二人目のお客様は満月の夜に
麻紀が『One Night Honey』に入店して既に一週間。
慣れない仕事に戸惑いながらも、どうにか接客の何たるかを掴みながら、手応えを感じたり反省したりと割と忙しい日々を送っていた。とにかく真摯に、素直に、一生懸命仕事をしてきたためか、最近は少ないながらも指名を貰うようになっていた。
そんな麻紀を指名してくれる、数少ない客の一人。
「やぁ、また来たよ」
「あ、こんばんは、クリフさん! 今夜もよろしくお願いします!」
それが、今まさに麻紀の隣に座っているこの男性だった。
クリフというファーストネームしか聞いていないが、恐らく西洋圏の出身なのだろう。肩まで伸ばしたさらさらの金髪は染めたそれのような不自然さがなく、切れ長の眼差しに灯る瞳は、吸い込まれるような群青。白い肌はしみの一つもなく、何より顔のパーツそれぞれが誂えたかのように輪郭の中に収まっている。
つまるところ、ものすっごいイケメンの外国人である。
「今日はお仕事だったんですか?」
「ああ。仕事帰りに、ついマキちゃんの顔が見たくて来ちゃったよ。明日も早いってのにね」
「ありがとうございます。でも、無理はしないで下さいね」
ふふっ、と微笑むクリフ。それだけで世の中の女の五割は落ちるのではないか、と思えるほどのそれに、思わず麻紀は頭がくらくらした。
ちなみにクリフは、物凄く仕事のできそうなビジネスマンのような顔をしているが、その実は電気工事の作業員である。どういった仕事をしているのか、については以前の接客の際に教えてもらったけれど、詳しくは覚えていない。
「マキちゃんは今日はどう? 変なお客さんについたりしてないかな?」
「あたしは大丈夫です。でも、まだまだ喋るのとか苦手で……」
「そうなのかい? 僕とはよく話をしてくれると思うんだけど」
「クリフさんは話しやすいですし、それに、なんか安心するから……」
「わ、嬉しいなぁ。そんなこと言われたら、僕勘違いするかもしれないよ?」
微笑みながら、麻紀の作った水割りを口に運ぶクリフ。
あまり酒に強い方ではないのか、それほどペースは早くない。中には水割りを作った瞬間に一気に飲み干す客もいるのだ。まだまだ初心者の麻紀は、水割りを作りながら何事もなく笑顔で会話ができるほど手慣れていない。
そういった点では、クリフがゆっくりと酒を飲んでくれるのは、麻紀にとっても助かるのだ。
「最近はお仕事はどうですか?」
「ん。まぁ普通かなぁ。この前の現場はひどかったけどね。大手の石油会社のダクト補修に行ったんだけど、社員さんが偉そうでさ。まぁ、向こうにしてみればこっちは泥臭い作業員だからね」
「大変、なんですね」
「それでも、今の仕事が好きだからね。社長さんも優しいし、給料もそれなりにいいし。大口の仕事だと、泊まり込みで不眠不休になるのが難点だけどさ。あ、お代わり貰えるかい?」
「はいっ!」
ははっ、と肩をすくめながら笑う。
そして水割りを作る間、まだ不慣れな麻紀のことを慮ってか、その手つきを見ずに天井へと目を向けた。
いつもクリフはこうやって、水割りを作るのが遅い麻紀を急かすこともなく、天井を見ながら待ってくれるのだ。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「いいよ。気にしないで」
そして麻紀が声をかけると共に顔を下ろして、それから水割りを受け取る。
そんな風に気遣ってもらうことが申し訳ないけれど、それ以上に安心できる空気を与えてくれるクリフは、ありがたい存在だ。
クリフはとにかく紳士的で、麻紀との距離も一定以上に近付こうとしない。他の客ならばそれなりにある、簡単なスキンシップすらないのだ。それに現場の作業員だというのに汗臭い印象は一つもなく、軽いムスクの香りが漂っている。
だというのにその手は無骨なそれで、男らしさを感じる。加えて薄いシャツの下に見える体は鍛えており、細身ながら筋肉質だ。話をしている限り、仕事態度もとにかく真面目。かといって堅いわけではなく、むしろ物腰は柔らかいのだ。
