第三十二話 魔犬郵便駐在犬と、背伸びな嗜み
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年ノランと金の魔犬ブランが出会い、やがて故郷の町を守るため大魔女と契約を交わした少年レオンは、白銀の魔犬クゥとともに「町へ降りる魔犬たちの世話役」としての歩みを始める。
宮廷で孤独を抱えていた第三王女エレアノーリエは、ノランやモルガナとの出会いを経て成長し、やがてノランと絆を結んでベイスの町の領主となり、人と魔犬が共に笑い合う「魔法都市」の礎を築いていく――。
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この町がコードリア魔犬郵便の駐在先に選ばれた最大の理由は、魔犬郵便の一員である、俺自身がこの町に惚れ込んでいるからにほかならない。
北方辺境伯地コードリアを疾走し、行政を支えるコードリア魔犬郵便。その一員である俺がこの場所に駐在を希望したのには、明確な理由があった。この町の特産である、光を透かして美しく輝く「ガラス工芸」に、俺は一目惚れしてしまったのだ。
灰銀色の巨体を誇る俺は、「郵便魔犬駐在所」と書かれた看板を掲げたこの駐在犬所に住み着き、日々、行政文書の配達をこなしている。
早朝太陽が顔を見せ始める頃、俺の毎日は決まったルーティンから始まる。まずは、コードリア魔犬郵便の制式鞄である、領地の紋章が刻まれたレザーケースの手入れだ。
雨風に晒されても中の書状を絶対に濡らさない頑丈な革を、丁寧に布で拭い、保湿の油を塗り込む。そして、その鞄の最も目立つ場所につけられた小さなバッジに視線を落とす。それは、数々の過酷な配達を達成した誇りある証、領主エレアノーリエ様から直々に進呈された、真鍮製の記念バッジだ。
陽光を浴びて鈍く、しかし力強く輝くそのバッジを、俺は前脚を使ってピカピカになるまで磨き上げる。このバッジを見るたびに、俺のなかに郵便配達人としての誇りと責任感が熱く湧き上がってくる。
手入れを終えた鞄をしっかりと携え、俺は持ち前の圧倒的なスタミナを活かして定期便の配達へと飛び出す。石畳の道を風のように駆け抜け、町から町へ、役所から代官の元へと行政文書を迅速かつ確実に届けていく。
俺にとって、この町での駐在仕事は、コードリア魔犬郵便の一員としての誇り高き生活の基盤であると同時に、日々の報酬を蓄え、この町自慢の美しいガラス製品に囲まれて暮らすための、なくてはならない手段でもあった。
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午前中の仕事を完璧にやり遂げ、駐在犬所へと戻ってきた頃には、心地よい疲労感に包まれる。そんな午後のひととき、俺が楽しみにしているお決まりのルーティンがあった。
それは、駐在犬所の広々とした縁側にどっかりと腰を下ろし、俺好みの深い味わいのスパイス「アニス」を、ゆっくりと時間をかけて噛み締めることだ。
アニスといえば、かつて山の館で南の地から贈られてきた、魔犬たちをことごとく夢心地の宴へと誘った香草であり、人間で言えば極上の酒にも比肩すると言われる超希少品だ。
その甘くスパイシーで、どこか胸を揺さぶるエキゾチックな香りを微かに漂わせながら、俺は一噛み一噛み、じっくりと味わう。
縁側のすぐ前を通る隣の店主が、俺の姿を見留めて、呆れたような、しかしどこか面白がるような笑みを浮かべる。
「またそんな顔して……仕事終わりのオヤジみたいだぞ、お前は」
その言葉を耳にした俺は、フンと鼻を鳴らし、わざとニヤッと口角を釣り上げて、太い前脚を優雅に組んでみせる。そして、極めて涼しい顔でこう言い放つ。
「心外だな、俺ぁまだ二十そこそこだぞ」
もっとも、その言葉とは裏腹に、灰銀色の毛並みに包まれた俺の巨体と、微動だにせず縁側に座り込む姿は、どこか人生の酸いも甘いも噛み分けた、悟りを開いた老犬のような圧倒的な落ち着きを放っているらしい。
店主は苦笑いしながら手を振って通り過ぎていくが、俺はこの静かで満ち足りた時間がたまらなく好きだった。
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陽が少し傾きかけた昼下がり、俺は自分の駐在所をあとにして、「魔犬喫茶」の町内支店へと足を向ける。この店は、人間になでてもらい、可愛がられることの対価として貨幣を貰うという、魔犬たちにとっても画期的な場所だった。
支店の設立に先立ち、専属のスタッフ犬たちがベイスの町や山から十数匹も引っ越してきていたが、いつも同じメンツばかりでは人間側の客が飽きてしまう。そのため、飛び込みのアルバイトも大歓迎されているのだ。
俺が店の扉をくぐるやいなや、店内にいた人間のお客さん、特に女性たちから「きゃーーっ!魔犬郵便の魔犬さんよ!」
