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町の小さなお守り魔女と、言葉を紡ぐ金の犬〜不老幼女の大魔女、人間の言葉を喋る魔犬たちと暮らしていたら、魔法都市ができていました~  作者: あづみ
第二章 短編:魔犬オムニバス

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第二十七話 新しい産声と、魔女の手

 霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬クーシー』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。


 ある日、麓のベイスの町に住む、少年ノランと金の魔犬ブランが出会い、やがて故郷の町を守るため大魔女と契約を交わした少年レオンは、白銀の魔犬クゥとともに「町へ降りる魔犬たちの世話役」としての歩みを始める。


 宮廷で孤独を抱えていた第三王女エレアノーリエは、ノランやモルガナとの出会いを経て成長し、やがてノランと絆を結んでベイスの町の領主となり、人と魔犬が共に笑い合う「魔法都市」の礎を築いていく――。


------------------------------------------------------------------------


 街道の整備、魔道具を用いた農作物の収穫量増加、さらには新たに設立が予定されている魔法学校の準備――。


 それら膨大な事業の頂点に立つエレアノーリエの執務室には、昼夜を問わず山のような書類が積み上げられていた。



「エレア様、そろそろお休みにしてください。いくら身体が丈夫だからといって、ここ数ヶ月の詰め込みようは少し異常ですよ。昨夜もろくに寝ていないでしょう?」



 温かいハーブティーの入ったカップを机の脇に置きながら、ノランが心配そうに眉をひそめた。


 しかし、書類に目を通すエレアノーリエのペンは止まらない。鮮やかな赤髪を一つに束ね、紫の瞳を爛々と輝かせた彼女は、フフンと胸を張ってみせた。



「何を仰いますの、ノラン様。コードリア領の未来は今、まさにこの手で切り拓かれているのですわ! 魔法学校の第一期生の受け入れ態勢、北端の警戒体制、領民からの陳情……どれもわたくしが直接確認せねば気の済まない重要な案件ばかりです。それに、わたくしの体力なら何の問題もありませんわ。ほら、この通り!」


 そう言ってエレアノーリエは立ち上がり、軽く両腕を広げて見せた。


 元王女とはいえ、彼女はモルガナのもとで過酷な魔法の修行を積んだ心身ともに優秀な魔法使いだ。引き締まった腹筋と無駄のない身体つきは、普段のドレスの上からでは何の変化も感じさせなかった。


 ――そう、「普段」であれば。



「……何が『何の問題もない』かしら」



 地獄の底から響くような、低く冷ややかな声が執務室に響いた。


 唐突に空間が歪み、そこから姿を現したのは、十歳ほどの少女の姿をした大魔女モルガナであった。彼女は瞳を極限まで細め、エレアノーリエを睨みつけている。



「モ、モルガナ様!? どうしてこのような時間に……」


「山の館に届く報告書が滞っていると思ったら、これね。……エレアノーリエ、ちょっとそこへ立ちなさい」


「は、はいっ!」



 師匠の絶対的な威圧感に気圧され、エレアノーリエは背筋をピシッと伸ばして直立不動の姿勢をとった。


 モルガナは小さく溜息をつくと、白い指先をエレアノーリエの胸元からお腹にかけてかざした。指先から淡い漆黒と銀色の魔力が走り、エレアノーリエの身体を走査していく。


 次の瞬間、モルガナの表情が凍りついた。


「……エレアノーリエ」


「は、はい……?」


「貴女、最後に月のものが来たのはいつかしら」


「えっ? ええと……ここ数ヶ月は領地の開拓事業と予算の試算で頭がいっぱいでして、少々不順になっているかと思っておりましたが……」


「不順?!」



 モルガナの怒号が執務室全体を揺らした。窓ガラスが小さく震え、部屋の外にいた魔犬たちが怯えたように耳を伏せる。



「貴女のお腹の中に、小さな命が脈打っているのが分からないのかしら! しかも、ただの初期じゃない……あと数週間、下手をすれば今すぐにでも生まれておかしくないほど育っているのよ!!」


