4 偽りの笑顔
「アイゼンベルク大公、ジークベルト・フォン・ベルカナス、ベルカナス王国を代表し、謹んでご挨拶申し上げます。賢明なる国王陛下、ならびに麗しき王女殿下に、深き敬意を表します」
礼を尽くして頭を垂れた男の声は、よく通るものの冷たい響きを含んでいた。彼の治めるアイゼンベルクは、高く険しい山々に囲まれた鉄の産地。その名に違わぬ冷厳さが、所作のひとつひとつに滲んでいる。
大公と目が合った。マリエルの肩に、かすかに力が入る。下を向きたくなる衝動を押しとどめ、彼女は静かに見返した。
すると、大公の視線が彼女の瞳に留まる。ほんの一瞬――けれど確かに。
冷たく研がれた刃のような印象は変わらない。それなのに、そのまなざしに感じたのは、どこか戸惑いにも、あるいは懐かしさにも似た陰り。
けれど、すぐに表情は整えられ、曇りは跡形もなくかき消えた。まるで、最初からなかったかのように。
……気のせいだったのだろうか。
その視線が外れた今も、胸の奥にわずかなざわめきが残った。
一方で、オルヴァンは柔らかく微笑み、軽く頷いて返礼する。
「久しいな、大公。道中に不便はなかっただろうか」
一瞬たりとも、警戒や緊張の色は見せない。その自然さに、マリエルは思う――これが、国の頂に立つ者の風格なのだ、と。
「陛下の御配慮に、深く感謝申し上げます。おかげさまで快適な旅路でございました。陛下とお会いするのは十五年前、中立地帯協定の席以来のこと……それ以降、こうして公式の場で言葉を交わす機会に恵まれなかったのは、まことに遺憾に存じます」
大公もにこやかに返すものの、その目は笑っていないように見えた。
「兄たる国王も、こたびの訪問を心待ちにしておりましたが、不本意ながら政務多忙により運ぶこと叶わず、代わって私が拝命仕りました」
大公は軽く後ろを振り返る。
「そして、我が甥ルートヴィンを貴国にお引き合わせする機会に恵まれましたこと、まこと光栄に存じます」
大公の言葉を合図にしたように、その隣に控えていた若い男が、一歩前へ出た。
ゆるやかに波打つ淡い栗色の髪が、シャンデリアの光に透けた。青いガラス玉のような目に、笑みが浮かぶ。
見事な仕立ての礼服に身を包み、所作も隙がない。完璧すぎるほどの「貴公子」の姿。
顔立ちは確かに整っている。でも、その微笑はどこか作り物めいていて。
「ベルカナス王国第二王子、ロイエンフェルト公爵、ルートヴィン・フォン・ベルカナスにございます。姫のお噂はかねがね伺っておりましたが……これほどにお美しいとは。月の女神の祝福に彩られた今宵、一曲賜れましたなら人生最大の光栄にございます。どうか、その御手を私に……」
まるで水が流れるように言葉が滑っていく。マリエルの胸に残る、微かな違和感。彼女は一瞬だけ、父を見上げる。
オルヴァンは穏やかな顔を崩さず、しかし目だけで断ってもよいと伝えてきた。けれど、王女としての立場を考えれば、選べる答えはひとつだけ。
マリエルは微笑む。
「もちろん、喜んで」
ルートヴィンに手を預け、マリエルはふたたび舞踏の輪へと踏み込んだ。
「姫……こうしてお手を取ることを許されるなど、これ以上の栄誉がありましょうか」
ルートヴィンは、まるで目に見えぬ糸を手繰るように、じわじわとマリエルとの距離を詰めてきていた。
はじめは、手の取り方がほんのわずかに強く。次に、腰へ添える手が滑らかになり――やがては、吐息が耳にかかる距離にまで。
マリエルの肌が粟立った。
「まあ……過分なお言葉ですわ」
笑みを崩さぬまま、彼女はわずかに身体を引く。でも、彼の腕がその距離を許さない。
ルートヴィンは、さらに追うように視線を絡めてくる。まるで蛇が獲物に巻きつくように。その目の奥には、焦がれる色とも、愛しさゆえの温もりとも違う、なにか底の見えない欲がにじんでいるようで。
「『王国の花』のお噂は耳にしておりましたが……こうして実際にその香りに触れてしまえば、どうして忘れることなどできましょう」
囁くような声に、次第にじっとりとした湿り気が帯びる。
花を愛でているのではない。そこにあるのは、まるでむしり取ろうとする前のような、静かな興奮。
「その花を手にする栄誉は、いったい誰に与えられるのでしょうか」
