八人目のお客様は冷たいひと
「うーん……」
目の前にあるそれを見ながら、麻紀は僅かに首を傾げた。
現在、もののけ通りのキャバクラ『One Night Honey』は絶賛営業中である。実際に、割と今日は平日にしては客が多く、麻紀以外のキャストは全て指名やヘルプで出張っており、待機席に座っているのは麻紀だけだった。
常連のラッセルももう帰ってしまったし、クリフが来るならばもう少し早い時間に来るだろうから、今日は来ないだろう。色々と人外の面々を相手に接客を続けてきたが、本格的に常連となってくれて麻紀を指名してくれるのは、未だにこの二名だけである。強いて言うなら、競走馬のオグリハットが常連になっているけれど、彼が来るのは常に日曜日の夜なのだ。平日は練習があり週末にレースがあるため、その後で来るのだとか。
布太郎は仕事が忙しくてあまり来ない。でぇだらぼっちの大作は、奥さんと仲良くしているのか、あの日以来姿を見ていないのだ。まぁ来られても困るけど。
しかし、麻紀の頭を悩ませているのは、そんな指名が増えないという事実ではない。
目の前にある、これだ。
「……どうしよ」
麻紀の座っている前のテーブルに置いてある、真っ赤な羽。
つい先日、火の鳥が置いていったものである。
煎じれば不老不死の妙薬に。掲げて望めば死者を蘇らせる。所持しているだけで火の鳥の加護がつく。そんな、とんでもない代物なのだ。とても一般人から逸脱できていない麻紀が、持っていいようなものではない。
それこそ、昔ならばこれを引き金に戦争が起きたかもしれない、そんな逸品である。
しかし。
「……でも、火の鳥さんがくれたやつだしなぁ」
持ちえる神秘とか恐ろしい代物であるということを差し置けば、『お客様がキャバ嬢に送ったプレゼント』である。何の問題もない。
ただ、正直持つのが怖いのだ。
もしも誰かがこの逸品の事実に気づけば、それこそ麻紀を殺してでも奪い取りたいものだろう。麻紀にその魅力はさっぱり分からないが、不老不死というのは古来よりの人の夢だ。
延々生き続ける人生なんて、キツいと思うんだけどなぁ、と軽く嘆息。
だがそれでも、「売ればいくらになるかな」という考えは過ってしまう。ただ、こんな訳の分からない品をどう売ればいいかは全く分からない。せめて上流階級に伝手でもあれば良かったのだが、そんなコネがあればそもそも『One night honey』で働いていないだろう。
「ま、いっか」
煎じて飲んで、不老不死が欲しいわけじゃない。
掲げて望んで、死者を生き返らせたいわけじゃない。
だったら三つ目の、火の鳥の加護とやらを受けるために、持ち歩くのが一番だろう。
ちょっと便利な痴漢除けだと思えば。
――キミに暴行を働こうとすれば、そいつはその瞬間に塵になるまで燃え盛る。
……。
訂正。
かなり物騒な痴漢除けだと思おう。
とりあえず使い方も分からないそれを、麻紀はカクテルドレスの中に仕舞う。
お腹の部分に。
「あー……」
不老不死の妙薬とか、死者を生き返らせるとか、火の鳥の加護がつくとか、正直どうでもいい。
貰った日以来、ずっと懐の中に入れているのだが、なんとこの羽。
あったかいのだ。
物凄く適度な、心地よい熱を常に発してくれている。カイロのように時間制限があるわけでもなく、熱を発しすぎることもない。とにかく超適温なのだ。
火の鳥には非常に申し訳ないことこの上ないのだが、もうカイロとしての使い道以外に何も思い浮かばない。
……ドレスって意外とお腹が冷えるのだ。
「マキさん、六番テーブルご指名入りましたのでお願いします」
「あ、はーい」
もう閉店も間近だというのに、この時間から指名とは珍しい。
ひとまず、特に考えもせずに六番テーブルへ向かった。
しかし。
そのテーブルへ近付くにつれて、次第に鳥肌が立ってゆくのが分かる。
思わず、その腹――ほのかに暖かい火の鳥の羽へ手をやりながら、そこに座る客の姿を見ると。
「え、えと……こ、こんばんは。マキです!」
「……こんばんは」
女性、だった。
キャバクラであるとはいえ、女性客はいないわけではない。限りなく少ないけれど、ゼロではないのだ。だけれど、大抵の場合は誰かに連れられてやって来た、という客ばかりである。
こんな風に、一人でやって来る女性客というのは、初めてだ。
しかし、何より問題は。
(寒っ!!)
