6 ささやく闇
夜会のざわめきが遠くに霞む、石造りの回廊。
月明かりを遮る柱の陰で、ルートヴィンはグラスを傾けていた。紅色の液体が揺れるたび、彼の目元にも同じ色の陰が差していく。
「こんなところにいたのか」
振り返れば、そこには大公の姿。
ルートヴィンは軽く頭を下げる。しかし目は合わせない。
「……もうご存じなのでしょう? 私の今夜の“成果”を」
ゆがむ笑みに、プライドの裂け目がにじむ。大公は手すりに肘をかけ、愉快そうに言う。
「ああ。手厳しく振られたようだな」
その一言に、ルートヴィンの指がぴくりと震え、グラスの中のワインが波打つ。
「アヴァランデの国王から、『次はない』と“穏やかに”釘を刺されたよ。だが、あの目は怒りを超えていた」
「……それは、申し訳ありません」
その声音には反省の色は薄い。形だけの謝罪に、大公は苦笑する。
「謝る必要はない……だが、あの男が“公にはしなかった”理由を考えてみるといい。娘を溺愛する王が、ただの我慢で済ませると思うか?」
ルートヴィンの目が細まる。
「どうせ、二国間の関係を慮ったぐらいのものでしょう」
「ふん、それは表向きの話だ。本当に恐れたのはそこじゃない――国民の怒りだ」
大公の声がひときわ低くなる。
「あの王女の美しさは、国の誇りそのものだ。ひとたび傷をつければ、王どころかアヴァランデそのものがこちらへと牙を剥くだろう。あの男は、それを計算しただけだ」
ルートヴィンはため息混じりに笑い、グラスを手に、ゆっくりと肩をすくめた。
「はは、なるほど……少しだけ成果を焦りすぎたようです。べつに、あの王女である必要はなかったのですがね。ただ、あれほど整った条件が、ほかに見つかるとは思えなかっただけで」
口元に浮かべた笑みには、自嘲と未練が交じっていた。大公は「若さだな」と笑いながら首を振り、何気ない調子で聞く。
「――君の母上は、どうしている?」
唐突な問いに、ルートヴィンはわずかに目を伏せる。
「相変わらず、です。王妃から予算を減らされたらしく……このあいだも、馬車を買い替えろと騒いでいましたよ。どこぞの伯爵夫人の自慢が癪に触ったようでしてね」
鼻先で笑いながら答える。でも、そこには疲労の色がにじんで見えた。
「金など、湧き出てくるものとでも思っていたんでしょう、あのご側室さまは。あの人はもう、父にすら顧みられていないのに……いや、顧みられていないのは、あの人だけじゃない……か」
小さく、グラスを指で弾く音が響く。
「そうか……兄上も義姉上も酷なことをなさる。だが、君の母上もまだ、昔の栄光から抜け出せずにいるようだな」
「ええ。けれど、それを支えるのはいつも私……いや、最近はもっぱら叔父上ですかね。今日の、この衣装だって……それに、せっかく叔父上が周囲を説得して、ここへ連れてきてくださったというのに。肝心の“成果”がこれでは……面目ありません」
ルートヴィンの声にかすかな棘が混じる。その言葉が、今の焦燥の根にあることを、大公は察した。
「この程度、気にしなくてもいい。だが……君はこのままでいいのか?」
ルートヴィンに向き直り、目の前の甥をまっすぐに見つめる。ルートヴィンは、その目を伏せた。
「……あの王女は、私の“足りないもの”をすべて持っていました」
「足りないもの?」
「生まれた瞬間から愛され、誰からも選ばれる未来、そして……名誉と富。彼女を得られれば、私は“誰かの影”で終わらずに済むと思った」
その声は、静かなのに刺すように鋭い。
ルートヴィンは、ゆっくりとワインを一口含むと、その渋みに顔を歪める。