「久しぶりに来てくれた!」と、黄色い歓声が上がる。
たちまち俺のまわりにはたくさんの「魔犬専用おやつ」が次々と貢がれるように差し出された。
「おっ、いい匂いだ。いつもすまないね」
俺は、幾度かの経験から身につけた、野性味と洗練を絶妙にミックスさせた爽やかな笑みを浮かべ、愛想よくそれらを受け取る。そして、寄ってくる客たちの求めに応じて、大きな頭や首筋を思う存分撫でさせてやるのだ。
人間というのは不思議な生き物で、こうして撫でさせてやるだけで心から癒やされたような顔をし、代わりに極上の幸福感と、たくさんのご馳走をくれる。
たっぷりと愛でられ、腹が十分に満たされたところで、俺は満足感に浸りながら帰路の準備をする。カウンターの端では、この支店を仕切る商犬ギルド員の、体の小さな町魔犬がちょこんと座っていた。
彼らは驚異的な商才とちゃっかりした気質を持って商業を支えているが、仲間である俺に対しても非常に気風がいい。
「いつでも歓迎だから、ぜひまたバイトに来てね! 郵便おつかれさま!」
そう明るく声をかけられながら、アルバイト代として真鍮の輝きとはまた違う、ずっしりと重みのある銅貨数枚を受け取る。
魔犬喫茶のアルバイトを終え、ほくほく顔で街を歩いていた俺の足は、自然とまっすぐに、贔屓にしているお気に入りの「ガラス工房」へと向かっていた。扉を開けると、店内の棚には職人が手塩にかけて作り上げた新作のグラスや、光を美しく乱反射させるオーナメントの数々が所狭しと並んでいる。
「むっ、新作か……これは…!」
俺の足を完全に釘付けにしたのは、店の一番奥、特等席に飾られていた一つのガラス細工だった。それは、どこまでも広がる夕日をそのまま閉じ込めたような、深く、そして吸い込まれそうな琥珀色の輝きを放っていた。光が差し込む角度によって、黄金色から茜色へと揺らめくその姿は、一瞬で俺の心を奪い去るのに十分すぎた。
俺は、駐在所と手元にある麻袋の中身ーー駐在犬としての特別手当てと、魔犬喫茶でのアルバイトでコツコツと貯め込んできた貯金額を頭のなかで計算する。
(買うべきか……? いや、しかし、これを買ってしまえば、次のアニスの購入やクッションの買い換えのための資金が大きく減ってしまう……)
頭の中では理性が警告を発するが、目の前にある琥珀色の美しさが、俺の喉を鳴らすほど猛烈に購買欲を刺激してくる。麻袋の中身が軽くなってしまうことへの激しい葛藤と、どうしても今すぐこの手に入れたいという衝動の間で、俺は工房の隅で数時間もの間、巨体を震わせながら唸り声を上げ続けていた。
「おーい、買うならばしっと決めてくれぃ。そろそろ店じまいだぞ。全く…いつも長いこと悩むんだから」
見知った顔の店主がぶつくさと何かを言っているが、それどころではない。全神経をかけた一世一代の悩みどころだった。
そして、悩み抜いた末に、俺はガバッと顔を上げ、心の中で小さく叫んだ。
(……よし、一発当てるか!)
自らに気合を入れるようにブルリと頭を振ると、俺は店主に取り置きを頼んだ。店をでると、日々郵便で鍛えられた健脚を遺憾なく発揮し、町を駆ける。そして、ずっしりと重い麻袋を駐在所からくわえて戻り、その中から硬貨をカウンターの上へジャラジャラと置いた。店主は先程とは一転、嬉しそうに笑って包みを用意してくれる。
手に入れた琥珀色のガラス細工を絶対に傷つけまいと、俺は細心の注意を払い、魔法でふわりと宙に浮かせて、しっかりと安全を確保しながら誇らしげに帰路についた。
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夜のとばりが下り、静寂に包まれた郵便魔犬駐在所。明かりを消した部屋の中で、俺は今日手に入れたばかりの、あの夕日色の琥珀色のガラスを、部屋の一番目立つ特等席にそっと飾った。
これまでにコードリア各地の任務の合間や、この町の職人たちからコツコツと集めてきた自慢のガラスコレクションたちが、ずらりと並んでいる。
俺は部屋の隅でどっかりと座り込み、窓から差し込む静かな月明かりをそのガラス細工たちに透かして、一つひとつゆっくりと眺めていく。
月の光を受けた琥珀色のガラスが、まるで生き物のように温かな光を部屋の中に映し出す。その幻想的な輝きを見つめていると、日々の厳しい郵便配達の疲れも心地よい泡のように消えていくのだった。
「……悪くない夜だ」
俺は満足げに小さく低く鳴き、コレクション全体の煌めきが織りなす美しい光景を瞼の裏に焼き付けながら、買い換えの機会を逃し、幾分か擦りきれたクッションの上で、心地よい眠りへと落ちていくのだった。
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