一人目のお客様は有名な布
小さな空間の天井、その中央で回るミラーボール。微かに耳に届く音色はバラードの旋律で、どことなく寂しげな気持ちにさせる。天井に据えられたランプは小さく灯火を燻らせ、暗いというよりは耽美な雰囲気が漂っていた。
酒の席ではあるが決して低俗なものではなく、むしろ漠然とした気品さえ漂っている。流麗な耳に優しい音色と、同じく心地よい響きの声は、まさに楽園の如き時間を与えてくれるだろう。
そこは夜の街。
仕事に疲れた者が、一夜の夢を楽しむ場所。
日常に忙殺された者が、一時の癒しを求める場所。
「ミホでーす! よろしくお願いしまーす!」
背伸びをしながらも元気いっぱいの、ドレスに着飾った少女。
「またご指名ありがと。今夜も楽しんでいってね」
妖艶な雰囲気に身を包みながら流し目を送る、露出の多い娘。
「今日はどうします? 水割りでいいですかぁ?」
飲み物を用意しながら、そう気遣いを見せる薄化粧の乙女。
様々なタイプの女性を揃え、様々な客のニーズに合わせた接客を行う。それがこの店の方針であり、『お客様に笑顔を』という信念に従ったものである。
安くない金を払って、一時の逢瀬を楽しむ客に、店は精一杯のサービスを。ゆえに彼女らはプロフェッショナルとして、相手がいかなる客であれど笑顔で接客を行うのだ。
そして、そんな彼女らが接客をするのは。
「よろしくー。ミホちゃん可愛いねぇ。一緒にマタタビでもどぉ?」
嬉しそうに二股に分かれた尻尾を振りつつ、マタタビを嗅ぎながら悦に入る化け猫。
「今日も可愛いのぅ。儂の鼻ももうギンギンじゃぞい」
酔ってもいないのに真っ赤な顔に、すらりと伸びた鼻をさすりながら笑む天狗の老人。
「あ、大丈夫。キープボトルあるから。聞いてたしょ? 俺のキープ持ってきて」
女の子と話した直後、すぐに自分の首を大きく伸ばしてボーイにそう注文するろくろ首の男。
接客をしているのは人間の少女。
接客をされているのは妖怪の男。
ここは『One Night Honey』。
世界が少しだけずれた場所にある、妖怪たちの歓楽街『もののけ通り』。
そこに門を構える、キャバクラである。
有田麻紀にはお金がない。
一般的な大学生などがよく言う「金がねー」のレベルを遥かに上回って、お金がない。それというのも、麻紀の両親は多額の借金を残して蒸発し、その負担の全てが残された祖母と麻紀の肩にのしかかったのだ。その額五百万。当然ながら、年金暮らしをしていた祖母に払い切れるようなものではない。
仕方なく麻紀も学生時代からずっと睡眠時間を削ってアルバイトを続けており、その金の大半を借金返済に充てていた。だというのに両親はどんな悪徳金融に金を借りたのか、元金が減る様子は少しもない。
麻紀の高校卒業、そして同時期に祖母が亡くなったことも切っ掛けとなり、麻紀はとにかく金の稼げる仕事を探した。毎月十万円以上の返済を行うのに、ただの仕事を選ぶわけにはいかなかったのだ。
「ええと……この辺だって書いてるんだけどなぁ……」
スマートフォンを片手に、首を傾げながら田舎道を歩く。
道の両隣に田んぼがあり、所々放棄されたのであろう、雑草の茂った畑もある。昨今は農家の継ぎ手がいない、ということが社会問題になっているらしいが、それは少なからず麻紀の住んでいる地域にも訪れているらしい。
口を尖らせながら、何度も確認するスマートフォンの画面――『One night honey』という名前の店。
インターネットで探した、給料の高い仕事。
その筆頭に立ったのは、やはり水商売だった。
幸いにして(と言うのもおかしな話だが)、麻紀の見た目は悪くない。やや童顔であることは否めないが、ぱっちりとした二重まぶたにセミロングの黒髪、全体的に整った顔立ちは、高校三年間で十四人に愛の告白を受けたという記録を持っている。それほど自分の容姿に自信を持っているわけではなかったけれど、化粧をすればそこそこ見れるのではないか。そう思って、とにかく水商売を探した。
