三人目のお客様は血がお好き
日もとっぷりと暮れ、夜の帳が下りてから麻紀の出勤は始まる。
もののけ通りのキャバクラ『One Night Honey』の営業は二十時から始まり、午前一時で終わる。二十時には待機していなければならず、その前に化粧や衣装替えの時間もあるため、麻紀は基本的に十九時には店に入るようにしている。
もっともその出勤場所は、人気のない住宅街にあるプレハブ小屋なのだが。
「おはようございまーす」
扉を開いて挨拶しても、返事はない。プレハブ小屋は無人なのだ。既にこの時間には、店長も店に行っている。ちなみに鍵は二十四時間全く掛かっていないらしい。貴重品の類は全く置いていないから問題ないらしいのだが、事務机とか盗まれたらどうするのだろうか。
そして無人であることを分かっているため、玄関で靴を脱ぎ、そのまま中へ。
その最奥。
プレハブ小屋には不釣り合いな、妙に豪奢な黒い扉。
外観からすれば、この扉の向こうには何もない。プレハブ小屋の周囲には畑が広がっており、小屋の大きさを考えるならばこれ以上に奥は存在しないのだが。
意を決し、扉を開いて。
「おはようございます!」
「お、マキちゃんおはー」
「おはよー」
「おはよ。今日も元気ね」
そこは、キャスト控え室。
一体どういう原理なのかは全く分からないのだが、プレハブ小屋から『One Night Honey』のキャスト控え室に直通しているのが、この黒い扉なのだ。これも店長が陰陽師だからできるトンデモ扉なのだろう。
先輩キャストたちはそれぞれ、鏡を見ながら髪を巻いていたり、コルセットで腰を絞っていたりと真剣に自分を飾っている。
少し遅れた――そう思いながら、麻紀も自分専用の化粧台について。
「マキちゃんは、もう大分慣れた?」
「あ、はい。おかげさまで、なんとか」
ぱたぱたとファンデーションを顔に当てながら、隣の先輩キャスト――エリに、そう答える。
エリは麻紀よりも数歳年上で、麻紀と同じく高校の卒業時から『One Night Honey』で働いているベテランだ。指名もキャストの中では最も多く、よくお金を落としてくれるという鞍馬山の天狗、多いときにはドンペリニヨン・ロゼ――いわゆるピンドンを五本注文してくれるという大企業の令息であるのっぺらぼうなど、大口の客が何人もついている。
だというのに水商売特有のスレたような性格ではなく、むしろ常日頃から気遣いをよくしてくれる優しい女性だ。自分に大口の客がついてヘルプが必要なときなど、不慣れな麻紀をよく呼んでくれるありがたい存在である。
……もっとも、それで無愛想な河童に当たったこともあるけれど。
「なら良かったわ。心配してたのよ。新しく入った子って、妖怪を怖がっちゃってすぐやめちゃうの」
「まぁ、それは……」
エリの言葉に、苦笑いしか返せない。
麻紀も初日は、この店で働き始めたことを激しく後悔したものだ。大分慣れた今になっても、怖いものは怖い。
支度金で借金を返済していなければ、速攻で辞表を提出しただろう。
「マキちゃんはもう大丈夫そうね。本指名も増えてるし」
「……そう、でしょうか?」
「そうよ。ほら、あの男前さんだって、いつもマキちゃん指名してるじゃない」
「はは……」
恐らく、エリが言っているのはクリフのことだろう。
やはり歴戦のキャストから見ても、クリフは格好いいらしい。そんな相手に本指名されているというのは、鼻が高いものだ。天狗じゃないけど。
「でも、驚きました」
「驚くでしょうねぇ。私だって最初は怖かったもの」
「い、いえ、そうじゃなくて……その、水商売って、女の子同士の仲が悪いとばかり思ってたから」
高校を卒業する前に、ケータイ小説と呼ばれるもので幾つか、キャバクラに務めた経験を書いているものを見た。