「私は生まれた時から、誰にとっても“ただの汚点”にすぎない。王妃からは蔑まれ、兄上からは笑われ、母親にすら愛されない。不用品なんですよ。きっと一生……」
グラスを指で弾き、小さく揺れる赤い水に目を落とした。
「わかっているんです。誰も私を選ばない、そして私も誰も選んではいけないってことくらい。あんな遠くにある花を求めるのは、滑稽だっていうことも……だけど、それでも……」
グラスの脚を握る指先には、白くなるほど力が込められる。
「それでも、私は選び取りたかった。誰かを――あの王女を。そして、誰かに必要とされる自分を、たった一度でも見てみたいと思ったんです」
大公はその様子を、楽しげに目を細めて見ていた。
「……選び取りたかった、か」
大公はその言葉を反芻するように微笑む。
「選ぶという行為は、時に運命を越える……それゆえに難しい。だが、その困難に敢えて挑もうとする者に手を差し伸べるのも、また悪くはない」
そして、静かにささやく。
「私が君に、その機会を与えてやってもいい」
ルートヴィンは、目をすがめて叔父を見る。
「機会……?」
大公はゆっくりとうなずく。
「君にも、ちゃんと力がある。容姿、知性、血筋という力が。だが……」
大公はルートヴィンに一歩近づき、静かに告げる。
「勝つためには、“選びとれる”場を整える胆力がいる。君は今、敗者の席にいるのかもしれない。だが、それは立つべき舞台を誤っただけのことだ」
グラスの中の液体が、ひときわ大きく揺れた。
「……ならば、叔父上がその舞台を整えてくださるとでも?」
挑むような口調に、大公は満足げに笑みを深める。その目に宿るのは、血のように赤い野心。
「あるいは君自身の手で、整えることもできる。わずかな綻びだけで幕は落とせる。そうなれば、世論はたやすく傾く。君自身の重さも、変えられる」
ルートヴィンはその言葉の意味を咀嚼するように、沈黙のままワインを一口含む。そして、低く呟く。
「幕、ですか……」
「そう。幕が落ちれば、次の主役が必要になる。大義は、いつだって演出次第だ。そして、君にはその舞台に立てる可能性がある……国の中央という舞台にね」
ルートヴィンは目を見開いた。
「叔父上、まさか、それは……」
大公は軽く肩をすくめ、口元にだけ笑みを浮かべる。
そこに潜むのは獣の吐息。ルートヴィンは、確かにそれを嗅ぎ取った。
「私には息子がいない。だが、この国を動かす座を継ぐにふさわしい者がいるとしたら……」
その視線は、まるで答えを告げるかのように、ルートヴィンを射抜く。
ルートヴィンは息を詰め、叔父の瞳に宿る光を見返した。
「私に、その資格があると……?」
「それは君次第だな」
大公はさらりと答え、グラスを一息に空ける。
「舞台は、与えられるものではなく、整えた者が立つものだ。例えば……あの未来を信じて疑わない花に、現実の厳しさを教えてやるのはどうだ?」
彼の口から静かにこぼれたその一言は、まるで闇の奥底から湧き上がった呟きのように、暗い気配を帯びていた。
ルートヴィンは黙ってうなずく。胸の内の鈍い熱は、その影の奥でじわじわと形を成しつつあった。
夜はさらに深まっていく。
燭台の赤い炎が、壁に落とす影を濃く染めていた。
あの夜会の残響が、まだ宮殿の片隅に薄く漂う頃。
マリエルのもとに、セヴレインの姉から一通の手紙が届いた。
指先で封筒の縁を撫でると、なめらかな紙の感触が、どこか晴れやかな朝の気配と重なる。
やっと二人目が生まれたの。かわいい女の子。
名前はエメリーヌってつけたわ。
レオナールも息子もとても喜んでいて、
娘のそばをぜんぜん離れてくれないのよ!