その全身から発している、強烈な冷気である。
とにかく寒い。特に防寒に優れていないカクテルドレスの麻紀にしてみれば、もう凍土というレベルだ。
「……あの、どうぞ、座ってください」
「し、失礼しますね……」
隣に座る。恐らく、既に凍っていたのだろう椅子が、恐ろしいまでの冷たさを麻紀に与えた。
氷の上に座っているような、そんな椅子――多分、数分も座っていれば感覚がなくなるのではなかろうか。
そして、改めてご指名の客を見て。
「うわっ!?」
「……? どうか、しましたか?」
「い、いえ、何でもないです! ごめんなさい!」
おっそろしい、美女だった。
透き通るように白い肌と、整った顔立ち。やや垂れた目と、流している前髪がどこかおっとりとした雰囲気を持っている。
長い黒髪は背中に流れており、それも艶やかで傷みがない。加えて真っ白の着物に身を包んでいる体はスレンダーで、立てば麻紀よりも高い身長を持っているだろうと推測できる。
モデルにしかいないような、そんな美女だった。
「あ、ええと……何か飲まれますか?」
「……水割りを、ください」
「は、はい」
あまりの寒さに、かたかたと歯の根を鳴らしながら、水割りを作る。
女性はその水割りを受け取り、そのまま少しだけ口に含んで、そして憂いの溜息を吐いた。
「……あの、マキさん」
「はい?」
「……私は、『MNK48』という店で働いている、雪女の悠美といいます」
「……はい?」
なんだそのエセアイドルグループ。
そう言いたくなるけれど、その口調は本気だった。どうやらその店の店長の悪ふざけのようだ。
そして、寒さにも納得。
――雪女。
麻紀は聞いたことがあるだけだが、確か山小屋で男性と二人で暮らして、正体がばれたから黙って去っていったとか、そんなエピソードがあったはずだ。
雪女であるなら、この寒さも納得がいく。
いや、待て。
そこで、頭の中で警鐘が鳴った。
つい先日、退職を願い出た麻紀。その理由になったのは、ライバル店の妨害として麻紀を退職に追い込もうとした、狸だ。
つまり、ライバル店の妨害という可能性がある。
例えば、こんな風に寒さの中で麻紀を凍死させようと企んでいるとか――。
「……あの、マキさん」
「はい?」
警戒に、思わず腹に手をやる。
すると、まるで麻紀の想いを汲むように、火の鳥の羽はやや温度を増した。暖かい熱が、腹から全身に浸るように走る。
ふぅ、と軽く嘆息。これで凍死する心配はない。
「……私、今のお店で働いて、二年になります」
「あ、はい……」
「……でも、私を指名してくれるお客様は、いないんです」
「……へ?」
思わずそう、首を傾げる。
雪女――悠美は、美女だ。麻紀と比べれば、もう天地の差があるくらいに美人である。
どことなく憂いを持った表情なども、男受けするだろう。絶対に、学校にいればファンクラブができるであろうレベルだ。
だというのに、指名がない。
「……あなたの、噂を聞きました」
「噂、ですか?」
「……一反木綿の、布太郎さんがいらっしゃって」
「おい、社長……」
社長、浮気してるのか。
最近あまり姿を見ないと思っていたけれど、どうやら『One Night Honey』でなく『MNK48』とやらに通っていたらしい。次に来たときにでも、少し責めてみよう。
しかし、麻紀の噂とは一体――。
「……マキさんは、まだ『One Night Honey』で働き始めて、三ヶ月くらいだとか」
「え、ええ。まぁ……」
「……なのに、既に常連のお客様で、指名してくれるお客様が何人もいらっしゃる、と」
「まぁ……そう、ですね」
「……ゆくゆくはナンバーワンにもなるだろう、と」
「いや、それは多分無理かなぁ……」
随分と布太郎が持ち上げてくれているらしい。
確かに指名してくれる客は何人かいるけれど、それは先輩キャストに比べれば微々たるものだ。まだ話の上手さも、先輩たちには及ばない。月の稼ぎも、下手すれば一桁違うだろう。
「……教えて、ください」
「へ?」
「……どうすれば、ご指名を、してもらえるのか……教えて、ください」
……。
麻紀は、素直に思った。
どうしてこう、面倒な客ばかり来るんだろう。
雪女、悠美。
スペックは非常に高い。モデルのような外見に、すらりとした長身。顔立ちも綺麗であり、隣にいることに違和感を覚えるほどの美女だ。
話のテンポは若干遅いけれど、それもそれで味がある。憂いを持った見た目は、むしろ守ってあげたくなるだろう。
「この前、同窓会があったんですよ。その時に、ついあたし、水割り作ろうとしちゃって。でもウイスキーもグラスもアイスペールもないし、ちょっと一瞬止まっちゃったんですよねー」
「……職業病ですね。私も、たまにあります」
「まぁ、他のホステスやってる人みたいに、タバコを見ると条件反射でライター点けちゃう、ってことはないんですよね。このお店、タバコ吸う妖怪いませんから」