マリエルは応えない。けれど、それを恥じらいとでも勘違いしたかのように、ルートヴィンはさらに言葉を重ねる。
「……もし許されるのなら、この美しさを守るのは私でありたい」
彼の指が、マリエルの背にゆっくりと沈んでいく。コルセット越しにも伝わるその感触が、彼女の呼吸を止める。
「私は願わずにはいられません。アヴァランデの花が、私のもとで咲き続ける未来を……」
一滴一滴と、ねっとりとした毒を耳に垂らされるような囁き。それが皮膚の奥まで冷たく染み込んでくるようで、マリエルはひそかに震える。
すぐ近く、ルートヴィンがこちらを覗き込んでいる。
探るような、そして値踏みするような目が、まとわりつくように光っていた。
息が詰まる。胸が押しつぶされるようだった。
目に見えぬ霧が心を濁らせていくようで、ただ、逃げ出したい衝動が込み上げる。
今すぐ、この手を振り払いたい。
だが、それも叶わない。
マリエルは思考の波に飲まれていく。
――度が過ぎるようなら、はっきりと断って構わぬ。
オルヴァンの言葉が頭をよぎる。けれど、それだけではこの場を凌ぐには足りない。ここで彼を拒めば、ベルカナスはアヴァランデに侮られたと見なすかもしれない。公の場で、一方的に恥をかかせたとなれば、使節全体が沸き立つ可能性だってある。
王女として、社交の場を汚すわけにはいかない。
そう分かっているのに、どうしても耐えきれない。
彼の手が、ほんのわずかに腰を引き寄せた。思わず指先に力が入った。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
……どこまでが“社交”で、どこからが“侮辱”なのか。
誰にとっての"礼儀"で、誰にとっての"我慢"なのか。
答えを探そうとすればするほど、足元が崩れていくようで。
何が正しいのか、自分がどうしたいのか――何も、もう、わからない。
早く時が過ぎることだけを願う。
早く、この場から解放されることだけを。
息苦しさに揺れる視界の中、目が吸い寄せられるようにひとりの男性の姿を見つけた。
まっすぐに彼女を見つめている。まるで、マリエルの息苦しさを見抜いているかのように。
それは、エリオットだった。
今日は、護衛騎士の制服ではない。深い藍色の礼装に、肩には金の飾り紐。
いつもと変わらぬ端正な立ち姿、そしておだやかな眼差し。
なのに、不思議だった。
見ただけで、胸の奥にふわりと風が吹き込むような感覚。
張りつめていた糸が、ほんのわずかに緩む。
まるで、物語の中から抜け出してきた王子さまのようで。
でも、それ以上に、この場でただひとりマリエルの苦しさに気づいてくれた人のようで。
……ほんの一瞬だけ、息がしやすくなった気がした。
どうして、こんなふうに思うのだろう。
ただ見られていただけなのに。
ただ、それだけなのに。
その気持ちを断ち切るように、ひときわ華やかなドレスの女性が彼のそばに歩み寄る。花びらのようにひるがえる青紫の裾は、あの花を思わせた。
何か囁いたのだろうか。彼は顔をほころばせたように見えた。
――彼の、あんな表情……わたしは知らない。
胸が、強く締めつけられる。
小さな棘が、心の奥でひりつくように疼いた。
女性が髪に手をやり、困ったように笑う。エリオットは一歩近づき、迷いなく髪飾りに指先を触れた。礼儀正しい所作でありながら、親しげな距離。その近さが、鋭く胸を刺す。
女性の指先が、彼の胸元にそっと触れかけた、ように見えた。
あの場所には、彼の、あの……
思わず、目を逸らす。
すぐに女性は彼の腕を取り、笑いながら何かを言う。
ふたりは会場の奥へ消えていった。
――ブルーベルは、私も好きな花です。
あの日、彼が言った言葉が胸の奥でぽたりと落ちた。
重たく、深く。もう二度と届かない場所へ。
見知らぬ女性だった。
彼がそんなふうに誰かに近づくのを、見たことなんてなかった。
……あのひとが、彼の想うひとなのだろうか。
あんなふうに笑えるあのひとが、羨ましかった。
苦しくてたまらなかった。
笑って、軽やかに人に触れて、何も心を縛られずにいられるあのひとと、自分はあまりにも違う。
王女であるという理由で、自分を偽ることも、笑みを崩さないことも、全部我慢して当然だと思ってきた。
けれど――私は……それでも、王女なの?