「え……?」



 エレアノーリエはぽかんと口を開けた。自分の手のひらをそっとお腹に当てる。


 言われてみれば、ここ最近、少しずつ着られるドレスの腰回りがキツくなり、妙に胸が張る感覚はあった。しかし彼女はそれを「ノラン様が作る夜食が美味しすぎて少々太ってしまったかしら」程度にしか考えていなかったのだ。


 もともと腹筋が強く鍛えられていたため、内側に向かってお腹が大きくならず、見た目には妊婦だとまったく分からなかったのである。



「り、臨月……!? わたくしが、臨月……!?」


「 自分の体調管理くらい満足にできないで、何が領主なのかしら! 妊婦が夜更かしをして山のような書類と格闘するなど言語道断よ!」


 みたことのない剣幕でバンバンと机を叩いて大説教をかますモルガナの前で、エレアノーリエは、借りてきた猫のように小さくなって縮こまった。


 だが、事態はそれだけでは収まらなかった。



「……え?」



 部屋の隅で、固まっていた人物がいた。夫のノランである。


 ノランは手にしたお茶のトレイを持ったまま、目を見開き、顔面は蒼白になり、続いて真っ赤になり、最終的に見たこともないような複雑な表情へと変貌を遂げた。



「ち、父親……? 私が……お父さん……? え? エレア様のお腹の中に、私たちの赤ちゃん……!? でも、臨月って……今!? 明日!? 来週!? 準備は!?」



 グルグルと部屋を周り、ハーブティーのポットをひっくり返そうになるノラン。普段はどんな高等魔道陣も即座に解読してみせる天才魔法使いが、完全なキャパシティオーバーを起こしてパニックに陥っていた。



「 頼りにならない父親だわ、まったく…」


「あ、頭が真っ白に……! ブラン! ブラン、どこだ! 私に精神安定の精霊魔法をかけてくれぇ!」


「ノラン、落ち着いて…」



 廊下に待機していた相棒の魔犬ブランが、情けない友人の姿を見て呆れたように鳴いた。


 こうして、コードリア領主館は、前代未聞の「臨月発覚騒動」によって大パニックの渦へと叩き落とされたのであった。


------------------------------


 モルガナの大説教を受けたその日から、エレアノーリエは強制的にすべての政務をストップされた。


 書類はすべて副官や関係各所に振り分けられ、エレアノーリエは自室のふかふかのベッドの上で「おとなしく過ごすこと」を命じられたのだ。


 大好きな仕事を奪われ、最初は「うう……書類を見たいですわ……」と愚痴をこぼしていたエレアノーリエだったが、モルガナから「次に勝手にペンを持ったら魔法で寝たきりにするわよ」と脅され、素直に従うほかなかった。


 そして、静養を始めてからおよそ一ヶ月が経過した、穏やかな午後のことだった。



「エレア様、体調はどうですか? 今日は温かいスープを作ってきたのですが……」



 ノランが自室の扉を開け、トレイを手に優しく微笑みかけた、その瞬間だった。



「……あっ」



 窓辺の椅子に座っていたエレアノーリエが、ふっと息を呑み、胸元を押さえた。


 一瞬の静寂の後、彼女の額から大量の汗が吹き出し、顔色が急激に失われていく。



「エレア様……!?」


「っ……あ……! ノ、ノラン様……これ、は……っ!」



 ズキン、と腹部の底から突き上げるような強烈な衝撃と痛みが彼女を襲った。足元で温かい液体が広がる。破水だった。



「は、破水!? た、大変だ! 破水だ! どうしよう、エレア様、一度横になって!!ど、どうしよう!」



 ノランの手からトレイが滑り落ち、スープが床にぶちまけられる。慌てたノランは自分の足に引っかかって派手に転倒し、起き上がり、エレアノーリエにかけよったは良いものの狼狽えたまま動けないという愚行を犯した。


