7 選ばされた意志
火は、音もなく燃えていた。
春だというのに、暖炉には夕刻から薪がくべられ、今も赤い炎が揺れている。
灰の中に混じる羊皮紙。その端が、枯れ葉のように黒く丸まっていくのを大公は見つめていた。すでに印章は崩れ、文字も判読できない。しかし、そこに書かれていた文字たちは、今も彼の耳に囁いている。命令も、沈黙も、言葉にならなかった後悔も。
あれが、すべての始まりだった。
あの日、大公はイーグレン回廊にいた。敵を前にして。
矢は雨のように降り注いでいた。金と藍の旗、アヴァランデの色を掲げた、その下から。
そのときはまだ、なにも知らずに。
金の髪が、赤く染まっていくのが見えた。
あのとき、振り返った瞳――青紫の、絶望の色を湛えた目が、ただこちらを見ていた。
十八。
まだ十八だった。
その朝、肩紐を結んでやったばかりの、未完成な鎧。
少し緩い鎧に「もう少し太ればいい」と笑った声が、耳の奥に残っている。
あれが、彼にとって最初で最後の戦だった。
その若さで、最初の戦が、最期となった。
命令が届いたのは、まさにその最中だった。
退け――そう、王は言った。
平和を選び取るために、と。
息子の血がまだ温かいうちに、背を向けろと。
何もできなかった。
仇を討つことも、死地にとどまることも許されず。
命令に従うこと以外は、なにも。
……あの男の。
兄であり、この国の王である男の命令に。
火の奥で、パチ、と乾いた音がした。
その揺れの奥に、金の髪がちらつく。青紫の瞳が、何も言わずにこちらを見ている。
それは息子の記憶か、それともあの娘の面影か……もはや、どちらでもよい。
アヴァランデの王女。陽を孕む金の髪、あの青紫の瞳――
まるで、もう戻らぬ者の影を映したかのような娘。
あの娘が、あの瞳で笑っているのが、耐えられなかった。
もう二度と笑うことのない者がいるというのに。
同じ色の目が、何も知らずに、何も失わずに、金色の光の中で微笑む……そのこと自体が、許せなかった。
胸の奥で、古い傷が開く音がした。そこからにじむ血が、熱を持つようだった。
きっとこの偶然は、計画を成すために与えられたものだ。
そう思えば、迷いは消えていった。
王とは、何者なのか。
民を導き、剣を持って国を守る者。それが、かつてのベルカナスの王であったはずだ。
だが、今の王は違う。長子として生まれた、ただそれだけで王位を得た男。書物に囲まれ、綺麗事を口にし、平和を選んだと悦に入る。選んだのではない。怯えただけだ。剣を怖れ、血に背を向けて。
それで王と呼べるのか。
私には、臆病者の顔にしか見えぬ。
命を賭して戦った者たちを、あの男は命令ひとつで踏みにじった。
血の重さも、痛みも知らずに。
ならば、見せてやる。
あの日、命がどんなふうに潰えたのか。
今度は、その目で。
あの命令の代償を、あの男自身に払わせる。
息子の命が消えたあの日を、あの矢の音を、あの瞳を終わらせるために。
これは王座のためではない。
あの男に、逃げ場などないと知らせるためだ。
痛みも、喪失も、剣を置いたあの日から目を逸らしてきた代償を――今度は、自らの血で払わせる。
使える駒はある。
己の価値を証明したくて、私に縋った哀れな甥。
あの男の中には、踏みにじられた自尊心がまだくすぶっている。
ならば、煽ってやればいい。自ら燃え尽きるまで。
アヴァランデの王女、ベルカナスの王子、セヴレインの王族。
役者は揃った。
火がつけば、あとは転がるだけ。
あの、娘を愛する国王の耳に届けば、激昂は避けられまい。
戦の火種には、十分だろう。
私が火を点けたと知る者などいない。
誰の手によるとも気づかぬまま。
混乱を鎮める者として軍を握り、宮廷を握り――
そして、あの男を引きずり下ろす。
それでいい。
玉座など、とうに空虚な殻にすぎぬ。
欲しいのは、あの日の痛みを、あいつ自身に刻み返すこと。
私たちの時間を終わらせるために。