未だかつて、これほど完璧な男性になど出会ったことがない。
「でも良かったよ。だいぶ仕事に慣れてきたみたいで」
「ありがとうございます。まだまだ不慣れですけど、精一杯頑張ります」
「僕としては、あんまり慣れて欲しくないかな。僕以外の男にそんな可愛い笑顔を見せるなんて、嫉妬で胸が裂けそうだよ」
「そんな、言い過ぎですよぉ」
あはは、と二人で笑い合う時間。
クリフはいつも一人で訪れ、そして延長はせずに帰る。特にボトルを頼むわけではなく、ハウスボトルの水割りしか飲まない。店に金を落とす、という点で考えるならば、あまり嬉しくない客だ。
だが、麻紀にとっては上客である。
物凄いイケメンで、話上手。そしてこちらを夢の世界へ旅立たせてくれるような口説き文句。まるでこちらが金を払ってホストクラブに来ているような錯覚すら感じるのだ。
だからこそ、こうやってクリフと話をする時間は、すぐに過ぎ去ってしまう。
「失礼します、お客様。お時間になりますが、延長なさいますか?」
「ああ、もう時間か。楽しい時間はあっという間だね。延長はなしで、帰るよ」
「ありがとうございました、クリフさん」
店長の言葉に、残念そうに肩をすくめるクリフ。
麻紀としては延長して欲しいが、クリフはいつも一セットで帰るのだ。麻紀にとっても楽しい時間は、あっという間に終わってしまう。
名残惜しく思いながらも、会計を済ますクリフを店の入り口まで見送り。
「今日もありがとう、マキちゃん。次は今度の休日に来させてもらうよ」
「はい。お待ちしていますね」
「それじゃ、またね」
やや紅に染まった頬で、去ってゆくクリフ。
最後まで紳士的に。キスを求めるでも抱きつくでもなく、ただ手を振るだけ。いつもクリフが帰った後は、その後の客を相手に楽しめないのが難点といえば難点だ。
あ。
去ってゆくクリフの背中を見ながら、思い出す。
いつも話が盛り上がり過ぎて、聞こう聞こうと思っているのに忘れてしまうのだ。
西洋人の、金髪碧眼のイケメン。長身痩躯の細マッチョ。そんな理想的な外見をしている彼は。
(クリフさん、一体何の妖怪なんだろ?)
とても妖怪に見えないというのに、その正体はまごうことなき妖怪。
だけれど麻紀には、彼の正体が何一つ見えなかった。
麻紀を指名してくれる客は、現在非常に少ない。
初日に対応した一旦木綿の布太郎は初日以来来てないし、接客を行うのもほとんどがヘルプだ。 現在、麻紀を本指名してくれるのは最近よく来る無口な青年と、クリフくらいのものである。
ほぼ毎日来る常連客もいるのだが、そんな常連の目当ては新人の麻紀ではなく、先輩キャストである。
幸いにして『One Night Honey』では新人イビリ等の陰湿な行為はなく、同僚ともそれなりに良い関係を築けていた。
「そのときじゃ。ワシとて鞍馬山を束ねる者。東の者に舐められるわけにはいかん、と鞍馬山連合の総大将として、あやかし組との一大決戦に臨んだんじゃ」
「かっこいいわねぇ。さすが鞍馬さん」
「うっほっほ。エリちゃんにそう褒められると、また天下でも統一してやりたくなってくるわい!」
「あら、ほんとにー?」
「本当じゃとも! 今はあやかし組が全体の総取り締まりを行っておるが、昔はワシら天狗が取り締まりを行っていたのじゃ。抗争で負けてしまって、ワシらは落ちぶれたが、天狗の誇りまでは失っておらぬ!」
ぎゃはは、と楽しそうに笑う真っ赤な顔の天狗と、天狗お気に入りの先輩キャスト、エリ。
天狗の指名はエリのみで、連れである河童の指名が特になかったため、ヘルプとして席についているのだが。
「あ、あの、何か飲みます?」
「キュウリあるから別にいいや」
ポリポリとキュウリを齧りながら、麻紀に視線すら向けない河童。
もう一週間以上色々な客のヘルプについているが、ここまで無愛想な客は初めてだ。
「え、ええと、ご職業は、何を?」
「河童だよ。見りゃ分かるだろ? キュウリ食ってるから邪魔しないで」
(だったら何しに来たのよっ!?)