そこには決して和やかな雰囲気はなく、指名を受けるために必死になって媚を売る先輩だとか、新人いびりのような行為が常にあるとか、お客さんとの関係などでキャスト同士で罵り合ったりとか、とにかく泥沼だったのだ。本当に自分がこの世界でやっていけるのか、不安しか感じられない情報源だった。
だからこそ、怖がっていたのだけれど。
そう、エリに説明すると、おかしそうに笑う。
「あはは。まぁ、そうかもね。でも、『One Night Honey』で、そんなものはないわ」
「ですよね。みんな親切ですし……」
「当たり前よ。みんな、一定以上の指名は貰ってるし。新人さん増えた方がヘルプのとき助かるし。それに、妖怪って一途なのか、指名を変えることなんて滅多にないのよ。だからトラブルも起こらないわ。それにお客様との関係っていっても……相手妖怪だし、枕営業もできないでしょ?」
「まぁ、そうですね」
エリの説明に、思わず納得する。
妖怪相手の商売であるからこそ、人間相手の商売で発生するトラブルなどはない、ということか。
「そういえば、今日は来るのかしら?」
「はい?」
「いつも開店から一セット、マキちゃん指名入るじゃない。ここのところ毎日だと思うけど」
「うっ……」
エリの言葉に、思わず麻紀は顔を伏せる。
ここのところ三日ほど、続けて来店してくれている客が一人いるのだ。
いつも開店と同時に来て、一セットだけ飲んで帰る。そして常に、指名をしてくれる相手は麻紀。
一体何を気に入ってもらったのか、全く分からない。
「あら? どうしたの?」
「なんであのお客様……あたしを指名してくれるんでしょう?」
「マキちゃんが気に入ってるからじゃないの?」
「そう、なんでしょうか……」
はぁ、と思わず溜息が漏れ出る。
本来ならば、贔屓にしてくれるお客様がいることを喜んでいいはずなのに。
開店と同時に訪れる客のことを思いながら、麻紀は気が重くなってゆくのが分かった。
二十時、『One Night Honey』開店。
それと共に、真っ黒な服を着た男性が店を訪れた。
「いらっしゃいませ。本日のご指名は」
「……」
「はい、いつも通りマキさんで。マキさん、二番テーブルご指名入りましたのでお願いします」
「はーい!」
慣れた対応で店長がお客様を案内して、そして麻紀も同じく二番テーブルへと急ぐ。
こんな風に、開店してからすぐに入ってくる客というのは、あまりいない。大抵の場合はキャバクラというのは二次会三次会で使われるものであり、居酒屋などで飲んできたほろ酔いの客が多く来るのだ。
「こんばんは! ご指名ありがとうございます!」
「……あ、ど、どうも」
いつも通りに元気にそう挨拶をして、二番テーブルに座った男性の隣へ。
その見た目は、端的に言うならば細い。全体的に針金細工のような印象を受けるほど、手足が長く線が細いのだ。頬もこけており、肌は病的に白い。もしも友人にいるならば、ちょっと病院へ行くことを勧める不健康さである。
長めの前髪で目元を隠しており、それはやや癖のある赤毛。髪の隙間から見える瞳は茶色で、彼が外国人であるということを如実に表している。
男性の名はラッセル。
ここのところ毎日、開店と同時に来て麻紀を指名してくれるお客様である。
「えと、飲み物は……」
「こ、ここ、これ、を」
「はい。ありがとうございます」
おずおずとラッセルの渡して来た、それを受け取る。
それは水筒。彼は特殊な客で、水の代わりに自分の持ってきたそれで割らなければならないのだ。
その中身は――血。
最初こそ小さく悲鳴を上げたけれど、今はもう大分慣れた。
「お待たせしました」
「……あ、あ、あり、がと」
くいっ、と血で割ったウイスキーを傾ける彼は、吸血鬼である。
吸血鬼。
妖怪や伝承などに詳しくない麻紀でも、その存在を知っているほど著名な怪物である。
曰くそれは人の血を啜る化け物。