そして、麻紀の家からそこそこ近く、しかも給料がとてつもなく良い店の面接を受けに来たのだが。
「……んと、ここかな?」
町外れの、小さなプレハブ小屋。
台風でも来たら飛ばされるのではないか、と思えるほどの小さなものだ。しかも、建てられてからそれなりに時間を経ているのか、外壁に損傷も多い。
周囲にあるのは田んぼと畑ばかりで、とても夜の街ではない。少なくとも麻紀の知る限り、歓楽街はもっと中央にあるはずだ。
だが、インターネットでは、間違いなくこの小屋を指している。
もしかすると、面接と職場はまた違うのかもしれない――怪しく思いながらも、呼び出しベル等がないことを確認して麻紀はゆっくりと扉を開いた。
「あのー、すみませーん……」
ただのプレハブ小屋。そんな印象だったが中は意外に綺麗にされており、どことなく煙草の臭いが漂っている。そして麻紀の開いた扉につけられたベルが、ちりん、と涼やかな音色を奏でた。
そんな小屋に不釣り合いの、事務デスクに座っていた男性が、鈴の音と共に顔を上げた。
「あ、ええと……」
「ああ、有田麻紀さんですね。お待ちしていました。そちらにどうぞ」
麻紀が言い出す前にそう言いながら立ち上がり、ソファを勧めてくる男性。
艶やかな黒髪に、切れ長の眼差し。すらりと通った鼻筋に端正な顔立ち。かけている銀縁の眼鏡はどこか知的な雰囲気すら醸し出している。もしも麻紀が言葉を選ばずに口に出すならば、『ものすんごいイケメン』だった。
想定外の男性の姿に、思わず言葉を失いながらも、こくこくと頷きながら促されたソファへと掛ける。
男性はいくつかの紙を束ねながら、麻紀の正面――対面のソファへ腰を下ろした。
「僕が『One Night Honey』の店長です。よろしくお願いします」
「あ、は、はい。あ、有田麻紀です!」
「本日は当店、『One Night Honey』での勤務を希望してくださり、ありがとうございます。簡単ではありますが、今から面接の方を行いたいと思います」
「は、はい!」
随分と礼儀正しい店長の態度に、思わず麻紀もそう畏まる。
そんな麻紀に対して、店長は苦笑して。
「そんなに固くならずとも結構ですよ。面接ということで緊張なさっているかもしれませんが、落とすことはほぼありませんから」
「は、はい!」
「まぁ……簡単に言いますと、もう採用の方は決定しているんですよ。当店はスタッフが足りてない状態ですので、すぐにでも勤務に入っていただきます」
「えっ!? あ、はい!」
驚いたことに、とんとん拍子に決まってしまった。
そこで麻紀は、どうしても聞きたかったことを、口に出す。
「あ、あの……」
「はい?」
「インターネットで見たんですけど……その、あ、あれは……本当、なんですか?」
「ああ、あれですか」
ふふっ、と店長が微笑む。
麻紀の言っていること――それは、『One Night Honey』のキャスト募集に書かれていた項目。
まさかそんな、と目を疑いながらその文字を見て、その瞬間に応募を決めた。
それは――『一年間を通しての雇用契約を結ぶのであれば、支度金五百万円を支給』という言葉。
本当ならば、麻紀の肩に乗せられた借金は、全て解消する。一年間頑張れば、それで解決してくれるのだ。あまりにもおいしすぎる話に裏はないかと何度も勘繰って、そして結果的にこのように応募をしたのである。
もしもこの話がなければ、こんな怪しすぎるプレハブ小屋など入らずに帰っていただろう。
それだけ、麻紀はお金が欲しいのだ。
「本当ですよ。一年間の雇用契約を結んでいただけるなら、支度金として現金で五百万円を用意します」
「ほ、本当にっ!?」
「ええ。ただし、一年間は決して退職することはできません。無断欠勤、遅刻の回数などが目立つようであれば、支度金を返済して貰います。また、雇用契約を結ぶ場合は、当店以外のアルバイトを認めません。それだけ従っていただけるならば、この場でお渡ししてもいいですよ」
