1話
背後から届く昼休みの嬌声が徐々に遠ざかっていく。
東館と西館を繋ぐ一階の渡り廊下は壁がなく、振り返ると東館の校舎の姿を見ることが出来た。五年前に建て替えられたばかりというその建物はまだ新しさを感じさせ、清潔な白色の壁面は陽光を受けて異様なほどに爛々と煌めいている。
俺は思わず目を腕で覆った。この眩さは、嫌に目に染みる。単純な壁面が反射した光、ではなかった。もっと明るく陽気で、エネルギッシュで、だけど人によっては心がささくれ立つような、そんな無慈悲な白々しさ――少なくとも、俺にはそう感じられた。
その時、ぶわりと風が吹きすさび、校内に点々と植えられた木々を踊らせる。すると、俺のスリッパにはどこからか飛んできた枯れ葉が張り付いた。
「…………クソッ」
つま先を振るうが、中々枯れ葉は剥がれない。ついムキになって空を蹴れば、今度はスリッパごと飛んでいく。明後日の方向に飛んだスリッパは中庭の芝生の上に落ちた。
「……あーぁ……」
仕方ないので片足跳びでスリッパの元に向かう。無駄にデカい身体を丸めてスリッパを拾い、頑固な枯れ葉を指で摘まんで捨てた。すっかり生気を無くした茶色の枯れ葉は緑の芝生の葉先に浮かび、やがて再び吹いた風に乗ってどこかに消える。独りで、どこにも受け入れられず。
スリッパを履き直しながらその様子を見ていた俺は、不意に胸がチクリと痛むのを感じた。馬鹿にしてるのか、とも思った。
俺は大股で歩みを再開する。
渡り廊下を過ぎ、西館に入ると、右手に職員室のプレートが見えてくる。プレートの近くの壁には『身だしなみチェック』という注意書きとともに大きな全身鏡が設置され、その前では二人の女子がキャッキャとやっていた。
「ねぇ、この前髪をこうしてみたらもっと可愛いんじゃない?」
「ちょっ、やだ。あはは、なにこれ、めっちゃダサいじゃん。もう、直してよ~」
何やら楽しそうな二人。
邪魔したら悪いと思って、俺は足を止める。
が。
片方の女子が俺に気づき、この姿を認めるなり、
「ッ! …………ねぇ、そろそろ行こうか」
と、小さな悲鳴に似た声を上げ、その友達とともに逃げるように走り去ってしまった。
「…………チッ、またか」
つい悪態が口から漏れる。
こうして人に驚かれるのは初めてではなかった。むしろ日常的と言ってもいい。学校でも、街でも、電車でも。皆、俺の姿を見ると顔を青くしていた。
おもむろに鏡の前に立ってみる。鏡面は一人の柄の悪い男を映し出した。
……まぁ、女子が逃げ出すのも無理ないか。
本当に、自分でも思う。物騒な風貌だった。
やたらと縦に伸び続け、ついに今年の春には百九十センチを突破した巨体は長袖のスクールシャツの上からでも分かるほどゴツゴツと無骨。普通に立っているだけなのに、自分の意志とは無関係に威圧感を振りまいてしまっている。
上に乗っかる顔もこれまた印象が悪い。
ただでさえ、寄り付きがたいタイプの顔なんだ。父親の遺伝子を強く反映した造りはまさに西洋人のそれであり、ブルーの瞳と色の薄い髪がさらに際立出せている。たまに自分でも「この顔で日本語を喋るのか」と違和感を覚えることさえある。
しかも、それでいての凶相。とくに目つきなんか最悪だった。
三白眼なことは勿論だが、この突き出た眉の部分の骨が眼球に影を落として、自然と不機嫌なような暗い表情を生み出している。そのため、ちょっと俯きでもしたら殺人を計画しているみたいな雰囲気を醸し出してしまうし、上を向けばそれはそれで威嚇的になるから、逃げ場がない。
端的にまとめれば、『常に機嫌が悪そうなデカい外人』といったところだろう。
「……ホント、悪い顔してるな」
手を伸ばし、鏡に映る自分の顔を握りつぶすように掌を押し付ける。
この外見のおかげで散々苦労してきていた。
避けられ、恐がられ、そのくせ警察官ばかり寄ってきて職務質問の嵐……。俺だって元々はそこそこ明るい性格だったらしいが、そんな扱いを受けてる内にいつの間にか捻くれ、今やまともに友達すら作れやしない。
……あの馬鹿二人のせいで……どうして俺が……。
もう仕方がないこととはいえ、やはりそれでも両親を恨みたくなる。
まともなことは何もしてくれなかった癖に、唯一の置き土産がこの遺伝子とは。
全く、あの二人は碌なことをしない。