日光に体を燃やし、十字架に怯み、ニンニクを嫌う。ついでに流れる水を渡ることができず、人に招かれなければ家に入ることができない、と妙に弱点の多い存在だ。
とはいえ、彼の持つ血は一般人を襲って手に入れた血液だというわけではない。彼の飲んでいるのは基本的に輸血製剤であり、人体のそれとは異なるのだそうだ。
なんでそんなものを手に入れられるのかというと。
「ええと、今日は、お仕事ですか?」
「う、う、うん」
「お仕事帰り、なんですか?」
「ち、ちが、いや、えと、よ、夜、から……」
「あ、夜勤なんですか?」
「そ、そう……」
「出勤前にお酒飲んで大丈夫ですか? 薄めにしましょうか?」
「い、いや、ね、寝るから……」
たどたどしく質問に答えるラッセル。
こっちから尋ねてばかりに思えて、それ以上話しかけるのが憚られる。恐らく、夜中から仕事に出かけるけれど、その前に一眠りするから寝酒代わりに飲みにきた、と言いたいのだろう。
前回の接客のときに、何気なく聞いた質問。
お仕事は何をされているんですか?という何気ない質問に、彼はこう答えたのだ。
――か、看護師……。
嘘だろ、と思った麻紀は多分悪くない。
どの世界に、吸血鬼の看護師がいるのか。むしろ人を襲う怪物であるというのに、人を救う仕事に就いているというのが甚だ疑問である。
しかし聞いてみれば、看護師という仕事についているというのも、ひどく真っ当な理由があった。吸血鬼という種族である限り、彼は生活の上で血液を必要とするのである。そして合法的に血液を手にするのに、最も適している職業は医療関係なのだ。
まぁ、そこまで聞き出すだけでもかなりの苦労をしたのだが。
そして。
「……」
「……」
訪れる沈黙。
元よりラッセルはコミュニケーション障害でもあるのか、喋ろうとしない。そして麻紀の方から喋ろうにも、先程から質問を行ってばかりだ。あまり質問を重ねすぎると不快に思うかもしれない、と何も口に出せない。
何か無難な話題はないか――そう自分の中の引き出しを探るけれど、間を繋げて無難でそれなりに面白い、という都合のいい話題など滅多にあるようなものではないだろう。
「……」
「……」
「……ええと」
「……は、はい」
沈黙が続くことに耐えられず、そう口に出してみるが当然、そこに続く言葉はない。
これがクリフならば、色々な話をしてくれることに乗りながら、少しばかり自分の意見を挟む、くらいの時間で済むというのに。
まだ、ラッセルが席について五分。
クリフの指名ではあっという間に過ぎる一セット六十分。それがラッセルの指名になると、恐ろしく長い。
何かないか。
何かないか。
「……い」
「……」
「……いい天気ですね」
「……そ、そうですね」
誰か助けてくれ。
恥も外聞もなく、そう叫び出したい気分だった。
ラッセルはゆっくりとウイスキーの血割りを飲みながら、やはり無言。物凄く気まずい沈黙が流れ、普段は耳に優しいはずのバラードの音色ですら、耳につく。
加えて、現在の客がラッセル一人しかいない、というのも気まずさに拍車をかける。
待機席に座っているキャストは、基本的に喋らない。自分たちの話し声で、お客様を不快にしてはいけないからだ。だからこそ、現在話し声が出るのは客であるラッセルと、ラッセルに指名を受けている麻紀だけなのだ。
それが、無言。
自然、そこに流れる空気は麻紀に耐えられないほど重苦しい。
(……なんで、あたし指名されるんだろう)
ラッセルは数日前に、初めて来た客だ。
ちょうどそのとき、空いているキャストが麻紀だけだったことで、無指名だったラッセルに麻紀がつくことになった。最初は一見さんということもあったし、色々と仕事内容などを聞きながら間を持たせたのだが。
「……」
「……」
聞くことが、ない。