一年間の退職は認めない。
問題行動があった場合は返す。
アルバイトはできない。
ただそれだけの条件で、五百万という大金を用意してくれると言う。もちろん麻紀にそんなつもりはないが、中には金だけ受け取って逃げるという輩もいるかもしれないのに。
夢のような言葉に、麻紀はごくりと生唾を飲み込んで。
「や、やります! やらせて下さい!」
「では、雇用契約を結ぶということで」
「はいっ!」
「出勤は明日からお願いします。今日はまだ開店前ですし、入店前のオリエンテーションだけしましょう。接客の基本は今日中に覚えてくださいね」
そう言いながら、店長が紙束から一枚を取り出す。
テーブルに置かれたそれは、雇用契約書。
「当店におけるお客様の情報については他言無用です。情報漏洩が発覚した時点で懲戒とさせていただきます。また、先に言った条件は必ず守ってください。それから、当店はお客様が他とはちょっとだけ変わっていますけれど、怖がったり悲鳴を上げたりしないでください。また、当店での過剰なスキンシップはお客様にもご遠慮いただいておりますので、そういった行為がありましたら僕に報告してください。また、お客様とのトラブルなども同じく僕に報告してください。なんとかします。以上、よろしければこちらにサインと捺印をお願いします」
いきなり畳み掛けられた情報に、麻紀は必死に脳を働かせながら理解する。
お客様の情報漏洩禁止。それは当然だ。
怖がったり悲鳴を上げてはいけない。ヤクザとかが相手でも、ちゃんと接客をする。
えっちぃことは禁止。それはむしろ安心だ。
「は、はい! 大丈夫です!」
そう答えて、麻紀は店長から手渡されたボールペンで契約書にサインし、生憎印鑑は持ち合わせていなかったため、拇印を押した。
店長はその紙を上から下までしっかり確認して。
「はい、では――」
立ち上がって、麻紀に握手を求めながら。
「『One Night Honey』へようこそ」
麻紀は後悔していた。
つい昨日のことを思い返しながら、あまりの好条件に手玉にホイホイ乗ってしまった自分を呪いたくなる。
店長の言っていた、『ちょっとだけ変わっている』客。
それはちょっとどころではなく――妖怪なのだ。
「儂があんたの初めての客とはな。まぁいい。取って食ったりしないから、楽にしてくれ」
「は、はい……」
周囲では喋る二股尻尾の猫とか、お面でしか見たことがないような鼻の長い天狗とか、なんか自在に首が延びるろくろ首とか、まさに人外魔境な景色が広がっていた。妖怪なんて見たこともなければ、いるという話も聞いたこともない麻紀は、とにかくパニックに陥った。
何故当然のように接客できるんだ先輩キャスト――そう思いながら、そして震えながら麻紀は目の前の客を見る。
(何、これ……)
それは、布だった。
真っ白のでっかい布が、ひらひらと舞いながら麻紀の隣に座っている。そんな布に申し訳程度につけられた黒い点が二つあるのは、恐らく目なのだろう。一部突き出た二つの布は、恐らく手の役割をしているのだろうと思われる。布の全長がどれくらいあるのかは分からないが、座席のあたりでくるくると巻かれているため、恐らく十メートルは下らないだろう、というのが分かった。
そんな布が、どのように物理法則を無視しているのか直立しており、そして腕力など何一つなさそうな布の手でウィスキーの水割りが入ったグラスを持っている、という色々とカオスな状況に、麻紀はただ混乱することしかできない。
「お嬢さん、名前は?」
「あ、あたし、ま、マキ、といいます」
布の問いかけに、そう返す。店長から、「あんまり本名と変わらない方がやりやすいですよね」ということで、本名の麻紀を片仮名にしただけの源氏名だ。
心の中で、真剣に五百万円の支度金と退職が天秤に掛けられる。こんな人外魔境での仕事だとは思わなかった。少なくとも、これならヤクザを相手にしている方が、まだ相手が人間なだけマシだとさえ思える。
「そうかそうか。儂は一反木綿の布太郎という」