 騒ぎを聞き付け、部屋のそとに控えていた、エレアノーリエの友犬、ルクス、ノクス、ヴェントの三匹が駆け寄ってきた。



「ォオーーンッ!」「キャンッ!」

『わたしたちが精霊魔法をかけて痛みを和らげるから、ルクスが魔女さまに連絡をっ!』


『分かった! 山の館に念話を送る!』



 ルクスたちが素早く反応し、精神感応で霊峰ヴァルグヴェルドへと緊急事態を伝達した。


 わずか数分後、空間転移によって現れたモルガナの手により、エレアノーリエはあらかじめ準備されていた特製の「産室」へと運び込まれた。そこは結界魔法によって完璧に温度と湿度が保たれ、清潔な布と魔導具が揃えられた特別な部屋であった。



「うぐっ……ふぅーっ……! っ……!」



 ベッドの上で、エレアノーリエが荒い息を吐きながら痛みに耐えている。陣痛の波が襲うたび、彼女の強い握力によってベッドの木枠がメリメリと音を立てて軋んだ。


 一方、部屋の外――どころか産室の入口付近で、ノランは右往左往していた。



「湯、湯を持ってきました! あ、熱すぎたかな!? いや冷たいかも!? モルガナ様、包帯はこれで足りますか!? 魔法薬の希釈率は!? うわっ、足がもつれて……!」


 バシャーン! と湯桶をひっくり返し、廊下を水浸しにするノラン。書類や薬草を散らかし、自分自身の手を魔法で火傷しそうになっている。


 その情けない姿に、ついに二人の女性の忍耐が限界を迎えた。



「ーーッ!ノラン様っ!!!!」



 激しい陣痛の合間を縫って、ベッドの上のエレアノーリエから絞り出すような、しかし怒りに満ちた一撃が飛んだ。


 と同時に、モルガナの手から放たれた小さな爆導光の魔法が、ノランの足元でパアァン! と弾けた。



「ひゃあッ!?」


「貴方は父親になるのでしょう! いつまでうろたえているの! 自分の妻が命がけで戦っているときに、腰を抜かして足引っ張ってどうするのかしら!!」



 モルガナの雷のような一喝と、汗だくになりながら自分を睨みつけるエレアノーリエの強い眼差し。


 その二つを同時に浴びた瞬間、ノランの頭の中で「バチン」と何かが切り替わる音がした。



(……そうだ。何をやっているんだ、私は)



(エレア様が今、一番苦しくて、一番戦っているんだ。私は、大切な家族を守るためにあるんじゃないのか!?)



 ノランの瞳から焦りと狼狽が消え、静かな、しかし力強い光が宿った。



 彼は深く一度息を吐くと、素早く転倒した湯桶を拾い上げ、魔法で一瞬にして床を乾燥・洗浄した。そして、一歩一歩確かな足取りでエレアノーリエのベッド脇へと歩み寄った。



「……申し訳ありません、エレア様!……モルガナ様!」



 ノランはエレアノーリエの汗ばんだ右手をごつごつとした自分の両手でしっかりと握りしめた。



「エレア様。私はここにいます。貴女の痛みを全部代わってあげることはできないけれど……できることは全部します!…だから、どうか…!」


「ノラン……様……」



 ノランは左手をかざし、繊細な魔道陣を描いた。それは他者に微弱かつ持続的な魔力を補給する、極めて高度な補助魔法であった。さらに、モルガナが指示する道具や薬湯を、無駄のない動きで完璧に給仕し始める。



「ふん、最初からそうしなさい。……さて、ここからが本番よ」



 モルガナが表情を引き締めた。産室に、本格的な死闘の予感が漂い始めていた。


------------------------------


 お産は、誰もが予想していた以上に過酷を極めた。


 半日が経過し、夜が訪れ、そして再び東の空が白み始めてもなお、赤ん坊は生まれてこなかった。


 酷い難産であった。


 赤ん坊の体格が予想以上に大きく、さらに産道へ進む姿勢がわずかに傾いていたため、正常な分娩が進まないのだ。



「はぁ……っ、はぁ……っ、うあぁぁぁっ!!」



 エレアノーリエの絶叫が部屋に響く。


 元より体力には自信があった彼女だったが、丸一日以上に及ぶ激痛と陣痛の繰り返しにより、その体力は限界を迎えていた。肌は土色に陰り、唇は乾ききって血を滲ませている。ブランやルクスたちの精霊魔法をもってしても、妊婦とその赤子の命を癒すにはちからも技術も足りなかった。