そんなにキュウリ食べたきゃ家で食えばいいのにっ、と言い出したいのをぐっと堪えながら、しかし笑顔でどうにか接客をする。
河童(名乗ってすらくれない)はとにかくポリポリとキュウリを齧っているだけで、麻紀はまるでいないものとして扱われている。恐らく、気乗りしないのに無理やり天狗に連れてこられたのだろう。
嫌になってくるけれど、それでもどうにか話しかける糸口を探そう――そう河童を見据えて。
「マキさん、二番テーブルご指名入りましたのでお願いします。レイナさん、三番テーブルヘルプお願いします」
「は、はいっ!」
「はーい」
助かった――店長の言葉にそう胸を撫で下ろしながら、河童にひとまず離席を伝える。
河童はそれに対しても、特に反応するでもなくキュウリを齧り続けていた。
家でキュウリ齧ってろよ!と吐き捨てたい気持ちをぐっと堪え、先輩キャストであるレイナと交代し、指名が入っているという二番テーブルへ。
「こんばんはー、マキで……」
「オゥ」
そこに座っていたのは。
全く見覚えのない、人型をした狼だった。
突き出した鼻に、引き裂いているかのような口。そこから鋭い犬歯が見え、暗い照明の中でキラリと光る。全身にびっしりと生えた体毛は真っ黒で、吊り上がった眼が獲物を見るかのように麻紀を見据えた。
その体躯は、軽く麻紀の倍ほどもある――化け物。
なんとか悲鳴を上げることだけは堪えた自分を、褒めてやりたかった。
「あン? 座れよ。いつまでも突っ立ってっと邪魔だ」
「は、はいっ! ごめんなさいっ!」
「ケッ」
ぐいっ、と水割りを煽る狼人間。
そしてこれ見よがしに空のグラスをこちらへ向け、お代わりを要求する。あまりの恐怖に肩を震わせながら、しかし麻紀はどうにか水割りを作って、そして狼に提供した。
狼はそれを、一口でぐいっ、と煽る。当然のように、それは一口でグラスの中身を空にした。
急いでお代わりを作り、狼の目の前に出す。
無言。
(な、なんで……?)
明らかに機嫌の悪そうな、見知らぬ狼。
何故面識もないというのに、麻紀を指名してきたのか。全く分からないし会話の糸口すら見当たらない。
これなら河童の方が良かった――そう震えながら、狼を見やると。
「ククッ」
「ひっ!?」
「なぁにをそんなに怖がってやがんだぁ? いつも通り喋りゃいいだろうがよぉ」
「へ? い、いつも、通り?」
「あン? なんだぁ? 俺が分かんねぇのか? あー、まぁ、いつもとはちぃっと違うからなぁ」
狼は嗜虐的に笑みながら、濡れた鼻を麻紀に近付けて。
ゲフーッ、と酒臭い息を吐きながら、名乗った。
「俺ぁクリフだよ」
「……は?」
「だからクリフだっつってんだろぉが。なんだぁ? 一昨日来た客を忘れたかぁ?」
狼の名乗ったそれに、思わず言葉を失う。
クリフ。
それは確かに、麻紀を指名してくれる上客の名前だ。
だが麻紀の知るクリフは、金髪碧眼細マッチョのイケメンであり、優しく礼儀正しく真面目な青年だ。間違ってもこのような、暴力と酒が大好きです、と全身でアピールしているような狼ではない。
だが麻紀の記憶の中に一つだけ、目の前の狼とクリフを繋げる糸がある。
それは。
「く、クリフさん……?」
それは通常、人間の姿をして街に溶け込み、とある夜にだけ変身する妖怪。
人狼ともウェアウルフとも呼ばれる、人であり狼である化け物。
銀の武器でなければ殺すことができないとされる、狼憑き。
「……狼、男?」
満月の夜にだけ、人間から狼の姿になるとされる、西洋の都市伝説。
奇しくも今日は――満月の夜。
当たってほしくない予想はどうやら正解だったらしく、にやりと狼は唇を歪める。突き出した犬歯は、麻紀の肌など簡単に食い破れそうなほどに鋭い。
「ああ、そうだ。満月の夜には、いつもこうなるんだよ。まぁ、人間形態で堅苦しくしてるよか、大分マシだぁな」
「そ、そう、なんですか……?」
「あン? そんなにびびんなよ。取って食ったりはしねぇよ。多分なぁ」
(多分て!? 多分て言ったよ!?)
つまり、状況次第では取って食う!?
さすがに、命の危機に陥る前に店長が助けてくれるはず……そう、思わず麻紀は視線を泳がせて。
そして、その視線が店長を捉える前に、目の前が狼の顔で埋められた。
「なぁにを探してんだぁ?」
「ひぃっ!?」
「ククッ。お前、面白ぇな。なんだぁ? 俺に食われそうになっても、店長が助けてくれるはず、ってかぁ?」
(見透かされてるーっ!)