大公は目を細めた。
灰の中に沈んでいくその紙片は――息子を葬った、あの日の色だった。
風が、やたらと強く吹く日だった。
ベルカナス王都の西側、重厚な石造りの大公邸は、王宮に次ぐ規模を誇っていた。
城塞のように堅牢な造り。外観は無骨で、余計な装飾はほとんどない。その無機質な灰色の壁は「この家を敵に回すな」と語っているかのようだった。
邸内に入れば、広いはずの廊下でさえどこか息苦しい。窓は少なく、陽光も絞られ、遠く風の音だけが空間に満ちている。
ルートヴィンは従者を外で待たせ、案内に従って奥へと進む。
途中、邸内で出会う護衛たちは、全員、大公の私兵であることに気づく。無言の視線は鋭く、通り過ぎるだけで背に冷たいものが走った。
通されたのは、意外にも簡素な書斎。壁には一切の飾りがなく、重厚な机と椅子がひと組だけ置かれている。ここで交わされる言葉は、決して外には出ない――そう決められているかのような冷たさが漂っていた。
すでに部屋にいた大公は、机でグラスを傾けていた。その姿は静かで、しかしどこか奇妙な威圧感をまとっている。
音もなく扉が閉まる。
ルートヴィンが一歩を踏み出した瞬間、大公は低く、けれどどこか愉しげに口を開いた。
「よく来たな、ルートヴィン」
声が部屋に響く。
燭台に灯る小さな炎が、微かに揺れた。
「……お呼びですか、叔父上」
姿を現したルートヴィンは、低く一礼し、わずかに緊張をにじませる。
大公はグラスを傾けながら、何気ない口調で言う。
「……惜しい機会だったな、あの夜会は。もし、君がもう少し賢く立ち回っていれば……いや、今さら言っても詮ないことか」
いつもの大公らしくない、含みのあるその言葉にルートヴィンの眉がぴくりと動く。
「私は、必ず取り返します」
「取り返す、ね……何をだ? 地位か、名誉か。それとも……」
「すべてです。生まれたときから、私の人生を狂わせたもの、それをすべて取り返す」
その答えを聞いた大公は、ちらりと目を上げる。
「ほう、その割に随分と間が空いたものだ」
皮肉めいた声。
それでも、重くのしかかるような静けさは変わらない。
「君の“舞台”はまだ形になっていないようだな。あの王女がセヴレインに向かうのは、もうじきだというのに」
その声は穏やかなのに、抗えない力で押さえつけられているようだった。ルートヴィンは、顔を強張らせて声を絞り出す。
「旅程が、どうしても手に入らないのです。アヴァランデの情報は厳重で……」
「……まだ、掴めていないのか」
息をついて、大公はグラスを置く。それは風の音に紛れて、カタンと小さく鳴った。
「ならば教えてやろう」
大公は、深く椅子に身を沈めた。
「……イーグレン回廊だ」
なんでもないことのようにその名を告げる。まるで今日の天気を話すかのように。
ルートヴィンは目を見開いた。
「なぜ、それを……」
声がわずかに荒くなる。
情報の網をいくら張っても届かなかったはずの旅程。なぜ、平然とそれを口にできるのか。
嫉妬、恐れ、そして怒りが、喉の奥で渦を巻いた。
「知っていて当然だ。私が機会を与えているのが君ひとりとは限らない」
間を置き、口の端だけで笑う。
「私の気が変わる前に動くのだな」
ルートヴィンは何も言えず、拳を握りしめた。
ごう、と外で風が吹き荒れる。その音は、急かす鐘のようにも、刃の擦れる音のようにも聞こえた。
「王女が動く時期は限られている。これを逃せば二度と舞台は整わない――よく覚えておくといい」
大公は氷の底から響くような声で言い放つ。
「この前も言ったが、私は機会を与えるのみ。これは君自身の意思で決めることだ……いや、そうでなくてはならない。君の名で動くべきことだ。私が命じた、などと思われては困るからな」
「私の名で……」
「そう。アヴァランデの王女がベルカナスに狙われたなら……両国にどれほどの波紋が広がるか想像できるか」
