六人目のお客様は鬼のよう
「くふふ……」
本日も『One night honey』は絶賛営業中である。
週半ばということで回転率はあまり高くなく、麻紀はキャスト待機席でひとまず呼ばれるのを待っていた。だが、何もせずにただ座っているというわけではなく、その手に持っているのは紙切れ。
つい先ほど店長から手渡された、今月の給料明細である。
二十日に締めて一日に支払われるこの店のシステムから、ちゃんとした一ヶ月の給料を貰ったのが初めてだったのだ。先月は二十日分しかなかったから、こんなもんか、くらいに思っていたのだが。
その明細に記されている数字に、思わず口元が緩むのが分かる。
麻紀はお金が大好きだ。貯金通帳の残高でニヤニヤできるくらいに大好きだ。
「マキさん」
「あ、はい!」
「四番テーブルにフリーのお客様がご来店されました。接客お願いします」
「はーい」
気づかないうちに、新しい客が来店していたらしい。どれだけ給料明細に熱中していたのだろう。
さて、今日はどんな人外だろう、と半ば楽しくなってきた心地で、四番テーブルへと向かう。
そこに、いたのは。
「こんばんは、マキです! よろしくおねがいします!」
「……オゥ」
ギロリ、とこちらを睨みつける三白眼。
筋骨粒々の巨大な体に真っ赤な体。
腰布一枚を巻いただけの姿に、額に生えた二本の角。
横に金棒まで置いてあるのが、最早この存在を示すには十分すぎる情報。
「……座れや」
「は、はいっ!」
――鬼。
どうやら本日のお客様は、鬼らしい。
麻紀にしてみれば鬼というのは、桃太郎で犬、猿、雉という戦闘能力的に微妙な主従を相手に何故か負ける立ち回りだとか、自分よりも遥かに小さい一寸法師に針の剣で刺されて負けるという悲しい役割である。子供心に、何故鬼は負けるのだろう、と疑問に思ったこともあった。
だが、その実際の姿を見てみれば。
(あー……ムリだわ、一寸法師)
軽く、麻紀の倍はあるであろう長身。そして麻紀の三倍か四倍はあるであろう横幅は、太っているわけではなく筋肉のそれだ。
麻紀の身長よりも大きな金棒を携える姿は、まさに恐怖の具現と言っていいだろう。
そもそも、古来より日本では、とてつもなく強い者を『鬼のよう』だとか、そういった比喩にも使われる。何かのジャンルにおいて妥協しない者を『○○の鬼』と称することもあるあたり、昔から恐れられてきた存在なのは当然だ。
そして、そんな鬼の横で笑顔を作る麻紀。
「えっと……何か飲まれますか?」
「……何が出るんだ」
「ハウスボトルの水割りでしたら、チャージ料に含まれますので無料です。その他のドリンクでしたら、別料金となりますが」
「……チッ」
しかし問題はこの鬼。
超不機嫌なのである。
最初、席についたときにはそれほど機嫌が悪いとは思えなかったのに、今は超不機嫌。
その理由は多分――。
(あー……失敗したなぁ)
一番最初の会話が、お気に召さなかったのだ。
いつも通りに麻紀は名乗って隣に座り、名前を聞いた。そのときに、大江山の酒呑童子と名乗られたのだ。
妖怪に詳しくない麻紀に、彼の名がどれほど凄まじいものかは全く分からないけれど、山の名前と自分の名前を一緒に言うということは、その山を支配しているような存在なのだろう。
そのときに、聞かれたのだ。自分の名前を知らないのか、と。
麻紀は素直に答えた。知らない、と。
実際に知らないのだから仕方ない。だけれど、その後の鬼はとにかく不機嫌になっていた。余程自分のネームバリューに思い入れでもあったのだろうか。
そんなわけで、絶賛気まずい空気が流れているわけだ。
「あの……酒呑童子さんは、大江山っていう山の鬼なんですか?」
「……あぁ、そうだよ」
「山を支配しているんですか?」
「昔ぁな。今はしてねぇ」
(……昔の武勇伝かぁ)
厄介さが増した。昔のことばかり誇示するタイプは、武勇伝の思い出補正が強いのだ。
昔の自分は本当に凄かった。だからこんな奴が知らないわけがない、みたいな。
最初に失敗しなければ、持ち上げて持ち上げていい気分にさせることもできたのかもしれない。それで追加注文が入れば、店も嬉しいし麻紀も嬉しい。まさにウィンウィンの関係である。
「ということは、お子さんに?」
「ガキなんざいねぇよ。俺様に人間と交われってか?」
(……むぅ、子供、奥さんの話もアウトかぁ)
どうやら鬼にとって子作りとなれば、人間が必要らしい。雌鬼とかいないのだろうか。
どんな話をすれば乗ってくれるのだろうか、と模索しながら会話を続ける。
「ええと……酒呑童子さんって、お強いんですか?」
「そりゃあな……」
「凄いですねー。やっぱり山を支配していた方は違うんですね!」
「そのせいで、人間に討伐されたがな。ケッ」
(……これも地雷かぁ)
人間に討伐されてたんだ、この鬼。
一体こんな鬼を、どうすれば人間が倒せるのか不思議である。
そこに触れてもいいのだろうか。
「に、人間に、ですか?」
「あぁ。仲間ヅラして寄って来やがって、友好の証に、って渡された酒が毒入りだった。おかげで痺れて動けねぇ間に、首を斬られた」
「……」
人間、むちゃくちゃ卑怯だった。
さすがにフォローができない。というか、完全にこの話題は地雷だ。
現実、ただでさえ怖い顔がさらに不機嫌を増して強張っている。
「え、ええと……その、すみません」
「ケッ……腹が減ったな」
「あ、お、おつまみとか、食べられますか?」
「人間の女が食いてぇな」
ギロリ、と睨みつける三白眼。
その目が捉えている食料は――麻紀。
……え?