ちなみに、俺の父親は、曰く「独自のルートで仕入れた粉末状のシャブシャブや大きな麻のハッパ風バッグを販売して、街の若者をハッピーにする」仕事をしていたそうで、俺が小学校四年の頃に「修行」という名目で忽然と姿を消した。母親も「お父さんについて行く」と俺を祖母の家に預けてどこかに消えた。幼い頃は素直に信じていたが、今思えば明らかにアレだ。きっと今頃は二人とも塀の中か更生施設に――
いや……、もうやめよう。あんなクソ親を思い出すのに時間を使うなんて無駄だ。俺は一度頭を強く振って邪念を振り払った。
なにも俺はわざわざ鏡を見にここまで来たわけではない。
生活指導の教師から呼び出しを受けていた。
理由は知らない。だが、思い当たる節もないし、大方、誤解か濡れ衣の類だろう。こう見えても生活態度は良い方だから、特別大きな問題は起こしたことはない。
俺は服装を軽く正すと、職員室のドアを開いた。
「失礼しまーす」
お昼休みとあって職員室の中では教師が各々の席でゆっくり食事を取っている――が、俺の姿を見た数人の教師がガタガタガンと戦いた。……教師までビビるなよ。
「あー、えーっと、生活指導の伊佐未先生はどこですか?」
一人の教師が部屋の隅を指さした。見れば、何やらデスクの並びに一つ、書類に埋もれたゴミ捨て場のような一角がある。まさかあそこに人がいるのか?
俺の不安を他所に、その山からニョキリと腕が飛び出した。
「おーい、こっち、こっち! ほら、寄ってこーい。ここにいるぞー」
声の元に行ってみると、確かに人はいた。
書類の山の中で、その女性――伊佐見先生はズルズルとカップ麺を啜っていた。ジャージを着ているところから察するに体育を受け持つ教師のようだが、書類の山の印象そのまま、気だるそうな眼も、ぼさぼさの髪も、まるでダラしない。生活指導なる大層な看板の威厳は皆無といってよかった。
そんな俺の呆れた視線を感じ取ったのか、伊佐見先生はニヘラと笑う。
「ちょっと汚れてるけど、まぁ、気にすんな。これでも何がどこにあるのかは全部分かってるから」
「……そうなんすか」
俺は一応頷くが、どうみても「ちょっと」というレベルじゃない。書類や封筒、ファイルなどが絶妙なバランスで折り重なって城壁のように聳えており、近くのデスクから空間を切り離している。他の教師に何か言われないんだろうか……。
「で、何? 私に何の用なの?」
「えっ、ああ、なんか呼び出されたみたいなんで」
「あ、そう。名前は?」
「一年C組の一之瀬柊也」
「あー、はいはい、なるほどなるほど。一之瀬ね。ちょっと待ってな、どれだったかな」
伊佐見先生は手に持ったカップ麺を勝手に隣のデスクに置き、積まれた書類に上体を突っ込むようにして何やらまさぐり始めた。その様子はさながら洞窟探検をしているようにも見える。
俺は彼女の背中に話しかけた。
「あのー、俺なんかやりましたか? 覚えないんですけど」
「いやいや、そういうんじゃないよ。贈り物が届いてて」
「贈り物?」
学校に、贈り物?
どういうことだ。俺宛ての贈り物なら自宅に送られてくるはずだろう。となると、祖母か? 俺が何か忘れ物をして、それを届けてくれたのか? いや、しかし、頼んでもいないのに祖母がそんなことをするとは思えない。
……一体、誰から何が送られてきたんだろう?
「あった、あった。これかな、どれ」
伊佐見先生の四つの封筒を手に書類の山から帰還する。そして、彼女は一つ一つの封筒に顔を近づけ、ふんふんと鼻を鳴らした。
「なにやってんですか?」
「ああ、お前の贈り物を封筒に入れて保管してたんだけど、よく考えたら、封筒にどれがどれとか目印付けてなかったら匂いで確かめてんの。いいから見てな。私の鼻はすごい効くんだからな。この内の三つは落し物とか没収品だ。確率四分の一。でも私は一発で当てるぞ」
警察犬みたいだな。というか、さっさと中を見た方が早いのに……。
しかし、伊佐見先生はちょっとニヒルに笑って得意げである。面倒なので深くは追及しない。
「つーか、俺への贈り物って、誰からですかね? それと中身は何だったんですか?」
「えー、なんだったかな、一応プライバシーは守らないといかんと思ってあんま見てないんだけど、確か小麦粉みたいな白い粉が入った小袋だったかな」
「白い粉……?」
嫌な予感が背筋を走った。
「で、送り主のところには一之瀬由紀恵、括弧括りで一年生の一之瀬の母って書いてあったぞ。お前のお袋さんだろ」
……母から、白い粉?