「エレア様! エレア様、しっかりしてください! 私の手を握って!」


「っ……ノ、ラン様……わたくし……もう……」



 意識が遠のきかけるエレアノーリエ。


 さらに悪いことに、モルガナが腹部に当てた手から伝わる赤ん坊の鼓動が、急速に弱まり始めていた。



(まずい……! 赤ん坊の気が体内で滞っている。このままじゃ、母子ともに体力が尽きて息絶えるわ……!)



 絶望的な空気に産室が支配されかける。ノランの顔から再び血の気が引き、手が震えそうになった。


 ――その時だった。



「生きなさい!!」



 大魔女モルガナが、腹の底から声を張り上げた。


 彼女の全身から、凄まじい量の魔力が爆発的に吹き荒れる。しかし、その魔力は破壊のためのものではない。驚くほど繊細で、温かく、そして力強い波動であった。



「私の目の前で、愛弟子と新しい命を失わせるとでも思っているのかしら!!」



 モルガナの両手が黄金色と深紫色の複雑な幾重もの魔道陣を描き出す。


 その両手が、エレアノーリエのお腹の上へと静かに置かれた。



「私を信じなさい。――生きるのよ、エレアノーリエ! 赤ん坊!!」



 モルガナの真骨頂であった。


 彼女は自身の膨大な魔力を極限まで細分化し、エレアノーリエの体内の血管、筋肉、子宮の収縮、探知した赤ん坊の位置までを完璧に視覚化・制御し始めた。


 精霊魔法の癒しによってエレアノーリエの痛みを最小限に抑えつつ、魔道魔法の干渉によって赤ん坊の体勢を体外から誘導する。さらに薬草の成分を魔法で直接体内に浸透させ、収縮力を高める。


 それは、人間の限界に挑む精密魔法の連続であった。


 モルガナの額から、大粒の汗がぽたぽたと落ちる。大魔女をもってしても、過酷すぎるほどの魔力消費と精神集中。それでも彼女の眼光は一切の揺らぎを見せなかった。



「エレアノーリエ! 歯を食いしばりなさい! 最後の一押しよ!」


「あ……あああぁぁぁっ!!」



 師匠の叫びを受け、薄れかけていたエレアノーリエの瞳に再び熾火のような炎が宿った。



(負けません……! わたくしは……このコードリアの領主! そして……この子の母親!!)


(この子を……この手で抱きしめるまでは……絶対に……死んでも諦めませんわ!!)



 エレアノーリエは残されたすべての生命力を振り絞り、ノランの手を千切れんばかりの力で握りしめながら、最後の一押しを踏ん張った。


 ノランもまた、自身の魔力が底をつくのも構わず、全存在をかけて妻へ力を送り続けた。


 時間すら停止したかのような、永遠にも思える緊張の一瞬――。


------------------------------



「――オギャアッ! オギャアッ! オギャアッ……!!」


 緊迫した静寂を破り、元気に満ちた、高く大きな赤ん坊の産声が産室全体に響き渡った。


 破れんばかりの声量で泣き叫ぶその赤ん坊は、予想通り平均的な新生児よりも一回り大きく、むちむちとした元気いっぱいの男の子であった。



「……ふぅ……まったく、骨を折らせてくれたわね……」



 モルガナはエレアノーリエに回復の精霊魔法をかけると、肩の力を抜き、その場にぺたりと座り込んだ。大魔女の額には珍しく大量の汗が滲んでいたが、その口元には満足そうな、どこか温かい笑みが浮かんでいた。



