第1話 記憶を探る
開け放たれた木製の窓から差し込む陽光の眩しさと温もりで、私は目を覚ました。
木造の建築物らしい天井が視界に入り、ゆっくり視線を巡らせると、枕元で椅子に座っていた少女が私を見て声を弾ませる。
「――アルガ!目が覚めた?気分はどう?」
寝起きでまだぼんやりした意識の私は、少女の言葉が私に向けられたものだと理解するのに数瞬かかる。
そして、出会ったことのないはずの少女なのに、なぜだかその顔には見覚えがあるような気がして、私は混乱しつつも呻きながら身じろぎした。
起き上がろうとするが、頭がガンガンと痛み、身体に力も入らず、少女が私の背に手を添えて介助し、私は上体を起こす。
戸惑っている私に、少女は持っていた木製の水差しからコップに水を注いで差し出した。
「はい、水。喉渇いてるでしょ?」
ありがとう、と声にならない掠れた声を出し、それを受け取って口に運ぶ。そして唇と喉を潤しつつ水をゆっくり飲み干して一息つき、私は傍の少女の姿をまじまじと眺めた。
髪は肩の上で毛先が切り揃えられたボブカットで、大きな目や小ぶりな鼻、微かに見えるそばかすが純朴であどけない愛らしさを感じさせる。
「ここは……」
私は呟いた。
「共和国の外れの森にあるお屋敷。そうだ、テオくんたちも呼んでくるね。アルガが1週間眠ったままで、みんな心配してたから」
少女は水差しを椅子の上に置いて椅子から立ち上がり、スカートの裾を翻して部屋を出ていった。
私は事態を把握しきれていないまま部屋を見渡した。部屋の内装は極めて簡素だ。屋根も天井も床も、屋敷の建材らしき木材が剝き出しになっている。床に敷物はなく、ベッド一台と椅子一脚以外の調度はない。壁にしても、開け放たれている小さな板戸の窓が二つあるだけだ。
何か……何か情報は……。
両手で顔を覆い、ギュッと目を閉じて思案を巡らせている内に、ふと、少女が私に向けて言った名前を思い出す。
アルガ?
私はそんな名前ではない。
ハッと自分の手を見る。
掌の広さや厚み、指の形も長さも、よく見知った自分のものとは違う。指は少し太くて、爪も短く丸めだ。
手で自分の顔を触ってみても、鼻や顎、耳の形が違うように思えるし、何より髪が短い。自分で自分の髪が見えない長さなので数本髪を抜いて見てみると、癖があり緩やかに曲がった黒髪だった。私の髪色や髪質ではない。
ふと思いつき、やけに重い体を何とか動かして、少女が置いていった水差しからコップに水を注ぎ、水面に映った自分の顔を見た。はっきりとは見えないが、やはり死ぬ前の私自身の顔ではない。癖毛であどけない顔立ちの、普通の人間の少年のようだ。
そうか、これがアルガか。
しばしその顔を見てから、自分のものではない顔を自分の視点で見続ける嫌悪感と不安感に耐えられず、私は目を瞑ってまた一気に水を呷ろうとし――
――死ぬ前の私?