…………あの粉末状のシャブシャブを売っていた男の妻が俺に白い粉を?
つまりその白い粉って――
「あ、分かった。これだ、これ。どれ、一応中身を確認して――」
「ヤク―――――ッ!」
封筒を開こうとする伊佐見先生の手首を俺は咄嗟に掴んだ。
伊佐見先生は目を剥いて俺を見つめる。周囲のデスクからもザワザワと騒めきが生まれていた。
「な、なんだ急に。それにヤクって……?」
「その、ヤク、じゃなくて、ヤメです。止めて、って言おうと思ったんです。先生、大丈夫。俺は先生信じます。渡してください、確認はいらないです」
「お、おい。お前の顔怖いんだから、そんな近寄るな」
俺には伊佐見先生の言葉も周囲の声がほとんど聞こえなかった。
……やばい、人生が終わる。
そんな思いが俺の脳を支配していた。まるで首筋に刀を当てられたような冷たい感情を全身を駆け巡る。
俺はそのブツを奪おうともがく。もう相手が先生だろうが場所が職員室だろうがが関係なしだ。巨体を活かして伊佐見先生に覆いかぶり、掴んだ手首を捻って、レスラーよろしく思いっきりの力技を仕掛ける。ギュッと握ると、伊佐見先生は悲鳴を上げた。
「離せよ、先生!」
「いてて、分かった! 離すから止めろ、バカ!」
ついに先生の手から封筒が落ちる。だが、その時、
「ていうか、そんなに暴れるな。あんまり暴れると――」
デスクにもこの巨体がぶつかったのか、書類の山がバラバラと崩れてしまった。書類の塊が雪崩のように滑り、ボタボタと床に落ちて書類の溜りを作っていく。
そして、伊佐見先生の手から離れた封筒もその中にポトンと落ち、次々降ってくる書類に埋もれた。
「ああ、ほらやった! だから言ったのに!」
俺は伊佐見先生を無視して、封筒を探しに向かう。
幸運にも、書類をいくらかどかすと、すぐに俺の運命を握る茶色の封筒は見つかった。俺はその爆弾を大切に抱え、立ち上がる。中で袋が破裂して、粉が零れたりしてないよな? こんなところで粉が飛散したら大惨事だぞ。
周りの様子を窺えば、他の先生もちらほら集まり始めていた。早く逃げないといけない。
しかし、どうする? どこへいく? これは、どう処理すればいいんだ!?
「おい! 聞いてるのか、一之瀬!」
「すいません。でも、急ぐんです」
俺は平静を装って頭を下げる。そして、逸る気持ちを抑え、ゆっくりと歩いて職員室を出た。教師たちは呆気にとられて立ち尽くし、追ってはこなかった。
マジで、どうする? どうする!? 俺は白い粉の隠し方なんて知らないぞ。だいたい、学校にいてどこに隠せというんだ。いや、ダメだ。とにかく落ち着かなくては。そうだ、一旦、人のいない場所に行こう。
と、廊下に出たところで、人影と鉢合わせて俺は思わず「うおっ!」っと声を上げた。誰か知らないが、鏡の前で一人の男子生徒が髪をセットしていたのだ。
気に障ったのか、ソイツは「あぁん」と凄んでくる。男のくせにポニーテールのチャラい奴だった。しかし、今はどうでもいい。それどころじゃないんだよ。
「悪い、ちょっと驚いただけだ」
素直に謝ると、チッと舌打ちしてソイツは鏡に向き直った。「んだよ、驚いたのはこっちだよ」とかブツブツ言っていたが、俺は無視して廊下を進む。
どこへ行く? とりあえず東館に戻ることは出来ない。昼休みの今、教室棟である東館は生徒で溢れかえっているのは間違いないからだ。となると、上へ行くしかないか。西館の二階、三階は特別教室が並ぶだけだし、人がいないかもしれない。ああ、そうだ、それで適当に階段にでも座って考えよう。
俺は一人になれる場所を求めて階段を駆け上がった。