嫌悪している相手に笑みを向け、触れられても耐え、断ることもできない。それを「国のため」と納得しようとしていることが、たまらなく惨めだった。
感情を殺すことしか知らない王女と、心のままに笑みを向けられる女性。マリエルには持ち得ないものを持っている彼女。
孤独と、胸の奥を締めつけるような劣等感が、言葉にならないまま渦を巻く。
目の前のルートヴィンさえも、彼女の心から消えて――
気づけば、曲が終わっていた。
ルートヴィンがまだ何か言っている。けれど、意味が頭に入ってこない。笑みを返すことさえ、もう難しくて。
ひとつ頭を下げると、マリエルはドレスの裾をそっと持ち上げて歩き出す。
どこか、空気のあるところへ。呼吸ができるところへ。
澱んだ水の中のような場所から逃げ出さなければ、押しつぶされてしまいそうで。
「ほら、あそこよ」
エリオットは女性に手を引かれ、会場の一角へと向かう。
「……相変わらず、義姉上は距離が近い」
「あら、あなたがそっけなさすぎるだけでしょ。エドマンド! 連れてきたわよ!」
そこには、兄が穏やかな笑顔で待っていた。
「ようやく会えたな、エリオット」
「はい。お久しぶりです、兄上」
エリオットが一礼すると、隣の女性――兄嫁のジュリアが、やれやれと言わんばかりに小さくため息をつく。
「もう、エリオットったら! さっきからやたらと視線が鋭かったけれど……いったい、誰のことをそんなに熱心に見ていたのかしらね?」
からかうように笑うジュリアに、エリオットはわずかに目をそらす。
「別に、特に誰というわけでは」
「ふうん? でも周りの令嬢たちが気の毒だったわよ。あなた、ずうっと一点を見つめてばかりで。みんなあなたに熱い視線を送っているのに、ぜんぜん気づいてあげないんだもの!」
「そうですか……こういう場には、あまり慣れていないせいかも知れませんね」
当たり障りのない返事に、ジュリアは「またごまかして」とでも言いたげに肩をすくめた。
「はは、さすがは護衛騎士、といったところかな」
エドマンドは悪戯っぽく笑う。
「だが、今日は招待客だろう。肩の力を抜いても、誰も咎めたりしないさ」
「……わかっています」
「まったく、おまえは変わらないな。守ろうとするものに、ひどく一途だ」
その言葉に、エリオットはわずかに顔を伏せる。
「何のことだか、わかりませんが」
「まあ、いいさ。だが――」
兄の声音が、わずかに低くなる。
「お前は何でも背負い込みすぎる。それが、たとえどうにもならないものだとしても、な」
苦笑を浮かべながらも、その眼差しには心配が滲んでいる。
「兄上……もう、その話は」
エリオットの声が静かに割って入る。視線はうつむいたまま。
「……ああ、悪かった。余計なことを言ったな」
エドマンドはわずかに肩をすくめ、場を収めようとする素振りでグラスを口に運ぶ。
何かに気づいたように、その視線が止まった。
「あちらは、王女殿下か?」
見やった先には、ドレスの裾を揺らしながら、誰にも気づかれぬよう静かに出ていくマリエルの姿。
「どうなさったんだろうな、あの表情は」
一拍遅れて、エリオットもその方向を振り返る。
「……失礼します」
短く言い残し、彼はマリエルを追って歩き出した。