5 この気持ちの名前
ただ、逃げるように歩いた。どこをどう通ったのかさえ、思い出せない。
たどり着いた庭は、月明かりに照らされて昼とは違う静けさをたたえていた。整えられた生け垣の影が長く伸び、草花が淡く揺れている。
耳に届くのは、自分の呼吸と遠くに響く楽団の音だけ。
頬をなでる夜風に、ようやく息ができる気がした。
肺が広がっていく感覚に、マリエルは深く息を吸う。
けれど、胸の奥の重さはそのままだった。
……こんなにも、苦しいなんて。
苦しいのは、あの王子のせいか。
王女としての責任のせいか。
それとも……あの笑顔のせい?
彼の隣で、自然に笑えるあのひとの。
ただ、楽しそうに。
あんなふうに、髪を触れられて。
そして、彼に……触れて。
ふたりの笑顔が瞼の裏に焼きついて、どうしても消えてくれない。
夜風が肌を撫でるたび、心の奥の冷えが広がっていく気がして、マリエルは強く腕を抱く。
突然、風の流れが止まった。
草の揺れも、音楽の残響も、まるで波が引いていくように遠のく。
その静寂の中、背後から靴音が近づいてきた。
ゆっくりと振り向くと、薄暗い石畳の上にその姿が浮かび上がる。
「……姫。おひとりでの夜の散策は、危ないのではありませんか?」
その声は穏やかで、どこか心配そうに響く。
そこにはルートヴィンがいた。
彼の微笑は柔らかい。でも、その目はどこか冷えている。
「どうか、私を今宵のあなたの護衛に。美しさに引き寄せられた妖精が、あなたをさらってしまうかもしれませんから」
形の良い目を細めて、ふっと笑ってみせるその声音には、冗談めいた響きがあった。
けれど、マリエルの胸に広がるのは、得体の知れない不安感。
「……外の空気を吸いに来ただけです。すぐに戻りますから、ご心配には及びません」
声は努めて静かに、礼を崩さぬように。でも、胸の奥のざわめきは消えない。
濁った水のように、彼の存在が澄んだ夜気を曇らせていた。
「姫は、お気づきではないのですね。あなたの魅力が、妖精の心さえ迷わせることに……もちろん、この私も」
ぞわり、と背中をつたう寒気。足元から冷たいものが這い上がってくるようだった。それでも、同時に静かな怒りが心に広がる。
「……存じませんでしたわ。王宮で長く過ごしてまいりましたけれど、妖精を見たことなど一度もありませんもの」
目を逸らさず、皮肉を込めて応じる。
彼は、なおも歩み寄ってくる。ふたりの距離が、じわじわと詰まっていく。
一歩。さらに一歩。
男の靴音が、石畳の上に静かに響く。逃げ道を塞ぐように。マリエルはわずかに身体を引き、裾を踏まぬよう、そっと一歩退いた。
「……もし、私が妖精なら、あなたを誰も知らない場所へ連れていくでしょうね」
囁くように、低く、静かに続ける。
「そこは、誰にも見つけられない場所。あなたと私だけの、小さな楽園です。姫……あなたが心安らぐ場所が、私であることを願っております」
会話が噛み合わない。
笑顔で語られる言葉は、どこかで確実に歪んでいた。
心に積もった嫌悪感は、もう限界まできている。マリエルは息を詰めて、心の奥で呟いた。
誰かの顔色をうかがって、繕って、ただ笑ってやりすごすだけでほんとうにいいの?