「生まれた……生まれました、エレア様……! 元気な男の子だ……!」



 ノランは、産声を聞いた瞬間に膝から崩れ落ち、エレアノーリエの手を抱きしめたまま大号泣した。ボロボロと大粒の涙をこぼし、鼻水を垂らしながら、子供のように泣きじゃくっている。



「よかった……無事で……本当によかったでず……っ……!」


「ノラン、様……泣きすぎですわ……」



 エレアノーリエは途切れ途切れの声でそう言いながらも、自らの頬にも温かい涙を伝わせていた。


 モルガナの手によって綺麗に拭われ、布に包まれた我が子が、エレアノーリエの胸元へと抱かされる。


しわくちゃの顔で必死に泣く小さな命。赤く輝く元気な産毛と、うっすらと開いた瞳は、父親譲りの柔らかな光を宿していた。



「……可愛い……わたくしたちの……赤ん坊……」



 エレアノーリエは我が子を慈しむように抱きしめ、愛おしそうにその額に唇を寄せた。


 ――そして、数日後。


 絶体絶命の難産を乗り越えたエレアノーリエは、自身と友犬の精霊魔法と持ち前の脅威的な回復力により、すっかり元気を取り戻していた。


 そして始まったのは、夫婦による「激しい親バカ争奪戦」であった。



「ノラン様! 次のおむつ替えはわたくしの番ですわ! あなたはさっきミルクをあげたばかりでしょう!」


「何を言っているんですかエレア様! 貴女はまだ身体を休めなければならない時期なんです! 抱っこもおむつ替えも、この私に任せて横になっていてください!」


「嫌ですわ! わたくしがこの子を抱っこしたいのです! ほら見てください、なんて賢そうなお顔でしょう!」


「いいえ、可愛らしくのんびりした優しいお顔ですよ! ああ、もう見ているだけで可愛すぎて胸が苦しい……っ!」



 ベビーベッドの脇で、二人は取り合うように息子の世話をし、少しでも隙があれば二人並んでベッドを覗き込み、「うふふ」「ふふふ」とデレデレな笑みを漏らしていた。


 威厳ある領主と天才魔法使いの姿はそこにはなく、ただの親バカな若夫婦が完成していた。


 そんな二人を、部屋の入口で腕を組んで見ていたモルガナは、肩をすくめつつも、目を細めていた。


 そして、若様誕生の報せは、即座に「魔犬郵便」によってコードリア領中の町、そして霊峰ヴァルグヴェルドの「山の館」へと駆け巡った。



『生まれたぞーっ! 元気な男の子だ!!』


『ウォォォォン!! 若様のご誕生だぁぁぁっ!!』



 山の館からは、ブランやルクスをはじめとする数百匹の魔犬たちの祝福の遠吠えが空へと響き渡った。深山を揺らすその遠吠えは、まるで山全体が喜び歌っているかのようであった。


 さらに町中では、待望の跡継ぎ誕生の報せを受けた領民たちが広場に集まり、手に手に酒樽や料理を持ち寄って大歓声をあげた。



「領主様が無事にお子をお生みになられたぞ!」


「男の子だ! ベイス=アルカの新たな光だ!」


「宴だ! 今夜は朝まで飲むぞーっ!」



 町も、館も、人間も、魔犬も関係ない。


 ベイス=アルカ全体が歓喜の渦に包まれ、昼夜を問わぬすさまじい大宴会が数日間にわたって繰り広げられた。


 賑やかな宴の賑わいが遠くから聞こえる静かな夜。


 エレアノーリエとノランは、すやすやと眠る我が子の小さな手を優しく包み込みながら、静かに寄り添い合っていた。


------------------------------


 それから三年の月日が経ち、赤子はすくすくと育っていった。



「いいかい、アスタ。モルガナ様は、お父様とお母様にとって世界で一番大切な師匠であり、君の命を救ってくださった大魔女様なんだよ。君を会わせるのは産まれてすぐの頃以来だから、ちゃんとご挨拶をしようね」