「知ってっかぁ?」
「……はい?」
「人間は、赤子が一番美味ぇんだ。次が、若い女だな。特にてめぇくらいの年齢が美味ぇ」
じゅるり、と舌なめずりをする酒呑童子に、思わず後ずさる。
自分が食われるかもしれない、という恐怖。
この鬼は今まで、自分くらいの女を食べたことがある、という恐怖。
思わず、腹に手をやった。
「んで、この店の女は、食っていいのかぁ?」
「だ、ダメです!」
「ククッ……人間ってぇのは、面白ぇ。食われる直前まで、色々と泣きわめいてくれるからなぁ。何百人と食ってきたが、誰一人として同じ反応だった奴ぁいねぇ。てめぇは……どんな声で泣くんだぁ?」
「て、店内での暴力行為は、ご遠慮いただいていますっ!」
助けて――そう、店長を見やる。
カウンターの方で、帳簿を見ながら頭を抱えていた。使えねぇ!
ボーイはあくびをこらえながら立っているだけだし、他のキャストも接客中。
麻紀の味方は、全くいない。
「店内での暴力行為、なぁ? やったら、どうなるってんだぁ?」
「て、店長が黙っていませんよっ!」
狼男のクリフも、店長のことを恐れていた。
一応は陰陽師の超強い人みたいだし、この鬼にも抑止力になるだろう。
だが鬼は、不敵に笑む。
「店長ってぇのは、あの腑抜けのことかぁ?」
「は、はい?」
「ケッ。ろくな神力も感じねぇ。陰陽師の末裔だとか聞いちゃぁいるが、大した奴じゃねぇな。鬼に勝てるような輩じゃねぇよ」
ククッ、と笑いながら、改めて麻紀に向き直り。
その鋭い犬歯を、あらわにした。
麻紀の柔肌など、あっさりと貫くであろう鋭い牙。
怖い。怖い。怖い――。
「ククッ」
「ひっ!」
「俺様が、怖ぇか?」
その質問に。
麻紀はただ、首を上下にひたすらかくかくと動かすだけで答えた。
そして、鬼はゆっくりとその顔を麻紀に近づけて。
くんくん、とその臭いを嗅いだ。
「ひぃぃっ!?」
「ククッ。悪くねぇが……てめぇは、次に食ってやろう。俺様が次に来るまでに、しっかり体を洗っておきな」
「や、やめっ……」
「鬼の決定だ。覆らねぇよ」
そ、そんな――そう思いながら店長を見ると、やっぱり帳簿を相手に頭を抱えていた。
ここでトラブル起きてるんですけど!
