働く女はツケマが命
この、誰もが見惚れそうなほどに端正な顔つきをしたシュガーボーイは、アン。
それがあだ名なのか本名なのか分からないけど、同僚はみんな彼をそう呼ぶ。
まるで女の子のような名前だけど、とびっきりに明るくてこの現場の人気者である彼には、ぴったり過ぎる名前だ。
何を隠そう、私は彼が苦手だ。
私よりずっと後にこの現場に入ったのに、あっという間にこの場に溶け込んだアン。
体格だって細くて、華奢で、身長も今の私より拳一つ高いくらい。
なのに、屈強な体躯の同僚に一目置かれている。
いつも輪の中心にいて、皆の信頼厚いアン……。
彼を見るたびに、私の心がチクリと痛む。
私は一人残されてるって気にさせられる。
それをまざまざと見せつけられているように感じるのだ。
でも彼は私の気持ちなど知る由もない。
「おーちゃん、せっかくの完璧フルメイクが崩れちゃうよ?」
カチンッ!
「っんなぁ!」
おい、誰の所為だ。それは!!
そう感情のまま叫ばなかった私を褒めてあげたい。
私は怒りの感情をなんとか飲みこみ、努めて冷静に私の上にいるアンを見上げた。
もう心乱されたりしない。
いつも通りの、鋼鉄の鎧で表情を覆う。
「ちょっと、どいてくれない?」
ぐいっと身を捻じり、つっけんどんにアンの肩を押した。
視線が合うとアンは眼を細め、愛嬌いっぱいの微笑を私に向けてくる。
自分の見せ方をよく知っている。
アンが微笑んで見せれば誰だってつられて笑顔になる。
そんな顔するなんて卑怯だわ。
つられて緩みそうになる顔に力を入れるとアンを睨みつけた。
「早くどいて!」
「ん~、やだ!」
「なっ……」
なんですって、と叫びそうになり、寸での所で言葉を飲みこんだ。
一音ぐらい外に出ていても許そう。
私は実によく我慢している。
「あのね……」
「アンって呼んで。それが俺の名前」
私の上から退く気配もなく、アンは楽しげに鼻歌など歌いながら、地面に放り出した足をばたつかせた。
ついでにコクリと小首を傾げてみせる。
実に愛らしい。
そうよね、こういう愛嬌のあるキャラクターが皆に愛されて、受け入れられるのよね。
胸がズキンっと痛んだ。
頬が引き攣る。
「アン、あまり監督を困らせるなよ」
私達の側を通りかかった年配の男が苦笑いを噛み殺してアンに声をかける。
その呆れきった声に全身の血の気が引いていく。
押し留めていた負の感情が堰を切って噴き出す。
心の中で男の本音が私を嘲笑する。
『何もできない現場監督が!地面にへばりついてるのがお似合いなんだよ』
その妄想を振り払うように私は被りを振った。
考えちゃダメだ。
負けちゃダメ。
私は強くなければ……。
自分に言い聞かせるように、私は大きく息を吸った。
その勢いのまま、がっと起き上がり、背中に乗ったままのアンを振り落とす。
「わぁっ!」
アンの叫びを無視して、私は立ち上がった。
いきなり動いたからか、先ほど痛んだ胸がドクドクと鼓動の速度を上げる。
でもそれすらも気付かれてたまるものかと、私は体中の神経を張り巡らせる。
そう、まるでハリネズミだ。
「勤務中にふざけないで。そういう態度が事故を招くのよ!」
服に付いた泥を払いながら、まだ地面で転がったままのアンを睨みつける。
私の思わぬ反撃に驚いたのか、アンはキョトンとした表情のまま私を見上げてきた。
なんでそんな顔をするのよ。
なんで私のプライドを壊すようなことをするのよ。
頭の中は真っ白で、動悸が早まり手先が震える。
気を抜くと自分の中の全てが決壊しそう。
こんな強張った顔、誰にも見せれない。
私はくるりとアンに背を向けた。
なんとか感情を抑えると、不自然なほどに事務的な声が出た。
「早く、仕事に戻りなさい」
背中越しに忠告し、その場を去ろうとした。
一刻も早くその場を離れたかった。
このままアンと一緒にいれば、必死に隠している私の心の弱さが露見しそうで怖い。
そう。怖いのだ。
彼の真っ直ぐな視線に晒されるたび、隠している素の私を見られている気にされて……。
早くこの視線から解放されたい。
そう思うのに………。
私の背にアンは屈託ない声をかける。
「おーちゃん!ツケマ、取れかけてるよ」
「ええ?どっち?」
思わず振り向いてしまってから、私は固まった。
まずい。素の私どころか、素顔がばれてしまう。
素早く手で顔を隠そうとしたが、もう遅い。
アンは意地悪に口の端を歪ませ、こちらを見ている。
「う・そ」
囁くような吐息に茶目っ気を含ませ、固まったまま言葉を失った私に軽くウインクする。
アンは素早く立ち上がると、私の側を颯爽と通り過ぎた。
もちろん、その際私の耳元で囁くのを忘れない。
「化粧は直した方がいいかもね。泥だらけだから」
咄嗟に言葉が出てこない。
でもこのままやられっぱなしでもいられなくて、私は今自分に出来る限りの反撃を試みた。
だがどんなに睨みつけてもアンは軽くいなすようにおどけた顔を浮かべるだけ。
結局彼に遊ばれているのだ。
「あのね……」
「早く行きなよ。泥が剥がれる前に、その泣きそうな顔をなんとかしなきゃ」
ねっと、アンは可愛らしく首を傾げた。
青い、青い、晴れ渡った青空のような瞳が滲むように輝いて細まる。
ドクンと鼓動が跳ねた。
「な、泣きそう……ですって……、ふざけないでよ……」
そんな訳ないじゃない……と強がってみたが、声にならない。
語尾が震えて、言葉にならない。
なんとか、なけなしのプライドでふんっと鼻を鳴らすと私はアンに背を向けた。
目指すは鏡のある所。
本当は走りたいけど、そんな目立つことはできない。
だってきっとアンは私を見ている。
アンだけじゃない。
ここにいる人全てが私を見ているのだ。
ここでの私は冷静沈着な現場監督。
何事にも動じず、けして弱みを見せてはいけない。
そう――涙なんて言語道断だ。
何人にも負けないようにがっちり化粧という鎧で守っているのに、あのアンという青年はするりと私の心の城壁をくぐって、その中に隠れている弱い私を曝け出そうとする。
「これ以上私を追い込まないでよ。もう限界なのよ」
ぽつりと零れたのは心の奥底に押し込めた弱い私の涙だ。
あのバベルの塔を覆う灰色の空のように私の心も降り出しそうな雨を必死に抑えている。