そんなに顔に出やすいのだろうか。変なことを考えたせいで、機嫌を損ねていないだろうか……そう恐れながら、恐る恐る狼を見やり。
狼は嗜虐的に笑いながら、水割りを傾けた。
「そ、そんなこと……」
「心配すんな。いくら俺でも、店長のガキに喧嘩売るほど見境ねぇわけじゃねぇよ」
「……へ?」
思わず、そう呆けた一文字だけ返す。
店長のガキ。
それは恐らく、『One Night Honey』の店長のことだろう。
麻紀にしてみれば、ただのメガネのイケメンでしかない店長なのだが。
「あン? お前、知らねぇのか?」
「何が……?」
「安倍晴明、って知ってんだろ?」
「え……あ、はい」
麻紀は数少ない知識の中にあるその名前に、頷く。
安倍晴明。
詳しいことは麻紀も知らないが、確か陰陽師として名前を残した歴史上の偉人だったはずだ。そもそもこの店で働くまで、妖怪なんて存在すら信じていなかったため、似たように眉唾ものである陰陽師になど興味もなかった。
だが、安倍晴明くらいは知っている。恐らく街頭インタビューで、「陰陽師といえば?」と聞かれれば九割が答える程度には認知されている、陰陽師オブ陰陽師のはずだ。
だが、そんな陰陽師と何の関係が――。
「店長のガキは、安倍晴明の直系の一族だ。あいつに逆らおうってぇ妖怪は、そうそういねぇよ」
「えぇーっ!?」
思わず、そう麻紀は声を上げる。
ただのメガネイケメンだとばかり思っていた店長が、まさかの凄い陰陽師だった。むしろ、そういった腕があるからこそ、この店を経営しているのかもしれない。
入店の際に「何か厄介ごとがあったら、僕が何とかしますから」とは言われていたが、まさかこの店に来る妖怪を、実力行使でどうにかできる人だなどと思っていなかった。
見た目は完全に優男だというのに。
「あー、うるせぇな。人間形態より聴力高ぇんだから、大声出すんじゃねぇよ」
「ご、ごめんなさい!」
「それがうるせぇっての。まぁいいや、お代わり寄越せ」
「はいっ!」
狼――クリフの差し出す空のグラスに、急いで水割りを作る。
その待っている間、天井を見上げながら大きく息を吐いて。
それは。
いつもクリフが、麻紀を急かすまいとしている仕草。手元を見ずに、ただ天井を見るだけの気遣い。
ああ――。
そこで、気付いた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「ああ、遅ぇな。まぁいい。味はまぁまぁだ」
この狼は。
見た目も、物腰も、態度も、口調も、性格も、何もかも違うけれど。
クリフなんだ。
「あの……」
「あン?」
この狼は、優しいクリフ。それを理解できただけで、自然と麻紀の顔に微笑みが浮かんだ。
だから、まずは。
距離を詰めることから、考えてみよう。
麻紀に分からないことを、教えてもらおう。
「狼男について、教えてくれませんか?」
クリフのことをもっと知りたい。
お客様のことをもっと知りたい。
だから自然と、麻紀はそんな風に話を振っていた。
む、と狼――クリフが、麻紀のそんな言葉に眉を寄せる。
変なことを聞いただろうか。そう思わず後悔してしまうけれど、別段クリフの機嫌を害したような様子はない。
むしろその表情は。
困惑、だった。
「教えろ、つってもなぁ」
「?」
「俺だって、分かんねぇよ。生まれたときから、俺は狼男だったからな」
「そうなんですか?」
どうやら後天的になるものではなく、先天的なものらしい。
てっきり、『狼男に噛まれた者は狼男になる』みたいな後天的な法則でも存在するのかと思っていた。
しかしクリフは、そんな麻紀の疑問にあっさり首を振る。
「狼男は伝染病じゃねぇよ。お前、知ってんのか? 噛まれたらそいつになる、なんて病気」
「ええと……聞いたことはないです」
「当たり前だ。そんなもん存在しねぇんだからな。噛まれたらその種族になる、なんて奴が存在してりゃ、今頃人間なんてこの世から消えちまってらぁ」
「あー……」
確かにそれもそうだ。
例えば一人、『狼男に噛まれたら狼男になる』みたいな奴がいれば、一日に一人を噛むとして、二人。二日目にはそれぞれ一人ずつ噛んで四人。そうしていくうちに、どんどん倍になっていくだろう。
数学が苦手な麻紀に、正確な数字は分からない。
「じゃあ、生まれたときから、満月の夜には狼になってたんですか?」
「ああ。元々、俺は先祖返りでな。両親は人間だったんだよ」
「えぇっ!?」
「先祖に妖怪の血が一部でも入ってりゃ、子孫にそれが顕著に出る場合があんだよ。それが俺だ」
「そ、そうだったんですか……」