だが、次に来るまでに、と言った。つまり今日のところは命は助かるということだ。
それだけでも、僅かな安堵が胸を過る。
だけれど、それは――。
この鬼が、次に来るまでの、束の間の命。
「じゃぁな」
鬼が立ち上がり、カウンターへと向かう。
帳簿とにらめっこしていた店長が、ようやく鬼の存在に気づいたのか、滞りなく会計を済ませ。
見送る元気もなく、腰が抜けたままで、去ってゆく鬼の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
あの鬼が、次にいつ来るのか分からない。だけれど、完全に麻紀はターゲットにされてしまった。
店長すら相手にならないほど強い鬼――そんな相手に、麻紀が勝てる道理などない。
――辞めよう。
お金は大好きだが、命と引き換えにするべきものではない。
雇用契約を結んで、与えられた支度金の五百万円は、返さなければいけないだろう。返さずに済む抜け道でもあれば最高なのだが、さすがに厳しいかもしれない。とりあえず二ヶ月は働いたわけだから、六分の一は返さなくてもいいようにごねてみよう。
そんな支度金も既に借金の返済に充ててしまって、現金は全く残っていない。今ある貯金だけ返済して、残りはローンという形で――と。
どうにか見えてきた未来に、意を決して。
「あの、店長……」
「はい?」
『One Night Honey』は本日の営業を終了し、既にボーイたちは厨房の掃除をしている。他のキャストたちも軒並み着替えを行っており、未だフロアにいるのは麻紀と店長だけだった。
店長はどうやらレジの締めを行っていたようだったが、麻紀の顔を見ると共に、その眉根が寄るのが分かった。
キャバクラ店長という仕事だ。
こんな顔は何度も見ているのだろう。退職を申告する者の顔は。
「その、申し訳ないんですけど……」
「はい」
「あたし……辞めます……」
「何か、ありましたか?」
あんたのせいだよ! と叫びたいのを堪えて、店長の顔をしっかりと見て。
理由を、説明した。
「あの、今日の、お客様の……鬼の、方が」
「はい」
「次に来たときに、あたしを食べる、って言ったんです」
「……は?」
だがそんな麻紀の告白に。
店長は、やや疲れたように溜息を吐くだけだった。
そして、少しだけ微笑んで。
「ええと……それだけですか?」
「そ、それだけって、あたし、命が……!」
「お店が嫌になったとか、接客するのがもう嫌だとか、妖怪を相手にするのが嫌だとか?」
店長の言葉に、首を振る。
『One Night Honey』は好きだ。接客するのも、最初は戸惑いばかりだったけど、やっと慣れてきた。妖怪を相手にするのも、今日のお客様はどんな妖怪だろう、と楽しみに感じることもある。
自分を指名してくれるラッセルやクリフ、オグリハットもいるし、できることならば辞めたくない。
だけれど、あの鬼は。
店長よりも、強いのだから――。
「良かった。なら、大丈夫ですね」
「あ、あの、でも、あの鬼は……」
「大方、変なことでもマキさんに吹き込みましたか。大したことない、と捨て置いたのが裏目に出ましたね。ええと……もう、怖くて仕事をしたくないですか?」
「え……」
確かに怖い。
だけれど、仕事はしたい。まだまだ、麻紀は働き足りない。
まだ、『One Night Honey』にいたい。
「でしたら、次にあの鬼が来店するまで、いて下さい。僕がどうにかします」
「でも、店長は――」
「言ったでしょう? トラブルは、僕がどうにかします」
そんな、心強い店長の言葉に。
麻紀は、小さく頷いた。
翌日。
いつも通りの出勤と、いつも通りの接客。その中で。
「マキさん、四番テーブルご指名入りましたのでお願いします」
「あ、はーい!」
割と忙しい金曜日の夜。色々な客のヘルプにつきつつ、過ごしていた麻紀に指名が入った。
もうラッセルもクリフも帰ったし、麻紀を指名してくれる人などいないはずなのだが――と、四番テーブルを見やると。
そこに。
鬼が、いた。
「ひっ――!」
「マキさん、落ち着いてください。言ったでしょう? トラブルは僕がどうにかします」
「……ほ、本当、ですか?」
怖い。
だけれど、店長にそう言われて、行かないわけにはいかない。
……食べられる前に、助けてください。本気で。
恐る恐る、四番テーブルへ向かって。
「……こ、こんばんは、マキです」
「オゥ」
昨日と同じ、不敵な笑み。
巨大な体に、強烈な威圧感。
意図せず、体が強張る。意識せず、歯の根が鳴る。
ククッ、と鬼は、嬉しそうに笑った。
「よし、よぉく体を磨いてきてんなぁ?」
「ひっ!?」
「なぁに。すぐには食わねぇよ。水割りをよこせ」
「は、はい……」
(助けてお願いヘルプミー!)
心の中でひたすら叫ぶけれど、助けらしいものはない。
「なぁ、そんなに俺様に食われたかったのかぁ?」
「へっ!?」
「俺様はよぉ、わざわざ次に食ってやる、っつったんだぜぇ? またノコノコ俺様の前に顔を出すたぁ、図太ぇ神経してんじゃねぇか」
「そ、そんな――」
「ククク……」
(……あれ?)