勤務先は? もののけ中央市にある、割と大きい総合病院。
家族は? いない。一人暮らし。
彼女は? いない。
趣味は? 読書とゲーム。
どんな本を読むの? 古いミステリーが好き……などなど。
麻紀は既にラッセルという人物の情報のほとんどを手に入れているのだ。
これ以上聞くとプライベートな部分にもかなり踏み込んでしまうことになるし、そこまで質問責めにするわけにもいかない。かといって麻紀にも話題がない。結果的に、沈黙が続くのは当然である。
時間は未だ、十分程度。
真綿で首を絞められているような、気まずすぎる時間は全く過ぎてくれない。
「いらっしゃいませ」
「や。エリちゃん空いてるかな?」
「エリさんご指名で。ありがとうございます。エリさん、一番テーブルご指名入りましたのでお願いします」
「はーい」
次々と訪れて来る別のお客様。
それぞれお気に入りのキャストを指名しつつテーブルにつき、たのしく会話している。その盛り上がっているい様子を耳にしながら、麻紀はただ溜息を堪えることしかできない。
ラッセルはただ無言で、ウィスキーの血割りを飲み続ける。グラスはそれほど大きくないというのに、それが終わる気配はない。いつもだいたい二杯くらいしか飲まないのだ。「お代わり作りますね」と声をかけることすらできない。
かといって飲むのを急かすことはできず、ただラッセルのペースに合わせるのみ。
何なんだこの品のいい拷問は。
「……」
「……」
「……」
「……」
無言で時は過ぎてゆく。周りは楽しげに話しているというのに、このテーブルだけ無言。
焦燥感に汗すら噴き出してくる。何か言わなければ。何か話しかけなければ。そう心ばかり焦るというのに、何も出てこない。
どうすれば、この時間を楽しむことができるのか――。
元より沈黙というのは、心休まる仲であるならば心地よいのだ。何も言わなくても通じ合っている、そういった仲でない限り沈黙というのは拒絶の証である。
ラッセルが無口であるならば、こちらから働きかけて心地の良い時間を提供しなければならないのに。
「……あ、あの」
「……は、はい」
意を決してそう口に出してみたが、特に続く言葉はない。
安くないお金を払って、麻紀を指名してくれている。つまり、そういう場である限り麻紀はプロとして楽しませなければならないのだ。
だというのに。
「……」
「……」
「……」
「……」
無言は繰り返されるばかりで、沈黙が続くのみ。
ちらりと時計を見やるが、まだ一セットには三十分以上残っている。
ただただ沈黙しながら、周囲の話し声に耳を傾ける時間。そんなものに、高いお金を払う客などいないだろう。
「ミホちゃーん。俺酔っちゃったかもー」
「あらあら。お冷持ってくる?」
「ちぇ、つれないなぁ。そういうとこも可愛いんだけどねぇ」
「あ、お酒作りましょうか?」
「キュウリ齧ってるからいいや」
「ぎゃはは! やはりエリちゃんは可愛いのぅ!」
「やだもー、鞍馬さんったらぁ」
「あ、この前面白い話があってー」
先輩たちの、引き出しの多さが素直に羨ましい。
麻紀とて面白い話を持っていないわけではないが、それは主に身内や仲間内でのあるあるネタだ。「ビビの声真似しまーす! 『この程度ならば微々たるものだ』」と似てない物真似を披露して、笑ってくれるのは同じ高校に通っていた友人で、物理の西山先生が「微々たる」が口癖のためにビビと呼ばれているのを知っている者だけである。
かといって有名人のエピソードをいかにも自分のことのように話す、というのも憚られる。もしも同じテレビを見ていれば、「あれ? この話あのテレビのじゃん」と思われるのだから、簡単に人のエピソードを盗む人間だと思われるだろう。
つまり『万人受けする』『オリジナリティの高い』『時間を稼げる』話をしなければならない。
……。
あるかそんなもの!