「一反……木綿?」
「ほう、一反木綿を知らんかね?」
「い、いえ!」
一反木綿。
決して麻紀は妖怪に詳しいわけではないが、それでも現代社会に生きている人間だ。少なからず、妖怪をテーマにした創作物を見たことがある。
そんな中で、確かそういう名前の妖怪がいた気がする。
空を飛ぶ長い布に、目と手が生えただけの存在――まさに、今麻紀の目の前にいるこの布だ。
「ああ、儂の名刺を渡しておこうか。ご贔屓に頼むよ」
「え、あ、はい」
布――布太郎は、何故かひらひらと舞っている背中へと手をやり、そこから一枚の名刺を取り出す。どこに収納があったのか完全に謎の行動だ。
服も着ておらず、手荷物もない。ただ布がひらひらしているだけのそこから、何故名刺が出てくるのか。
かといって妙なことを聞いて、薮蛇となってもいけない。必死に布太郎の謎行動はスルーし、取り出された名刺を震えながら受け取る。
「一応、儂は会社を経営しておってな。とはいえ、下請けだからあまりお嬢さんには関係がないがね」
ははは、と笑う布太郎。しかし口らしきものはどこにも見当たらない。
そんな彼の出した名刺に書かれていたのは。
――株式会社一反木綿 代表取締役 布太郎
一体何をどうやって売って経営しているのか完全に謎の会社である。
多分布を扱っているのだろう、くらいの予想はつくのだが、それ以外には全く分からない。むしろ、布を扱うにしてもどうやって作っているのだろう。布が布を作って布を売るって完全に共食いみたいなものではなかろうか。
かといって、どこまで突っ込んで話をすればいいのか、全く分からない。
下手なことを言って怒らせたら、それこそ殺されてしまうのではなかろうか。いや、この布がどうやって麻紀を殺せるのか、と言われるとかなり謎だが。
「し、下請け、なんですか?」
「うむ。もののけ南市から続く地獄入り口に、脱衣婆服飾店があってな。そこに布を卸しておる」
(どこに疑問を抱けばいいかすら分からない!)
もののけ南市ってどこだ。
地獄入り口ってそれ死後の世界じゃないか。
脱衣婆服飾店ってそれ脱がしてんのか着せてんのか分からない。
そしてやっぱり布を扱ってるんだ。
総合して、やっぱり分からない。
とりあえず、疑問から整理していこう。分からないことはちゃんと聞くのが一番だ。
「も、もののけ南市って……?」
「おお、そういえばお嬢さんは現世住みか。向こうとこっちは少々違っていてな。もののけ中央市と、そこから四方にそれぞれ市がある。儂が住んでいるのは南市だな」
「現世、住み?」
「うむ。お嬢さんは妖怪なんぞ見たことがなかろう?」
布太郎の言葉に、頷く。
決して長いとは言えない麻紀の人生十八年、妖怪なんて一度たりとも見たことがない。むしろ、そんなものが本当にいたなら、それこそテレビで何度もやっているはずだ。
なのに、見たことがないというのは、つまりいないのだ、と思っていた。
それがこんな風に、当然のように存在している。
「儂らはお嬢さんたちとは、生きる世界が違うのだよ」
「世界……ですか?」
「うむ。遥か昔、妖怪は忌み嫌われておった。妖怪退治を専門にする者もおってな……儂らも、ただ退治されるわけにはいかん。だからこそ、隠れたのだ。ゆえに、お嬢さんたちの住む世界は現世、儂らの住むこの世界は隠り世……幽世と呼ばれておる」
現世と幽世。
よく分からないけれど、つまり人間に退治される前に逃げた、ということか。
「儂らとて、人間を襲う種もおるにはおるが、大半はただ生きていただけだ。だが人間は、そんな儂らを見境なしに退治しようとしとったからな……」
「その、なんか……すみません」
麻紀が悪いわけではないのだが、なんとなくそう謝罪してしまう。
だが、布太郎はからからと笑った。口ないけど。
「なぁに、お嬢さんが悪いわけではない。儂らは、人間とは異なる存在だ。異なる存在を認められないというのは、どの種でも同じことよ。実際にお嬢さん、儂はあんたに何もしようとはしておらん。だが、お嬢さんは儂が怖いだろう?」