そして同時に、疑問が走る。
何故、この鬼はわざわざ、次に来たときに麻紀を食べる、と言ったのだろう。
昨日のあの時間、店長は完全に無警戒だった。
だけれど、今この時間は、麻紀が店長に告げたこともあって、完全に警戒している。食べようと襲いかかれば、店長が少なからず抵抗するだろう。
だというのに――。
「てっきり俺様はよぉ、てめぇが辞めるとばかり思ってたぜぇ?」
「そ、そんな……」
確かにその通りだ。
麻紀は店長に、退職を願い出た。
だけれど店長の制止があって、未だここにいるのだ。
まさか――。
「仕方ねぇなぁ。てめぇの勇気に免じて、今回は食うのはやめてやらぁ。次に来たときは、もっと美味そうな姿になっときな」
「……」
(……食べる気、ないんじゃね?)
鬼の言葉の端々や、行動を鑑みると。
麻紀を食べるというよりも――まるで、麻紀を退職に追い込んでいるような。
そこで。
ぱちん、と乾いた音が、響いた。
「さて、そういうわけです。このままでは、困りますねぇ」
それは、店長が指を弾いた音。
それと共に――玄関から、二人の男が入ってきた。
「なるほどね。店長さん、ありがとう。僕の癒しが消えてしまうところだったよ。こんな下手糞な妨害で、僕の楽園を潰そうとするなんて、どうやら死にたいようだ」
いつも通りの丁寧な姿勢と、男前の顔立ち。
だけれど、まるで狼の姿であるかのように、嗜虐的に顔を歪めた、クリフ。
「……僕は、この店で過ごす時間が好きだ。マキさんを、辞めさせは、しない」
いつも通りの弱気な声音と、細面の顔立ち。
だけれど、まるで鬼そのものであるかのように、その表情に憤怒を浮かべた、ラッセル。
思わぬ相手の登場に、麻紀は言葉を失う。
二人とも、既に接客を終えて帰ったというのに。
「な、なんだぁ!? てめぇら!」
「ふぅん、君が鬼か。悪いけれど、僕のマキさんに触れないでもらえるかな?」
「て、てめぇっ!」
鬼が立ち上がり、その太い腕を振り上げ、叩きつける。
鬼に比べれば随分と小さなクリフ。その一撃は、とても耐えられるものでは――。
「……この程度で、鬼を名乗るな」
「なっ!?」
だけれど。
その太い腕は、痩せて細身のラッセルの右腕に、止められていた。
ラッセルとて、形は違えど鬼。
吸血『鬼』――。
そこで店長が、ぱんぱん、と手を叩き。
「クリフ様、ラッセル様。当店は暴力行為禁止となっておりますが、本日は許します」
「ん、任せてくれ」
「……ああ」
「ではどうぞ、存分に暴れてください――」
クリフが左腕を振り上げて。
ラッセルが右腕を振り上げて。
一気に、二人揃って鬼へと駆け出し。
「ぐあああああっ!?」
ただの一撃で、巨大な鬼は、吹き飛んだ。
まるでその威圧感が、嘘であったかのように。
「……え?」
鬼が倒れたそこ。
巨大な姿だったそれが、じわじわと縮まってゆく。
そして、ほんの数秒後には。
「きゅー……」
小さな、狸の姿になっていた。
状況に理解が及ばない。何故かクリフとラッセルがいて、何故か鬼を殴りつけ、何故か鬼は狸になりました。何これ。
しかし、店長はそこで一歩前に出て。
「ありがとうございました。クリフ様、ラッセル様」
「この程度の相手だったのか。僕らがいなくても、店長さんだけで十分だったんじゃないのかい?」
「まぁ、それはこちらの事情ということで」
店長はそう言いながら、マキへと向き直り。
そして手で、まず狸を示して。
「この狸は、恐らくライバル店の回し者でしょう。『One Night Honey』からキャストを辞めさせて、経営を成り立たなくさせるように言われているのだと思います。だから、鬼に化けてマキさんを脅していたんですよ」
「そうなんですか!?」
「妖力の弱い狸が、背伸びしているだけだと楽観視していた私のミスです」
申し訳ありません、と店長は頭を下げ。
そして次に、クリフとラッセルの二人を、手で示した。
「このお二人がいるのが、不思議でしょう?」
「え……あ、はい」
「事情を話しました。何者かが、マキさんを辞めさせようとしている、と。すると、喜んで協力してくれました」
「僕にとっても、困るのさ。僕にとって、一番落ち着ける場所はマキさんの隣だからね」
「……ん。そう」
思わず、涙が出そうになる。
麻紀は何も考えず、命惜しさに辞めようとしていた。
それを、本気でこんな風に守ってくれて。
本当に、嬉しくて、泣きそうになってしまう。
だから、精一杯の感謝を込めて。
麻紀は、頭を下げた。
「ありがとうございます!!」
それはクリフとラッセルに。
店長に。
そして何よりも大好きな場所――『One night honey』に。