「……」
「……」
「……」
「……」
だれかたすけてくれ。
思考は斜め方向にひたすら逡巡するが、全く口から出てこない。
そうしているうちに、ラッセルが一杯飲み終え、「お代わり作りますね」と一言告げてかウィスキーの血割りを準備し。
それで終わりだ。
ラッセルは受け取ったグラスを無言で傾けるだけで、特に感想などない。まぁウィスキーは店のものだし、割っている血もラッセルの持ち込みであるため、そこに感想など付随しないのは当然だろう。クリフはそれでも、「マキちゃんが作ってくれるだけで美味しいよ」と言ってくれるのだが。
どうすれば、この悲しい沈黙から逃れることができるだろう。
と、そう考えながら店の玄関を見やると。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。マキちゃんは空いてるかな?」
「マキさんはただいまご指名が入っておりまして、少々お待ちいただきますが宜しいですか?」
「ああ、いいよ。待ってるから」
クリフが、そこにいた。
できることならば、今すぐラッセルの席からクリフにつきたい。そうすれば、この嫌な沈黙から去ることができる。
まだ、ラッセルの残り時間は十分――早く過ぎ去れば、クリフと話をすることができる。
だから今は、我慢――そう思いながら、ラッセルを見ると。
「……か」
「は、はい?」
「……帰り、ます」
「え……?」
まだ時間が残っているというのに、そう言ってラッセルは立ち上がる。
いつも時間がいっぱいはここで過ごすというのに。
もしかして、クリフが来たことが嬉しくて、顔に出ていたのだろうか。それとも、自分がこの沈黙を嫌がっていることを悟られたのだろうか。
ラッセルはそのまま無言で店の玄関まで行き、店長に小声で会計の旨を伝えた。
「お時間はまだ残っておりますが、構いませんか?」
「……は、はい。いい、です」
ラッセルは特に何を言うでもなく、素直にお金を払って。
一応玄関先まで見送りを行うも、何一つ文句などなく去っていった。
小さくなってゆく背中を見ながら、大きく溜息を吐いて。
「それじゃ、マキさん。本指名入っていますので、四番テーブルの方にお願いします」
「……はい」
これから、クリフと過ごす時間。
だというのに。
麻紀の心は、一つも晴れなかった。
翌日。
今日もラッセルは開店してすぐ来るのだろうか――そう気を重くしながら、いつも通りにプレハブ小屋の事務所に入り、そのまま中の扉を通ってキャスト控え室へ。
「おはようございます!」
「マキちゃんおはー」
「おはよー」
「おはよ」
先輩たちに挨拶をしてから、自分の席へ。
それから、気の重い顔を少しでも見栄え良く、と化粧台の鏡を見据えて。
そこで、隣から声をかけられた。
「元気ないみたいね。どうしたの?」
「あ……」
麻紀は、いつも通りにしていたつもりだった。
元気だけが取り柄――麻紀は、自分で自分のことをそう思っている。一見の客にも、「元気がいいね」と褒められることだってあるのだ。
だというのに――。
「……分かり、ますか?」
「私はね。お客様にはちゃんと元気に対応してね」
「……はい」
「何かあったの? プライベートなことだ、って言うなら聞かないけど」
エリが心配そうに、そう麻紀を覗き込んでくる。
プライベートなことではない。むしろ仕事のことだ。
だが、「お客様との沈黙がきついです」などと言ってもいいのか。
答えられず、顔を伏せる。
ふぅ、とエリが小さく溜息を吐いた。
「店長に、言いましょうか?」
「……へ?」
「ラッセルさん、だったかしら? あの人の指名、私に回してくれるように」
「えっ!?」
思わぬ言葉に、麻紀は目を見開いてエリを見る。
まさにそれは、今麻紀が抱える悩みそのものだ。ラッセルとの孤独な一時間が辛い。ただそれだけである。
もしもそれをエリが代わってくれるならば――。
「まぁ、慣れよね。私も色々なお客様を見てきたけど、あんなに無口なお客様はあまりいないわ」
「……そう、なんですか?」
「昨日の最初……少しだけ見てたけど、ラッセルさんについてるときのあなた、物凄く焦ってるわ。何か話しかけなきゃいけない。でも話題がない。結果的に無言。最終的には、ただこの時間が過ぎ去ってほしい、と祈るだけよね」
「うっ……」
「だから、私が代わってもいいわよ。私、あまり話されないお客様は慣れてるから」
まさに、昨日の接客そのものだ。
結果的にラッセルには不快な印象を与えてしまったらしく、時間も残っているのに帰ってしまった。
だから、代わってもらえるのなら――。
