、口の端からは苦しそうな息が漏れていた。
「どうしたの!?」
少女が叫ぶ。黒犬が心配させまいと、顔を上げようとするが、力が入らない。視界がだんだんぼやけて、かすみ始める。本能的に黒犬は自分の死が近いのを悟った。
「死んじゃだめよっ!」
少女が手探りに黒犬を捜し、抱きしめる。凍りついた目蓋の隙間から、涙が溢れ出す。
黒犬は辛うじて、「くぅん……」と鳴き声をあげ、少女の目から流れ出した涙を舌で拭った。
すると、どうだろう。少女の目を塞いでいた氷の封印が、次第に溶けだしていくではないか。そして氷が完全に溶け切った瞬間、少女は今まで自分を助けてくれた存在の正体を、初めて知ったのだ。
「そんな……ずっと私を助けてくれたのは、おまえだったのね」
衝撃の事実をまえに硬直する少女。
「ずっとおまえに意地悪してきたのに。おまえを追い出してしまったのに。なのに、おまえは私を許してくれたの? ずっと守ってくれたの?」
抱きしめた腕の中で、黒犬が顔を上げる。
「こんな、こんな私のために……命まですり減らすなんて、バカな子。でも、本当はおまえが居なくて、ずっと寂しかったわ。ごめんね」
少女はこれまでの自分の行いを後悔していた。さらに雪の精霊たちから、村が大雪に閉ざされている原因が自分にあると、知らされたからだ。
「それに私のせいで村はずっと、雪に埋もれたまま――どうしたらいいのかしら」
その時だった。
風もないのに水面に突然、波紋が広がって水の中から、竪琴をもった湖の精霊が姿を現した。精霊は岸辺にいる少女に語りかけた。
「何を嘆き悲しむ、人間の娘よ。望みがあるなら、我が竪琴に申し出るがよい」
「私の行いのせいで、村が雪に閉ざされています。だから、村を救って下さい」
「ならば、相応しいだけの対価を差し出してもらうぞ」
少女は考えた。何を捧げればよいのだろう。大切にしている桜貝の髪飾りはどうだろう。しかし、髪飾り一つで村が救えるとは思えない。すべての原因は自分にある。ならば、差し出すものは一つしかない。
少女は黒犬から手を放し、毅然とした態度で答えた。
「対価の品は私自身です。私の命を捧げます」
「よかろう。では、その犬を捨てて、こちらに来るがよい」
少女は最期に黒犬をもう一度、強く抱きしめた。
「お別れね。この数日間、おまえと一緒に過ごせて幸せだったわ。天国でまた会えるといいわね」
岸辺にそっと黒犬を横たわらせると、少女は服を着たまま湖の中に入っていく。その向こうには、湖の精霊が優雅に竪琴を鳴らしていた。美しい音色が湖中に響き渡った。
黒犬は少女を止めようとした。だが、身体が云うことを利かない。
力のかぎり、声のかぎり黒犬は吼えた。
やがて、少女は湖の精霊のところに辿り着くと、そのまま一緒に姿を消してしまった。
どのくらい時間が経ったのだろう。
湖畔には、黒犬が一匹だけ取り残されていた。もはや声を出す力すら残されていなかった。死は確実に近づいている。黒犬はそれを迎えるために、ゆっくり目蓋を下ろした。
空にはいつの間にか灰色の雲が広がり、辺りは一段と寒さが増してきた。北風に乗って雪の精霊たちがこんな歌を歌っていた。
雪や降れ降れ、雪や降れ
山も森も野原も、人間の村も
何もかも白く染めてしまえ
閉ざしてしまえ
生き物たちは、凍える寒さの中で眠ってしまえ
さすれば、そこは我らが世界
白銀の世界
湖畔のそばで、黒犬の姿を見つけた雪の精霊たちは口々に言った。
「おやおや。あそこにいるのは、前に会った黒犬じゃないか」
「まだ、ひとりぼっちか」
「どうやら死に掛けているようだ」
「なんだか哀れな犬だな」
そこで精霊たちは、この黒犬のために氷の墓を作ってやる事にした。
天高く昇り、神様に許しを得て湖の周囲にだけ雪雲を集めてきた。
そして奇跡の湖では来る日も来る日も、猛烈な大雪が降り続いた。次第に湖の周りは降り積もった雪が凍りついて、常冬の世界と化した。そこには動物たちはおろか、人間すら立ち入ることが出来なくなってしまった。
閉ざされた氷の中では黒犬がずっと眠り続け、決して醒めることのない夢を見ていた。
それは、優しい少女と共に過ごしている、幸せな夢だった。
(了)