ククッ、と自嘲するようにクリフが笑う。
まるで思い出したくないことを、思い出しているように。
人間の両親。
満月の夜に狼になってしまう息子。
その、結末は――。
「俺ぁ、生まれて最初の満月の夜に、狼になった」
「そ、それは……」
「そこには人間の両親がいた。そして当然、俺が狼男だなんて、両親は知らねぇ。どうなったと思う?」
ごくり、と麻紀は我知らず唾を飲み込んでいた。
それは、どう足掻いても悲劇にしかならない結末。
人間の両親の前で、狼に変身してしまう。
その結果、両親は受け入れないだろう。自分の子供が化け物だなんて信じたくないのが当然だ。
両親に化け物と罵られるか。
もしくは、理性を失ったクリフが、両親の命を――。
「どう、なったんですか……?」
「ああ……」
クリフはグラスを置き、悲しげに嘆息して。
そして、目を伏せた。
「変な犬が入り込んでる、って言われて捨てられた」
「……」
……。
想定よりも悲劇ではなかったけれど、割と悲劇だった。
なんだかんだで話は盛り上がりながら、時間が過ぎてゆく。
狼ではあるけれど、クリフはぶっきらぼうながら優しく接してくれた。それだけでも、麻紀にしてみれば接客がしやすい。少なくとも、キュウリを齧ってばかりの河童よりは遥かに。
「あー、そろそろ時間か」
「そうですね。延長されますか?」
「しねぇよ。分かってんだろ?」
「はい」
ククッ、と笑うクリフと、ふふ、と微笑む麻紀。
最初は狼形態に驚いたものだが、意外と盛り上がることができて良かった。そう、自分の中での今日の接客に七十点くらいをつけて。
そこでクリフが、濡れた鼻を近付けていた。
「っ!? ええと、何か……?」
「狼男の逸話でよぉ、こんなん知ってっかぁ」
「……へ?」
「満月の夜、隣にいる最愛の女性を、本能のままに襲っちまう、ってなぁ」
きらりと光る鋭い犬歯。
ぎろりと睨めつける嗜虐的な眼差し。
尖った爪の生えた右手で、ゆっくりと麻紀の頬を撫でて。
「だいぶ、酔いが回ったなぁ。本能のままに行動しちまいそうだぁ」
「く、クリフ、さん……?」
「柔らけぇ肌だなぁ。いい血の色をしているんだろうなぁ。いい声で鳴くんだろうなぁ……!」
「ひぃっ!?」
思わずそう、迫ってくるクリフに悲鳴を上げる。
眼差しは、本気。嘘や冗談ではなく――麻紀に、その凶刃を向けようとしている。
思わず、後ずさって。
「さぁ、どこから食ってやろぉかねぇ……?」
「や、やめ、やめてくださ……」
「申し訳ありませんが、当店では暴力は禁止となっておりますのでご遠慮ください」
迫るクリフと後ずさる麻紀の間を。
落ち着いた声と共に、数枚の札が阻んだ。
その札の先にいるのは――店長。
「ちっ」
「それ以上の狼藉を行うようでしたら、以降入店禁止とさせていただきますが」
「はっ! 冗談だよ。からかっただけだ」
「それは結構。お時間ですが、延長なさいますか?」
「ふん、気が削がれた。帰るわ」
店長の言葉にそう返しながら、立ち上がるクリフ。
お見送りしなければ――そう思い立ち上がろうとするが、立てない。
恐怖で、腰が抜けていた。
「マキさんはそこにいてくれていいですよ。お見送りは僕がやりますので」
「なんだぁ? 男の見送りかよ。つまんねぇな」
ケケッ、とクリフはそう言いながら、腰の抜けた麻紀を見て。
「じゃあな。また来るぜ」
「は、はいっ!」
体毛と同じく真っ黒な尻尾を振りながら、去っていった。
後日。
「……本当に申し訳ない。狼の状態だと、どうしても暴力的になってしまって……怖かっただろう? 本当に申し訳ない」
クリフ(人間形態)が入店し、麻紀を指名してから開口一番、そう言った。
相変わらずの美青年であり、加えてお詫びの品、として持って来たのは一個数百円もする高級チョコレートの箱。普段なら絶対、自分では買わない逸品だ。
「い、いえ、そんな……」
「あの状態の僕が暴走するようなら、煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わないから。僕は……その、君を食べようだなんて思っていないんだ。でも狼の状態だと、変に暴走してしまって……」
「はぁ……」
平謝りしてくるクリフは、やはり人間形態であれば金髪碧眼のイケメンで細マッチョ。
だというのに、こちらから一歩退いた紳士的な態度を崩さない。
だから、少しだけ思った。
(人間のクリフさんになら、食べられてもいいのにな)
もちろん、性的な意味で。
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