「……タバコ、健康に良くないですからね」
「うーん……」
何気ない話題を振って、どんな風に返すのかを見てみたけれど、それほど問題があるとは思えない。
むしろ、こちらの言葉の一つ一つに頷いて相槌を返すあたり、聞き上手と言える。
まだまだキャストとしては初心者の麻紀からすれば、十分に相手を楽しませることができると思うのだが。
「……やっぱり、下手、でしょうか?」
「い、いえ、ちゃんと出来てると思いますけど……」
「本当、ですか……?」
泣きそうな顔でこちらを見てくる悠美。
そんな顔されると、同性だというのに抱きしめたくなる。抱きしめたら凍りそうだけど。
「えっと……あ!」
「……はい?」
「じゃあアレ! あたしが秘策を教えます!」
妙案が浮かんだ。
麻紀が下手なことを教えるよりは、麻紀が先輩に教わったことをそのまま教えればいいじゃないか。
それは――お客様ノート。
「悠美さんは、お客様のことはちゃんと覚えていますか?」
「……え? た、多分?」
「例えば、一度だけヘルプでついた人が、自分を気に入ってくれて指名してくれた、とかありますよね?」
「……まぁ、あります」
「そのときに、ちゃんと前回のことを覚えている自信がありますか?」
「……う」
悠美が顔を伏せる。
どうやら、ちゃんと客の情報を管理していないらしい。だったら、教える価値がある。
「あたし、一度来ただけのお客様でも、ちゃんと覚えるようにしているんですよ」
「……それは、どうやって?」
「お客様ノートを作ってるんです。このお客様は、こんな話題が好き、とか。このお客様は最近昇進した、とか。それで、次にご指名をいただいたときには、ちゃんとその情報を確認してから席につくようにしているんです」
「……そんな、ことを?」
「まだ三ヶ月ですけど……もう、ノート一冊埋まりそうなんですよね」
「……そんなに?」
悠美の、驚いたような顔。
だがこの程度ではまだまだ甘いのだ。エリなど既に十二冊あるらしい。
ちなみに彼女はルーズリーフに移して、あいうえお順に並べているそうな。麻紀も数が増えてきたらそうしよう、と思っている。
「あたしたちの仕事は、一期一会です。一度ヘルプについただけだと、二度と会わないこともあります……だけど、そういう人でも、ちゃんとメモをするようにしているんですよ」
「……そんなにも、ですか」
「ええ。これはあたしの先輩に言われたことですけど……」
エリには、本当に色々と教わった。
その中でも、一番記憶に残っている言葉だ。
それは。
「あたしたちにとっては大勢いるお客様の一人でも、お客様にとってはあたしは唯一の存在です」
「……どういう、ことですか?」
「このお店を気に入ってくれて、二度目に来店してくれたとき、お客様はあたしのことしか知りません。だからあたしにとっても、お客様を大勢の中の一人だと思ってはいけないんです。お客様にとってあたしが唯一の存在ならば、あたしにとってもお客様は唯一の存在。当然ですよね。同じお客様なんていませんから」
「……」
少しだけ、悠美が顔を伏せる。
そして、大きく、大きく溜息を吐いた。
「……なるほど」
「ええと、あたし説明下手で、ごめんなさい」
「……いえ、よく分かりました」
悠美は、潤んだ瞳で麻紀を見て。
そして、頭を下げた。
「……これが、プロなんですね」
「へ?」
「……私は、ただ話し相手をしていただけでした。お客様を、一人の存在として見ていませんでした。きっと、それが私に足りないことだったんですね」
「そうなの、かな……?」
悩みが解決したようならいいのだけれど。
悠美は、晴れ晴れとした顔をして。
そして大きく、頷いた。
「……私も、お客様ノートを作ろうと思います」
「ええ。すごく便利ですよ」
「……ちゃんと、お客様の内面を見て、接客を心がけます。私を、気に入ってくれるように」
「はい。あたしが言うのも何ですけど、頑張ってください」
「……ありがとうございます。色々、参考になりました」
すっ、と悠美が右手を差し出す。
それを、躊躇いなく麻紀は右手で握り返し。
店は違えど、同じ職種として、固く握手を交わした。
物凄く冷たかったのは、まぁ仕方ない。
「……それでは、帰ります」
「まだお時間は残っていますけど……?」
「……すぐにでも、ノートを買いたいんです。それに……これ以上いると、甘えてしまいそうだから」
その表情に浮かんでいるのは、決意。
だからそれ以上、麻紀は止めなかった。
滞りなく会計を済ませ、去ってゆく悠美。
(……はぁ)
心の中だけで、溜息。
最後まで言えなかった。物凄く頑張っていることは分かったから、根本的に接客に向いていないということを通告するのは、心が痛みすぎて無理だった。
美人だし、聞き上手。テンポは遅いけれど、落ち着ける相手。
だというのに、指名が増えない最大の理由。
……寒いの。