ルートヴィンは、目を細めて叔父を見る。
「わかっています。ベルカナスの痕跡を残し、でも、叔父上の跡も私の跡も残さずに……」
「そうだな。“ベルカナスの誰かの仕業”に見えれば、それでいい。たとえ真相が不明でも、火は一度つけば、理屈も境も越えて燃え広がるものだ。民意など、理屈では動かぬ。敵の姿さえ描ければ、それで十分なのだよ」
大公は、指の先で酒を転がしながら続けた。
「真実である必要などない。“敵らしい顔”があれば、それで人は憎む。正義の名で剣を握るのは、常にそういうときだ」
グラスの中の酒がゆるく渦を巻く。その琥珀色の揺らぎだけが、時間の流れを告げていた。
「君は君のために動けばいい。だがその動きが、結果としてこの国を動かすのなら……それもまた運命というものだ。君がどう動くか、それを見ている者もいる」
「見ている者……」
ルートヴィンは、叔父の言葉をただ繰り返す。誰が――と問い返すことはしなかった。
「世は冷たい。だが、価値を示す者には道が開ける」
しばしの沈黙が流れた。ルートヴィンは唇をかすかに噛み、目を伏せる。
「私兵も軍も、私は動かさない。ただ静観するだけだ。それが、私の立場だからな」
大公は甥に目を向けると、口の端を上げる。
「そうだな……少しだけ、道は用意してやろう。あの者らの移動経路、警護の配置――君が動きやすくなるように」
その笑みの名残だけが、唇にかすかに残っていた。
「イーグレン回廊は中立地帯だ。警備も手薄にならざるを得ない。武力の許されぬ道で何かが起こるなど、神ですら想定しないだろう。中立とは、争いが見逃されるための仮面にすぎないからな」
「つまり、今の私には好都合ということですね? では、叔父上が詳細なご指示を?」
「……誤解するな、ルートヴィン。言ったはずだ。舞台は、与えられるものではなく、整えた者が立つものだと。君が自分で選び、自分で掴み取るのだろう?」
ルートヴィンはしばらく言葉を失った。
燭芯の、じりじりと音を立てる。
あれだけ吹いていた風さえ、彼の返答を待って息を潜めているようだった。
拳をゆっくりと握る。
マリエルの拒絶の目、王妃の嘲笑、母の蔑み、王宮の冷たい廊下に響いた足音までもが、消し去りたい記憶として胸に突き刺さる。
彼はまっすぐに大公を見据えた。
「もう、誰かの影に隠れるつもりはありません。私がやります」
「そうか……好きにするがいい」
大公は淡々とそう言い、もはや興味を失ったかのように酒に口をつけた。
「……ですが、ひとつだけ」
彼の挑むような口ぶりに、燭台の炎がひときわ大きく揺らぐ。その影は壁に長く伸び、まるで何者かが闇の中で息をひそめているかのようだった。
「私は、叔父上の思い通りに動いているつもりはありません」
静かに、しかし確かな意思を込めて。
大公はグラスに目を落としたまま、ふっと笑う。
「そのとおり……これは君が己で選んだことだ」
ルートヴィンは視線を落とし、何か言いたげに口を開いた。でも、結局無言でその場を下がっていく。
その背に何も告げず、大公はただ、グラスの中の琥珀を眺めた。
「……駒とは、自分で動くからこそ、都合がいいのだよ」
月の光は雲に隠れ、石畳の道はまだらな影を落とす。
馬車を降りると、ルートヴィンはコートの襟を立て、足早に歩を進めた。
遠く、どこからか馬のいななきが聞こえる。
誰もいないはずの狭い路地の奥で、何かが倒れる音がした。肩が震える。
振り返れば、走り去る犬の姿。安堵の息は、胸の奥で冷たく固まったまま戻ってくる。
今なら、まだ戻れるのかもしれない。
心のどこかが、そう囁く。
決めたはずなのに、それでも迷いは零れ落ちて彼の胸を濡らす。
でも、その囁きはすぐに別の声に押し潰された。
母の冷たい目、王妃の嘲り、王宮の長い廊下に響く靴音。
屈辱と侮蔑に染まった記憶が一斉に甦る。
戻りたくない。
頭を下げるだけの自分には、もう。
時間がない。