あなたにも早く会わせたいわ。
姉の朗らかな筆跡を追いながら、マリエルの顔は自然とほころぶ。
「すてき! わたしもお姉さまと赤ちゃんに会いたいわ!」
それは純粋な喜びから出た言葉。でも、この何気ない一言が思いもよらぬ重みを持つことになるとは、まだ気づいていなかった。
三日後、マリエルはオルヴァンに呼ばれ、王宮の廊下を進んでいた。春の朝日は柔らかく、少し肌寒さが残っている。静けさに包まれながらも、何かの予感に彼女の胸は高鳴った。
書斎の扉を開けると、父王は窓辺に立ち、外を見ていた。肩に淡く光が落ちている。
「……来たか、マリエル」
一礼する娘に、オルヴァンは穏やかな笑みを向けた。
「ミレイナの知らせ、喜んでいたそうだな」
「はい。お姉さまがお元気そうで、ほんとうによかったと思います。赤ちゃんにも、ぜひ会いたいわ」
父は軽くうなずく。そして、静かに言葉を継いだ。
「その“会いたい”という気持ちを活かそう――マリエル、おまえにはセヴレインへ行ってもらう」
「……わたしに? ひとりで、ですか?」
マリエルは、思わず聞き返す。
国内の式典や行事には幾度も出席してきた。国外への単独での公務――しかも、国を代表して。それは、彼女にとって初めてのことだった。
「わたしに務まるでしょうか……」
不安というより、正直な戸惑い。
「できる、と儂は思っている。第一、行き先はおまえの姉だ。肩肘張る必要はない……だが、これは紛れもなく正式な祝賀使だ。アヴァランデの王女として恥ずかしくない姿を見せる必要はある」
マリエルは、小さくうなずく。でも、すぐには答えられなかった。
誇らしい。とても。
だけど。
怖くない、と言えばきっと嘘になる。
国の顔になるということ、それは自分の言葉が外交になるということなのだから。
オルヴァンは、ふと思い出したように窓の外に視線を向けた。
「おまえの母も、一度だけ同じようにセヴレインを訪れたことがあった」
「……え?」
マリエルは、思わず顔を上げる。
「儂ですら反対した。当時は、隣国への警戒が根強く残っていたからな。王族の女性が単身で越境するなど、危うすぎた」
淡く差し込む光が、机の上に静かに影を落とす。
「だが、あの人は迷わず『行くべきだ』と言った。王族としてではなく、橋を架ける者として、未来のために歩くべきだと……」
静かな語り口の奥に、懐かしむような、少しだけ胸を痛めるような響きが宿っていた。
「……その姿を、儂は今も忘れられずにいる」
マリエルは、胸に広がるざわめきをそっと押しとどめた。
母の姿を記憶の中に探してみる。思い出をなぞるようにたどってみても、浮かぶのは穏やかな微笑みばかり。
知らなかった。お母さまがそんなふうに、自分の意志で国のために歩んだこと。
もし、お母さまもこの窓辺で外の光に目を細めていたのなら。そのとき見ていた景色の一部でも、この瞳に宿っているのなら。
わたしが今、ここに座っていることにも、きっと意味がある。
「だからこそ、儂はおまえにも務まると思う。あの人の血を継ぎ、想いを繋ぐのは誰でもない、おまえだ」
オルヴァンは、娘を見つめる瞳に笑みを深める。
「このあいだの夜会でも思ったが……礼節を忘れず、必要な時にはしっかりと自分の意思を通す。それができる人間は、そう多くはない。あのときのおまえは、まぎれもなく王女だった」
マリエルは、少しだけ目を見開く。
父の言葉は、揺るぎないものだった。
こんなふうに、自分を“ひとりの王女”として見てくれていると、初めて感じた気がする。
彼の瞳には、ただ家族としての温かさではない、確かな信頼が宿っている。
でも、信頼されればされるほど、不安は膨らむ。
もし失敗したら。期待を裏切ってしまったら。
王女としての務めを果たせるのか、怖くないと言えば嘘になる。
だけど――それでも。
その不安の先にあるもの。それをマリエルは確かに感じていた。
不安よりも、ほんの少しだけ強く灯る、名前のつかない、胸の奥に差し込むようなあたたかな感覚。
それは誇らしさに似ていて。
マリエルはほんの少し迷って、それでもしっかりと口を開く。
「……ぜひ、行かせてください」
胸の奥に広がるのは、不安よりも誇らしさだった。
まるで、自分という存在がひとつ、しっかりと立ち上がったような、そんな確かな感覚。
オルヴァンはうなずくと、机の上の書類に目を落とす。
「随行の人員は詰めてある。護衛にはデヴェレルを連れていけ。いつもの通りだ」
その名前は、マリエルの胸に春の陽だまりのようなぬくもりを広げる。
こんなに嬉しい、って思うなんて――
何より先にそう思った自分に、少しだけ戸惑う。
でも、同時にあの日の横顔がよみがえる。
青紫の花を見つめる静かな瞳の奥に、誰かを想う影を抱えている彼。
それは自分には向かない想い。
護衛騎士として隣にいることと、自分のためにそこにいることとは全く違う。
それはわかっているのに、心のざわめきは波紋のように広がって消えてはくれない。
これは、国のための務め。
そう何度も心の中で繰り返す。
歩き出す足は、しっかりと地に着ける。
彼への想いは、王女としての務めの陰に、そっと隠して。
それでも、胸の奥には淡い熱が消えずに灯っていた。