 山の上の館へと向かう馬車の中で、父ノランが何度も聞いた話を優しく噛み砕くように語りかけた。



「はい、ちちうえ! ぼく、ごあいさちゅのれんしゅう、いっぱいちたよ!」



 3歳になったばかりのアスタは、仕立てのいい小さな濃紺の服の裾をぎゅっと握りしめ、背筋をぴんと伸ばした。隣に座る青みがかった子魔犬のシオンが、アスタの緊張をほぐすように「すり…」と頭を膝に乗せてくる。



「ふふ、アスタ。練習通りで大丈夫ですよ。肩の力を抜きなさいね」



 向かいに座る母エレアノーリエが、愛おしそうにアスタの前髪を整えた。



 ノランとエレアノーリエにとって、今回モルガナへ息子を連れて行くのは、単なる顔出し以上の意味を持っていた。物心ついた未来の領主を、この地を永劫に守るであろう大魔女へお目通ししておくのだ。



「ええとね……こーどりあのりようしゅの、むすこの……あしゅた=べいす……あ、ちがう、こーどりあでしゅ!』」



ぶつぶつとつぶやきながら、短い指を折って挨拶の口上を確認するアスタ。



「あはは、アスタ、名前が混ざっちゃっているよ」


「まあまあ、ノラン様。一生懸命でかわいらしいではありませんか」



 ノランとエレアノーリエは顔を見合わせ、微笑ましく目を細めた。しかし当のアスタは至極真面目だ。シオンに向かって「チオン、ぼく、じょうじゅにいえるかな……?」と不安そうに尋ねると、シオンは低く優しく鼻を鳴らした。


 馬車が止まり、エレアノーリエが転移の魔法をかけると、重厚な扉が開かれた。


 足を踏み入れたのは、静寂とハーブの香りが心地よく漂う、山の上のモルガナの館である。


 ホールを抜け、執務室の前に立つ。ノランがゆっくりと扉を叩いた。



「モルガナ様。ノランとエレアノーリエです。息子の『アスタ』を連れてまいりました」


「入りなさい」



 室内から届いたのは、鈴を転がすような鈴やかな、けれど底知れぬ重厚感を秘めた幼い少女の声だった。


 部屋の中央、黒檀の机に向かって腰掛けていたのは、見た目は10歳ほどの黒髪の少女――不老の大魔女モルガナ=コードリアであった。その瞳は、深遠な琥珀色をたたえ、人間という種の数百年分の歴史を見通すかのような静謐な光を宿している。



(わあ……!)



 アスタは思わず息をのんだ。


 自分より少しお姉さんの少女の姿。しかし、彼女の身を包むのは、肌がピリピリと震えるほどに濃密で、けれどどこか温かな「本物の魔法」の気配だった。



「お時間いただき、ありがとうございます。モルガナ様」


「ふふっ、畏まってお会いするのもなんだかこそばゆいですわね」



 ノランとエレアノーリエが声をかけると、モルガナは手元の魔導書をそっと閉じ、二人へ柔らかい視線を送った。



「いらっしゃいノラン、エレアノーリエ。……で、そちらがあの時の『小さな命』かしら」



モルガナの琥珀色の瞳が、ノランの足元に隠れるように立っていたアスタへと向けられた。



「――っ!」



 大魔女の視線と真っ直ぐにぶつかった瞬間、アスタの心臓がトントンと大きく跳ねた。



(い、いわなきゃ……ちちうえとははうえと、いっぱいれんしゅうしたごあいさつ……!)