「うっ……」
「理解の外に存在するものを恐れるのは、いつの時代も同じだ」
寂しげにそう言う布太郎。表情ないけど。
だが、理解できる。妖怪とは、妖しい、怪しいというダブルあやしいで形成された存在だ。怪しいものは怖いし、出来るならばその脅威は排除するのが人間だ。
実際に、特に人間に害を与える存在ではないのに、台所に出没する黒いアレなんかめちゃくちゃ怖い。だからこそ、ホイホイだとか丸めた新聞紙で排除しようとするのだ。
妖怪とGを同列に語るのも少々おかしいかもしれないが、的外れというわけではないだろう。
「全く、嫌な世の中よの」
「……ですね」
布太郎がそこでやっと、グラスを傾ける。ずっと持っているだけだったから、もしかして口がないから飲めないのかな、と思っていたが普通に飲めるようだ。
グラスに入った酒が、布太郎の布に染み渡ってゆく。
……え?
「くーっ、五臓六腑に染みるのぅ」
真っ白の布が、酒で若干茶色に染まる。
果たしてこれは本当に飲んでいるのだろうか。
そして五臓六腑はどこに存在するんだ。
「あ、あの……?」
「ほれお嬢さん、お代わりをおくれ」
「え、あ、はい」
渡されたグラスに、マニュアル通りに氷を投入しウィスキーを注ぎ、ミネラルウォーターを入れる。軽くかき混ぜて完成だ。
しかしどう見ても飲んでいるというより、本当に染みている。洗濯して落ちるのだろうか。いや、一応生きているわけだし、洗濯機に入れちゃまずそうだ。
そんな混乱のせいで。
麻紀の手が思い切り、滑った。
「あっ!」
布太郎へ渡そうとしたグラスが、そのまま布太郎へと飛んでゆく。まずい。このままだと布太郎に掛かってしまう。
キャストとして、一番してはいけないことだ。下手な客だと、クリーニング代を要求される。当然、そのクリーニング代は麻紀の給料から引かれるだろう。そうでなくても、少なからず迷惑料を払わなければならないかもしれない。
ばしゃん、と布太郎の体に、思い切り水割りがかかる。
やってしまった――そう、背筋に冷たいものが走り。
「ふむふむ。少し濃いめだのぅ」
「……え?」
当然のように布太郎の体は、水割りを全吸収していた。
からん、と氷が転がる音が、どことなく間抜けに聞こえて。
「ほれお嬢さん、お代わりだ。もう少し薄めでいいぞ」
「……あ、あの? も、申し訳、ありません!」
「なぁに、たまには一気に飲むのも悪くはない」
そういう問題なのだろうか。
むしろどう見ても飲んでない。どう考えてもただ吸収しているだけだ。
もう全身、ほぼ茶色に染まっている。
麻紀は今度こそ、落とさないように気をつけて薄めに水割りを作り、布太郎の手(?)に渡す。今度はそれを、ちびちびと傾けていた。
目の上で。
どう考えても、飲んでいるというよりは被っている、という方が当てはまる。
「うーむ。全身に回ってきたのぉ」
(……全身、下の方に物凄く余ってるんだけど)
ちらりと麻紀が見やるそこで、束ねられた布太郎の残りの体。
その全身に酒が回るまで飲むのだとしたら。
(……帰った後、雑巾で拭いとこ)
絶対に言えることは。
座席は、間違いなくびしょ濡れになる、ということだ。
その後、特に何事もなく平和な時間を過ごした。
口調からそれなりに年齢を重ねている、ということは分かったが、布太郎は話題も豊富に持っており、麻紀も相槌を返しながら楽しい時間を提供できた。
そこで、店長が席に顔を出す。
「申し訳ありません、お客様。お時間の方五分前となりましたが、延長なされますか?」
「おお、もうそんな時間か」
話し込んでいるうちに、どうやら時間が経ったらしい。
出来れば延長を貰った方が、月末の給料が少し上がる。だが、初めての接客ということで精魂尽きかけている麻紀としては、延長は勘弁して欲しかった。
休みたい。
「ふむ、まぁ延長はやめておこう。店長、いつものアレを用意してくれ」
「承知いたしました」
いつものアレ?