コップを口元に運ぼうとした手が凍りついたように止まり、暴風のように荒々しい混乱と思考の奔流が、意識の内に立ち込めていた霧を荒々しく引き剥がしていく。
そう、そうだ……私は死んだことがある。
そして、この部屋以前の記憶で、鮮明に思い出せる最も新しいものが脳裏を過ぎる。
身動きが取れないほどの人でごった返していた、満員電車の車内の光景だ。真夏の朝で車内には冷房がついていたが、乗車直後の乗客たちから発せられた熱と湿気、混ざり合った体臭や香水、整髪剤などの臭いに吐き気を覚えながら吊り革に掴まっていた。
着ているワイシャツやビジネス用のスカートが自分と他人の汗で湿っていて、気色が悪い。窓に映る自分の姿は、ザ・33歳のくたびれた独身女性会社員の姿そのものだ。
だが、途中で電車がこれまでに経験したことのない揺れ方をし……まるで車体が空中に放り出されたかのように全体が回転し始め、空間ごと他の乗客ごと空間が捻じれ、崩れ、色褪せ、引き千切られ、蝕まれ、そして――それに巻き込まれた記憶の直後、次に目が覚めた時はこの部屋にいた。
そしてさっきの少女が呼んだ「アルガ」というのはこの肉体の持ち主の名前なのだろうが、私はアルガではない。私は死んだはずの身だが、なぜか私の意識――人格がアルガの肉体に宿っているらしい。
他の人格が共にあるような感覚はないということは、アルガの人格が消えているか、上書きのような形で私がこの身体を奪ってしまったようだ。
気になることは山ほどあるが、まずは、私が今ここでこうして動かしている肉体が生きてきた、アルガの本来の人生を知らなければならない。そうでなければ、自分が取るべき行動の判断も、これからどんな事態が起こり得るかの推測もできない。
額に両手の爪を立てた痛みと手の温度を脳に潜り込ませるようにして、か細い蜘蛛の糸でも指で巻き取るかのようにそろそろと記憶を手繰り、意識を過去に遡らせる。
この肉体の持ち主はアルガという名前で、先ほどの少女と知り合いだった。それと、テオと呼ばれる人物がいて……そう、ミヤだ。あの少女はミヤという名前で、アルガはギオクルス共和国という国の学校で知り合った。テオというのは、テオフィリウス・ライエンクルスというアルガの親友の愛称だ。
芋づる式に次々と、アルガという少年の記憶が蘇っていく。
自身の記憶ではないのにまざまざと実感を伴った記憶が脳内を濁流のように駆け巡り、私は酩酊感を覚える。
また頭痛がしてきて、私は水を飲んだ。それで少し痛みが和らいだことからして、頭痛の原因の一つは脱水症状だったのかもしれない。
その時、部屋の外が慌ただしくなり、人の話し声や足音が近づいてきたかと思いきや、「バァンッ!」という激しい音と共にドアが開け放たれた。
「アル、目ぇ覚めたって!?」
戸口には、長身で短髪の青年が立っていた。その体躯からは溌溂とした活力と洗練されたしなやかさが発せられている。大らかであることと知性が共存可能だとその身そのものが証明しているかのようだ。リネン製らしきチュニックとブレー、革のベストを身に着けている。
テオフィリウスの登場の勢いに驚きつつも、私はどうにか応じる。
「うん、ついさっき……久しぶり、テオ」
私が今しがた思い出したばかりの記憶を頼りに、慎重に言葉を選びながら言うと、テオフィリウスは大股で部屋に入ってきながら快活に笑った。
「ああ、3年振りだな。背ぇ伸びたみたいだけどひょろっひょろじゃん。ちゃんと飯食ってた?」
「一応はね。テオは……テオも、ちょっと背が伸びた?」
「まぁな」
「アルガ、気分は大丈夫?さっきよりマシになった?」
戻ってきたミヤが私に言った。
「体力とか筋肉落ちてるみたいだから、無理しちゃダメだよ」
「何よ、病気でもしてた訳?それともどっかに引きこもってたとか?」
ミヤに続いて、長い髪を後頭部で編み込んで一纏めにした少女が部屋に入ってきた。ミヤより背が高く、テオと同じようにチュニックとブレーという男物の服装だ。その釣り目が、勝気そうな印象を見る者に与える。
彼女もアルガの記憶にある。確かルキエッタという名前で、ミヤやテオフィリウスと同じ学校に在籍していて、年齢も二人と同じなので16歳――いや、先ほどテオフィリウスは最後に会ってから3年と言っていたので、今は19歳か。
そしてアルガが13歳の誕生日を彼らに祝ってもらった時の記憶があるので、この身体は16歳なのだろう。