 アスタはごくりと唾を飲み込むと、ノランの陰から勇気を振り絞って一歩前へ踏み出した。相棒のシオンも静かに寄り添い、アスタの背中を支えるように並び立つ。


 アスタは短い腕を一生懸命に動かし、母エレアノーリエから習った「王家流の最敬礼」を真似て、小さな身体を折り曲げた。……が、角度を深く深く倒しすぎて、バランスを崩しそうになり「おっとっと……」と足をバタバタさせた。


 「あ……」とノランが手を差し伸べそうになったが、アスタは自力で持ち直し、胸を張ってモルガナの正面に立った。



「お、おはちゅにおめにかかりましゅ……! もるがなしゃま……!」



 声が裏返る。アスタは真っ赤になりながらも、一言一言、かみ締めるように言葉を紡ぎ始めた。



「ぼ、ぼくのなまえは……あしゅた=こーどりあでしゅ……! ノ、ノランちちうえと……え、エレアノーリエははうえの……むすこ、でしゅ……!」



 モルガナは眉をひとつ動かさず、静かにアスタの言葉を待っている。その沈黙が緊張を煽り、アスタの頭の中の「練習メモ」は一瞬で吹き飛んでしまった。



「ええと……まじょさまに、ごあ、ごあいさつに……ちました……! ぼくは…えーと、えーと……っ」



 言葉が詰まる。焦れば焦るほど舌が回らなくなっていく。



「……っ、……りっぱな……『りようしゅ』に……『まほうちゅかい』に……なりましゅ……っ!!」



 支離滅裂になりながらも、最後はキュッと大きな目を限界まで見開き、胸の前でぎゅっと拳を握りしめて叫ぶように言い切った。



「……ごあいさちゅ……いじょうでしゅ……っ!」



 言い終えたアスタは、ハァハァと肩で息を吐きながら、真っ赤な顔を伏せてしまった。



(うう……ちちうえのおなまえも、ははうえのおなまえも、うまく言えなかったよぅ……)



 あまりの不甲斐なさに涙が目元に浮かんできたアスタ。横で見ていたノランとエレアノーリエも、ハラハラしながらモルガナの反応を見守っていた。


 その沈黙を破ったのは、モルガナの口から漏れた、静かな吐息だった。


「……ふ」


 モルガナは黒檀の椅子からふわりと降りると、小さな足音を立ててアスタの前へと歩み寄ってきた。


 思わず身をすくめるアスタ。


 だが、目の前に立ったモルガナが伸ばした手は――アスタの柔らかい栗色の髪を、とても優しく、愛おしそうに撫で下ろした。



「ふふっ…あははっ!可愛い!なんて可愛いのかしら!」



 先程とは打って変わったモルガナの様子にアスタはきょとんとした顔をつくった。



「立派な『領主』に、『魔法使い』になるのね?この父と母をもった貴方なら、きっとなれるわ。……くっふふ、それにしても、幼子とはこれ程可愛らしかったかしら?ーーー私のことは『おばあちゃま』でもいいのよ?」


「『おばあちゃま』?」


「あ、アスタ?!それはやめておこう!」



 10才の見た目の師匠を、息子が『おばあちゃま』呼びする、その混沌を避けるため、ノランは慌てて止めに入った。


 ひとしきり笑ったモルガナは、再度アスタに向き直って小さな手を握り、満足げに告げた。



「三つでここまでの姿を見せられるなんて、上出来じゃない。アスタ、これからはいつでもこの館へいらっしゃいへ。…シオン。貴方も、良い相棒を選んだわね。この子を…アスタを、頼んだわよ」


「ワオンッ!」



シオンは誇らしげに胸を張り、力強い遠吠えを一声上げた。


モルガナの温かい手の感触に、アスタの緊張はすっかり吹き飛び、とびきりの笑顔が弾けた。



「……そうだ、せっかく来たのだから、美味しいお菓子でも食べなさい。ミルカが作ったクッキーがあるのよ」


「わぁ! おかち! たべるー!」


「ふふ、さっきまでの緊張はどこへ行ったのやら……」



 ノランが可笑しそうに笑い、エレアノーリエも優しく頬を緩めた。


 かつてすべてを失い、絶望の淵から歩み始めた大魔女の館に、またひとつ、新しい光と温かな笑い声が満ちていく。小さな手と手が繋いだ絆は、ベイスの街の明るい未来へと、静かに紡がれていくのだった。




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