「……いえ」
「大丈夫なの?」
「……あたしを、指名してくれている、お客様ですから」
エリの言葉に、できることならば甘えたい。
だけれど、もしこれからラッセルが指名をしてくれて、「ごめんなさい、マキさんはご指名できないんです」とでも告げれば、それこそ強い拒絶になるだろう。
だから、せめて。
「あたしが、説明します……。あたしだと、ラッセルさんを楽しませるのは、難しいって……」
「そう……それじゃ、頑張って。無理はしないようにね」
「はい!」
もしも今日、ラッセルが麻紀を指名してくれるなら。
言おう。
自分よりも先輩キャストの方が、あなたを楽しませられる、と。
きっとその方がラッセルも、楽しい時間を過ごすことができるから。
「いらっしゃいませ。本日のご指名は」
「……」
「はい、いつも通りマキさんで。マキさん、二番テーブルご指名入りましたのでお願いします」
「はーい!」
いつも通り、開店と同時に入店してくるのはラッセル。
昨日、あれほど失礼な態度を取ったというのに、変わらぬ態度でラッセルは席につく。
麻紀は、そのテーブルへと急いで。
「ご指名ありがとうございます! マキです!」
「……は、はい」
「あのっ!」
隣に座り、じっとラッセルを見据えて。
色素の薄い肌と、こけた頬。全体的に細身であるラッセルを、しっかりと見て。
「指名していただけるのは……その、ありがたいんですけど……」
「う、うん……?」
「あたしだと、ラッセルさんを、楽しませられないみたいだから……あの、先輩キャストのエリさんとかなら、きっと楽しい話とかたくさん知ってるし、きっと面白いと思うんです!」
何気にエリのハードルを上げながらも、しかしひたすらにそう告げる。
麻紀のような新人でなく、もっとベテランのキャストならば、きっとラッセルを楽しませることができる。
でなければ――高いお金を払わせているのが、申し訳ない。
「え……?」
「あ、あの、さ、最初はあたしも同席して、紹介しますから!」
「ぼ、僕は……」
ラッセルはおずおずと、こちらに血の入った水筒を差し出して。
どこか怯えたように、麻紀を見た。
「ぼ、僕……マキさんが、嫌って、わけじゃ」
「でも、あたしだと……」
「し、静かなの、好き……だから」
……へ?
ラッセルの呟きに、思わずぽかん、と目を開く。
『One Night Honey』はキャバクラである。キャバクラとは、男性がお金を払うことで店の女の子と会話を楽しみながら、酒を飲む場所のことだ。
だというのに、静かなのが好き、と。
意味が分からない。
「……あの、あたし、全然喋れなかったんですけど」
「う、うん……楽しい」
「……ずっと、黙ってたんですけど」
「す、すごく、落ち着く……」
家で一人で飲めよ。
そう言いたいのを堪えながら、大きく溜息を吐く。
麻紀が今まで悩んでいたのは、何だったというのか。まさか静かなのが好きだから喋らない方が心地いいってどういうことだ。
「一人で飲むの、は……す、好き、なんです」
「はぁ……」
「で、でも……独りは、嫌、だから」
一人と独り。
それは似ているようで違う。
麻紀は体からどっと力が抜けるような感覚に陥りながら、しかしどうにか気を取り直す。
「……あたし、ご指名受けても、喋れないですよ?」
「う、うん……それで、いいよ」
「全然、盛り上げられないですよ? 面白い話とかもないですし」
「う、うん」
つまり、ラッセルは。
一セット六十分。誰かが傍にいて一人で飲むのが好き、と。
結果的に、今の麻紀の心情は。
(……この人、なんて楽な客なんだろう)
すぐに過ぎ去る六十分一セット。
特に喋らなくてもいい、と言われたため、ひたすら隣でだらだら過ごしていただけだ。思い悩む必要もなく、ただグラスが空いたら新しい血割りを作ればいいだけ。
これで仕事なのだから、何とも楽な話である。
そして、そんな時間はすぐに過ぎ去り。
「……帰り、ます」
「はい! お見送りしますね!」
なんとも楽な時間が終わってから、玄関までラッセルをお見送り。会計を済ませたラッセルは、そのまま店の玄関を開いて。
ざーっ、とまるでバケツを引っ繰り返したような雨が、降っていた。
うわぁ、雨かぁ。そう思いながら、昼間のうちに洗濯物は畳んだことを思い出して。
そしてラッセルは、大きく溜息を吐いてから扉を閉めた。
「あれ?」
「……あ、あの」
「はい?」
ラッセルは恥ずかしそうに顔を赤らめながら、小声で。
「……な、流れる水を、渡れないので……延長で」
ああ。
そこはちゃんと吸血鬼なのね。