気まずさをごまかすために、無理に頷くなんて、したくない。
それでも、怖い。
拒絶の言葉をぶつけることが、何をもたらすのか想像がついてしまうから。
それでも――
心の底に、静かに火が灯る。
わたしは、自分を裏切りたくない。
誰かの意志に流されて、大切なものを見失いたくない。
それが、どんなに小さな誇りでも。
心の奥で何かが、はっきりとした輪郭を持って立ち上がった。背筋が伸びて、マリエルは、ルートヴィンを真っ直ぐに見据える。
「……お下がりください、王子殿下。それ以上近づくなら人を呼びます」
凛とした声が、夜の静けさを裂いた。
一瞬、ルートヴィンの表情が揺らぐ。それでも、次には、わざとらしく眉を下げた男が、哀れみを装う声を落とす。
「……なぜ、そんなに冷たいのです、姫。わたくしは今、あなたのぬくもりだけが頼りなのに……」
言いながら、彼の手が彼女へと伸びる。
――パシッ。 乾いた音が、静かな庭に響く。 マリエルは、迷いなく、彼の手を強く払った。
「わたくしの許可なく触れてはなりません」
その声は静かに、でも確かに拒絶を刻んだ。
ルートヴィンは呆然とその手を見つめる。
「……っ、何を……!」
かすれた声が、男の喉の奥から漏れた。
「何をなさるのです、姫……!」
彼は払いのけられたはずの手を、さらにマリエルへと伸ばす。
「私は……私はベルカナスの王子だ……私を拒んでいいはずが……!」
言い終える前に、マリエルはその手をふたたび振り払った。
今度は、一切の迷いなく。
そして、男の目を見据える。
「下がりなさい、と言ったわ」
ルートヴィンは目を見開く。
次第にその顔が引きつって――
「……っ、貴様ぁ……!」
爆発するような叫びとともに、彼はマリエルの手首を乱暴につかんだ。その目は怒りに染まり、熱がにじむ。
無遠慮な手が、逃げられぬようにマリエルの手首をきつく握る。
「離しなさい……!」
爪が食い込むほどの力。ふりほどこうとしても、びくともしない。
「うるさい……うるさい、うるさいッ!」
吐き捨てるような金切り声が、夜の空気を裂く。
「下手に出ればつけ上がりやがって! 王女だからって何でも許されると思うなよ!」
もう、理性はどこにもなかった。額には血管が浮き、血走った目がマリエルを見据える。でも、焦点が合っていない。まるで、彼の目には別の誰かが映っているかのように。
「何が……何が王国の花だ、笑わせるな! 上品ぶって、気取って……貴様だって、どうせ、どうせ、あいつらと同じなんだろうがッ! 王族でいる以外に……っ、価値なんか……!」
喉を締め付けるような恐怖。冷えた夜気の中で、背中にじっとりと汗がにじむ。
誰か、お願い、誰か来て……!
マリエルの脳裏に浮かぶ、たったひとりの顔。
彼女にとっての、唯一の救い。
――エリオット……!
耳に届いたのは、規律を感じさせる重く確かな足音。
それは、彼女の世界でたったひとつの、心から安堵を覚える音。
主が誰かを、迷わず確信する。
祈りにも似た声が、自然と唇からこぼれた。
「エリオット……!」
名を呼ぶと、闇の中から彼が姿を現した。
彼は静かに歩を進め、マリエルとルートヴィンの間に立ちはだかる。
「……その手を、お放しください」
冷え切ったような静かな声。けれどその奥には、鉄をも溶かさんばかりの怒りが潜んでいる。
マリエルの手首を握っていた、ルートヴィンの顔が引きつる。
「貴様ッ! 誰に向かって口を聞いてると思ってる!」
憤怒と羞恥が入り混じった言葉が投げつけられた。
男の顔は赤く染まり、血走った目がエリオットをねめつけている。すると、何かに気づいたように、ルートヴィンの口が忌々しげにゆがむ。
「……ああ、聞いてるぞ、貴様のこと。こいつの護衛騎士だな? さすがは忠犬、鼻が効くものだなあ!」
その侮蔑に満ちた声に、マリエルの瞳が怒りで揺れた。
「黙りなさい!」
手の痛みも忘れて、ルートヴィンを睨みつける。
「あなたに彼を侮辱する資格なんてない! あなたなんかより、ずっと誇り高く立派な人だわ!」
ルートヴィンの目が大きく見開かれる。顔はもはや赤黒くなって怒気の色がさらに濃くなる。
「なんだと……?!」
男が小さく呟く。
マリエルの手首を乱暴に放すと、そのまま勢いよく振り上げた。
マリエルは、反射的に目を閉じる。
でも、衝撃はなかった。
恐る恐る目を開けると、エリオットが男の手首を掴んでいる。
その背中は、彼女を覆うように……まるで、世界のすべてから護る壁のようにそこにあった。
いつも見ているはずの背中。
だけど、なぜか胸の奥がざわめく。
知っている……そんな気がした。
言葉にならない、遠い昔の記憶が、彼の後ろ姿に重なっていくようで。
意識の深いところで、何かが息を吹き返す。
息が詰まって、涙があふれそうになる。
どうして、こんなにもこころが揺れるの?
こんなにも切なくて、苦しいのはなぜ?