「身体は資本ですから、もっと健康には気をつけなさいな、アルガ」
癖のある金髪を両肩の前に垂らしてそれぞれリボンで括った小柄な少女もやってきて言った。
彼女はネリアンナ・ベッテンバンデルク。テオフィリウスたちと学校で同期だが、彼女は推薦だとかで飛び級をしていて、テオフィリウスたちより2歳下らしい。ミヤのスカートとは異なり、刺繍が入ってやや豪華な赤のスカートを穿いている。
「アンタも大概不摂生じゃない。ここ1週間は食っちゃ寝してばっかの癖に」
ルキエッタがネリアンナの脳天からつま先まで見て言うと、ネリアンナは憤慨した。
「そっ、そんな牛か猫みたいな真似はしていませんわ!」
「そう言われると牛や猫の方がマシね。猫は料理しようとして厨房を爆破しないし」
「爆破はギリギリ未然に防いだでしょう!?あなたこそこそ、ガサツで粗暴でアバウトでしょうに!」
「ネリちゃんそれ全部同じ意味」
ミヤが苦笑する。
そんな彼らのやり取りを見つつ、私は気になっていることを尋ねた。
「みんなどうしてここに?……というか、ここがどこかもまだよくわかってなくて……ミヤからは、共和国の外れの森って聞いたけど」
私が尋ねると、ミヤ、ルキエッタ、ネリアンナがテオフィリウスを注視し、テオフィリウスは困ったように首を掻いた。
「あー、俺らは言われるがままに来ただけで、正直事情もよく知らねぇんだけど……その前に、まず確認しろって教授から言われてることがあるんだ」
「教授って、ノエナのこと?」
「ああ。俺、卒業してからあの人の助手やっててな」
ノエナというのは、テオフィリウスたちが在籍していた学校の教授だ。アルガは生徒ではなかったが、一時期その学校におり、ノエナが関わっている研究にアルガも参加していた。
「『樹の名前は?』。これが教授からの質問だ」
樹。
その単語だけで、ノエナが言わんとしていることはおよそ伝わった。
私は、アルガ本人の記憶の中から1つの単語を引っ張り出して告げる。
「世界樹――でいい?」
「合ってる。よかった、問題なさそうだな!」
テオフィリウスは笑顔で頷いた。しかし、ノエナに指示された通りの手続きをしただけのテオフィリウスには手厳しいようで申し訳ないが、その反応は見当外れだ。
ノエナはアルガの肉体に宿る人格がアルガ本人のものか、もしくは記憶障害が出ていないかなど確かめたかったのだろう。しかし現に、私はアルガではないにも拘わらずアルガの記憶を思い出せている。ノエナには想定外のイレギュラーが発生したからかもしれないが、それでも本当にアルガのことを想うなら、もっと強硬な手段で確認すべきだった。
とはいえ、今ここですぐ私のことを明かしたところで、私を含め全員に不利益が生じるだけだ。まずは順番に、自然に現状の情報を探らねばならない。
「――で、世界樹って何だ?」
テオフィリウスが惚けた口調で私に聞くと、ルキエッタが呆れたようにため息をついた。
「自分で聞いた癖して、テオフィリウスも知らないの?」
「教授に聞いたけど、全然答えてくれねぇんだよ。機密がどうだの言って」
「あの方のことですし、説明するのが面倒なだけではなくて?」
ネリアンナが言った。
アルガの記憶によると、ノエナは教授でありながらかなり無精な性質のようで、講義や私生活などはいい加減で投げやりだったようだ。そのせいか、こういった報告や説明の場において生徒たちからも辛辣な苦言を呈されることが多い。
「いや、実際に機密だからだと思うよ」
私は、ノエナをフォローするためではなく、アルガの記憶を辿った所感を率直に述べた。
「深入りすると迷惑がかかると思う。知らない方がいい」
「あのなぁ」
テオフィリウスがため息をついた。
「迷惑を気にしてたら、そもそもこんなとこまで来てねぇよ。だろ?」
テオフィリウスが言うと、ルキエッタが肩を竦める。
「そもそも、もうその機密とやらに関わったアンタと一緒にいるのよ?引き返せないでしょ」
「知ってても知らなくても、アルガのためにすることは変わらないしね」
ミヤが頷いて言い、ネリアンナも応じる。
「えぇ。今となっては、中途半端に事情を知らない方が却って危険ですわ」
「――だってさ。教えてくれよ。俺たち仲間だろ」
「……わかった。じゃあ話すよ。オレたちが関わってた、世界樹計画について」