疑問を抱くも、布太郎はそれなりに常連のようだから、店長が分かっているのだろう。もしかすると、帰る間際にテキーラ一杯、みたいなこだわりがあるのかもしれない。
大分飲んで(吸って)、見るからにブヨブヨになった布太郎。これ以上はさすがに吸えないのではなかろうか。座席も当然のように濡れている。
と、そこで店長が戻ってくる。
お会計用のトレイに請求書を乗せたものを右手に。
大きめのバケツを左手に。
(……バケツ?)
何故このタイミングで、店長がバケツを持ってきたのだろう。もしかして、いつものアレというのはバケツなのだろうか。
「お支払いの方は?」
「カードで頼む」
(カードあるんだ)
妖怪がクレジットカードで支払いというのも、謎の光景である。
店長がカードを処理するために、その場を離れて。
布太郎が、ゆっくりとバケツを引いた。
「ああ、お嬢さん、離れておれ」
「え、あ、はい」
「掛かったらすまんの」
言って、麻紀が少しだけ離れると共に。
布太郎はバケツの上で、思い切り自分の体を捻った。
ばしゃばしゃばしゃ、とバケツの中に水分が溜まってゆく。
「……へ?」
それをひたすらに繰り返し、布太郎の体から水分が抜けてゆく。代わりに、バケツの中へと溜まってゆく水分。これは一体どういうことなのだろう。
そして布太郎は、来店時のようなふわふわとした布へと戻った。
「いやー、みっともないところを見せたのぉ」
「あ、あの、一体……?」
「酒は好きなんだが、残念ながら儂、飲みすぎると飛べなくなるんだよ」
一反木綿といえば、ふわふわと飛ぶのが特徴だ。
漫画でも、主人公を乗せて飛ぶ姿が非常に印象的である。
確かに先ほどまでの、水分でブヨブヨしすぎた姿は飛びにくそうに思える。だからこそ、ここで絞っていく、ということか。
ある意味排泄なんじゃないかこれ。
「確かお嬢さん、マキといったかの」
「あ、はい!」
「また来るときは、お嬢さんを指名しよう。また楽しい時間をおくれ」
「はい! お待ちしています!」
ひらひらと布太郎が飛んでいく。
麻紀もそれを追うように、玄関先まで小走りで行き、そのままお見送りをした。お出迎えからお見送りまではセットだ。麻紀にとって初めてのお客様であった布太郎に、精一杯の誠意と共に頭を下げる。
失敗ばかりだった。
怖がってしまって、最初は話が弾まなかった。
手が滑ってグラスを落としてしまった。
最後に自分の体を絞るところなんて、思い切り引いてしまった。
ただ、終わってみて思うのは。
(突っ込みどころ、ありすぎ……)
自分の突っ込み気質を、呪わずにいられない。