「王子殿下。あなたには礼儀も、理性も残っておられぬのですか」
その声は、冷たく低い。怒りの深さを物語るように。
「なっ……放せ、この……っ!」
もがくルートヴィン。でも、エリオットの腕はびくともしない。そのまま彼はぐっと力を込め、男の身体をマリエルから引き剥がす。
足がよろめき、ルートヴィンはそのまま倒れ込んだ。
マリエルは、自由になった手を胸の前に引き寄せ、小さく震えながら後ずさる。
「……ご無事ですか、殿下」
エリオットが彼女を見上げる。
その目は穏やかだった。それでも、彼の手は、なおもルートヴィンの腕をしっかり押さえている。
「エリオット……」
吐息のようにその名がこぼれた。
それは、彼女の心を安堵で満たしてくれる。
「貴様ァ……ッ! 騎士風情が……!」
エリオットに押さえつけられながら、ルートヴィンは怒鳴る。
「こんなことをして、ただで済むと思うなよ! 私はベルカナスの――」
「……それゆえに」
エリオットの言葉が鋭く割り込む。
「今ここで止めなければなりません。国家間の礼節を弁えるべき立場のかたが、これ以上この国の王女にこのような振る舞いをすれば、国そのものの恥となりましょう」
ルートヴィンは、顔を真っ赤にして睨みつけることしかできない。
――カツン、カツン。
背後から聞こえる、規則正しい足音と甲冑のわずかなきしみ。
「……何をしている」
低く鋭い声が、夜の庭を凍りつかせる。
それは鋼のように冷ややかで、誰も逆らえない威厳を帯びていた。 マリエルが振り向くと、オルヴァンが衛兵を従えて歩み寄ってくる。マリエルの表情と、腕を押さえる仕草を見た瞬間、彼の目がわずかに細まった。
その表情は、理性で感情を封じた硬さを帯びている。けれど目の奥には、激しい怒りの色が確かにあった。
「無事か」
父の問いに、マリエルはかすかに頷いた。唇が乾いて、うまく声が出ない。
オルヴァンはすぐに衛兵に向き直る。
「王子をお連れせよ。丁重にな」
マリエルが、かすれた声で口を開く。
「お父さま……」
オルヴァンは、娘の言葉より先に静かにうなずいた。
「マリエル。おまえが気に病むことは何もない。あとは儂に任せておけ」
まるですべてを悟っているかのように。
衛兵がルートヴィンに近づくと、彼は忌々しげに舌打ちする。しかし、国王を前に逆らう気はないのか、無言のまま引き立てられていく。
オルヴァンはエリオットに視線を向ける。
「デヴェレル。娘を頼む」
「……はっ」
オルヴァンは、その返答にひとつうなずく。
一度だけ娘を見やってから、それきり背を向けると、重々しい足音を響かせて去っていった。
ようやく、あたりに静けさが戻る。
帰ってきた風が木々をそっとゆらし、石畳にその影を流す。
緊張の糸がほどけた瞬間、マリエルは膝がかすかに震えるのを感じた。
差し出される手が、その視界の端に映る。
「殿下、お部屋までお送りします」
変わらぬ静かで優しいその声が、心に響く。
顔を上げると、まっすぐに自分を見つめる穏やかな瞳。それは、空を舞う羽根のように、胸の奥の重みを解き放っていく。
気づけば一歩、また一歩……吸い寄せられるように足が動いて、彼の胸元に額をあずけていた。
そっと目の前の胸に触れると、彼の体がわずかに強張るのを感じる。
でも、拒まれてはいない。そう思えた。
しばらくして、ためらいがちに背に添えられる温かな手。
その指先は控えめに、でも、確かに彼女を安心させようとするものだった。
優しく包まれるような感覚に、思わず瞳を閉じる。
心臓の音が重なる。
自分の高鳴る鼓動と、彼の落ち着いた拍動とが、ゆるやかに溶け合ったとき。
心の奥が、小さく震える。
胸の中で芽生えていた、あたたかく柔らかなもの。
それがほどけるように、花開いていくのに気づく。
……ああ、わたし、エリオットのことが――
やっと形をなしたその想いは、いま、静かに名前を結んで。
彼のそばにいることが、こんなにも安らぎに満ちている理由をようやく知った。
「……ありがとう、エリオット」
小さな声、にじむ涙。
そのひとしずくは、夜の風にゆっくりと溶けていく。
エリオットは何も言わず、ただ寄り添っていた。それは、どんな言葉よりもあたたかくて、やさしくて。
マリエルは、彼の胸に添えた手に少しだけ力を込める。彼の胸元の小さな秘密には、気づかないふりをして。
それが誰かを想う証だとしても、いまは――いまだけは、名も知らぬひとの影に触れたくない。
ただ、このぬくもりに身を委ねていたかったから。