あの王女が出発するまで、あとわずか。
逃せば、次はない。
胸の奥で、見えない砂時計がひっくり返される音がした。砂がさらさらと落ちるたび、指先まで熱と冷えが交互に走る。
道の先、薄暗い建物の前に男がひとり、影のように立っていた。
ルートヴィンは無言で近づく。男は一度だけ彼を見やり、中へと歩き出した。
中には、計画を実行に移すための人間。
そして、もう後戻りできない現実。
ルートヴィンは、その敷居を静かに踏み越えた。
扉の先には三人の男たち。冷えた空気と張りつめた沈黙が、床板まで染み込んでいる。
壁には地図が整然と並び、木箱が積まれ、酒瓶ひとつ落ちていない。
金で動く寄せ集め。でも、素人ではない。
ほんの一瞬、足が止まりかける。
威圧感に呑まれたら終わりだ。
震える心を押さえつけ、胸を張る。たとえ張りぼてでも、今の彼に必要なのはそれだけだった。
「あなたが、例の?」
低い声が問いかける。
ルートヴィンは無表情のまま腰を下ろし、顎を引いて見返した。
「条件は伝えた。追加はない。この件は口外無用だ」
「……了解した。で、要点は?」
壁から広げられた地図には、擦れた赤い印が残っている。執拗になぞった跡のように。
「場所はイーグレン回廊。標的は、馬車に乗っている金髪の女だ。見ればわかる」
男たちは同時にうなずいた。瞬きの間隔まで揃ったその動きは、まるで誰かの手で組まれた同じ歯車のようだった。
「武器はベルカナス製を使え。ただし、出所は悟られるな。私の痕跡は一切残すな」
一人が短く頷き、もう一人が問う。
「人数は?」
「お前たちで決めろ。私は見届けるだけだ。ただし必要最小限に。目立ってはいけない。時間がない。準備を急げ」
一瞬、奇妙な沈黙が走る。
「……急げ、か。承知した」
機械仕掛けの返答。淀みのないその声は、聞く者をじわりと締めつける。
「いいか? ……もう一度だけ確認する」
赤い印に指先を置く。力が入りすぎ、紙が裂けた。ざらりと爪に残る感触。
「標的を確実に狙え。それ以外の血は極力流すな」
「了解」
一拍のずれもなく重なった返事は、妙に冷たく、異様に整っていた。
「忘れるな。狙うのは、あの国を燃え上がらせる火種だ。無意味な殺戮はいらない」
視線が交差し、無言の合図が交わされる。耳の奥で、何かがまた、かすかに囁いた気がした。
無言で頷く男たちを背に、ルートヴィンは椅子を立つ。胸に広がる違和感を振り払うように、強く息を吐いた。
彼らの目が、わずかに笑っていることには気付かずに。
建物を出た瞬間、夜の空気が鋭く肌を刺す。
本当に、こんな短時間でやれるのか。
心臓の鼓動がひとつ鳴るたび、頭の奥で砂時計がさらさらと音を立てた。
厚い雲で覆われた空を見上げる。容赦なく吹き付ける風の音が、あの男の声に重なる。
『好きにするがいい』
あの冷たい眼差し。棋盤の全体を最初から見透かしていたかのような、冷たい目……叔父上は、あんな人だっただろうか。
――本当に、信じていいのか。
頭上の雲のように、不安が低く垂れ込める。
そんな彼をあざ笑うかのように、胸の奥で誰かがささやく。風に紛れ、それが現実か幻かもわからないまま、次々と浮かび上がる。
『下がりなさい、と言ったわ』
『お前ごときが、この王家の名を名乗るなんて耐えられないわ』
『王子を産んだら安泰だと思ったのに……どうしてそんなに役立たずなの?』
王女、王妃、母。彼を必要としなかった声が、胸を抉る。
焼けるように熱くなったその胸の奥で、ひとつの言葉が固まる。
――今度は自分が見下ろす番だ。
もう叔父上は関係ない。これは私の計画だ。
誰にも望まれなかったこの名で、誰にも選ばれなかったこの手で。
自分で選び、自分で立つ。
舞台の中央に、必ず。
ルートヴィンは待っていた馬車に乗り込んだ。
砂利を踏む音とともに、車輪が夜を切り裂く。
その舞台の下で、刃が音もなく研がれていることを知らないまま。