3 ざわめきの中へ
一年前の春。
その日は、マリエルがはじめて自身の護衛騎士を選ぶ日だった。それは、正式に「王女」としての一歩を踏み出すことを意味している。
王宮の演習場は、春の陽射しに淡く照らされていた。
鋭い剣戟の音が響く。
けれどその響きには、どこか緊張の色が滲んでいた。
演習場を見下ろす観覧席に並ぶ王族たち。
マリエルも、王である父オルヴァンと、王太子である兄アドリアンの間に静かに腰掛けていた。
「何も、マリエル自らここまで来る必要はなかろうに」
隣で、オルヴァンが不満げにつぶやく。
「こんなむさ苦しい所で、娘に何かあっては取り返しがつかぬ。護衛など、儂がいくらでも選んでやるというのに……」
「何も起きませんよ、父上」
アドリアンが苦笑まじりに返す。
「マリエルも、もう17歳です。いつまでも子供扱いでどうするのですか。そろそろ、王族としての自覚を持たせなければ」
二人のやり取りの間で、マリエルは小さく笑った。それでも、視線は演習場から逸らさない。
彼らは命を預ける相手。しっかりと見極めなくては。
小さく息を吸い、指先に力を込めて、剣を交える騎士たちを見つめる。
まだ見慣れない顔ぶれの中で、ひときわ目を引く青年がいた。整った姿勢、無駄のない動き。遠くからでも、彼がほかの騎士とは違うことがはっきりと伝わってくる。
金属のぶつかり合う音が一段と高くなり、最初の対戦が始まった。
筋骨たくましい騎士が、力任せに剣を振るう。派手、でも粗い。
次に出てきたのは、技巧派の華麗な騎士。動きは鮮やかで目を惹くものの、どこか鋭さに欠ける気がした。
そして三番手。
マリエルの目に映ったのは、あの青年。
長身で引き締まった体躯は、その使い込まれた剣を見るに、日々の訓練の賜物だろう。
静かな雰囲気ながら、その足取りも構えも揺るぎない。
「ほう……」
それまで、肘をつき苦虫を噛み潰したような顔をして眺めていたオルヴァンが、はじめて姿勢を正す。
彼は、動かない。
動く必要さえ感じていないかのように。
相手が斬りかかる。
だがその刃は、触れそうで触れない。
わずかな移動、最小限の手首の返しでそれを受け流す。
敵の動きを封じる剣の運びは、まるで舞のよう――静かで、冷静で。
そして、美しかった。
「ふうん。なかなかいいね、彼」
アドリアンの声にも、彼への興味がにじむ。
「あれは……たしか、デヴェレルの次男だったかな。今年叙任されたばかりのはずだけど」
一手、また一手。
相手は苛立ち、焦り始める。動きが粗くなった、その瞬間。
彼が、はじめて動いた。
風が切り裂かれる音が響く。
気づけば、一歩。
けれど、その一歩ですべてが決まっていた。
相手の剣を跳ね上げ、迷いなく懐へ。
剣先が、咽喉元にぴたりと止まる。
すべてが完璧だった。
それはまるで、最初から勝敗など決まっていたかのように。
彼は、倒れ込んだ相手へ手を差し伸べる。
「立てますか」
低く、穏やかなその声に、マリエルの心がわずかに揺れた。
なぜだろうか、彼の顔に見覚えはない。名も知らないはずなのに、あの声と、差し出された手が、心のどこかを波立たせる。
気づけば、唇が動いていた。
「……あちらの騎士さまを、わたしの護衛に」
沈黙が、場を包む。
アドリアンは、マリエルの選択に納得したようにうなずいた。横では、オルヴァンが心底面白くなさそうな顔をしている。
剣を収めた騎士は、マリエルに向き直ると静かに膝をついた。そのまま、深々と頭を垂れ、彼女の言葉を待っている。
このかたが、私の護衛騎士――
胸の奥が、ふわりと熱を帯びる。
どうして、このひとだったのだろう。
でも、あの声を聞いた瞬間、心が決まっていた。理由なんて、わからない。ただ、その声に呼ばれた気がして。
不思議な感覚だった。けれど、それは決して悪いものではないと、マリエルにはわかった。
「……どうぞ、お顔をあげてください」
静かにそう告げると、騎士は顔を上げる。陽射しが、彼の整った顔を淡く照らす。
そして、その目が合った。
彼の静かな瞳。その奥に、ほんの一瞬、喜びのような色がかすめたような気がした。
それを見たマリエルの胸の奥に、また熱が灯る。まるで、ずっと探していたものに触れたような、そんな気がして。
マリエルは、浮き上がるような心を抑えつつ、問いかけた。
「はじめまして、騎士さま。どうぞ、お名前を教えてくださいませ」
その瞬間、彼の指先がわずかに震え、瞳が揺れる。
とても小さな仕草。けれど、マリエルの目は、それを見逃さなかった。
なぜ?と、心にかすかなざわめきが立つ。
けれど、騎士はすぐに指先を引き、きちんと拳を握りしめた。そして、まっすぐにマリエルを見て、静かに名乗る。低く、澄んだ声で。
「……エリオット・デヴェレル、謹んでご挨拶を申し上げます。ただ今より、この身すべてをもって殿下にお仕えいたします」
なのに、その名乗りのあとには、ほんのわずか、ほんのひと呼吸分のためらいがあった。
マリエルの胸に、ふたたびの違和感が広がる。でも、彼女だけの護衛騎士を前にした高揚感が、それを押し留めた。
「デヴェレルさま。これから、よろしくお願いいたします」
笑顔のマリエルに、彼はまた深く頭を下げる。どこまでも礼儀正しく、静かな仕草で。
「この上なき光栄に存じます。恐れながら……私のことは、どうぞ『エリオット』と」
ためらうように告げると、彼の手は胸元へと運ばれる。そこには、金色に輝くペンダント。
それにそっと触れる、彼の指先。
表情まではわからなかった。でも、その動きに込められた、まるで、何かを確かめるような――どこか守ろうとするような。
その動きに、胸を締めつけるような切なさがにじんでいた。
マリエルの部屋。揺れる燭台の炎が顔を照らす。
鏡の前で、ドレスの胸元にそっと手を当ててみた。
あの日触れた、彼の指先の記憶を探るかのように。
――その人からもらったペンダントを、いつも身に付けてるって……
真偽もわからないメイドのうわさ話。それでも、その言葉が棘のように心から抜けない。
まるで聖なるものにでも触れるような、エリオットの指先を思い出す。
あれが、誰かに贈られた……大切なもの?
ただの想像にすぎないのに、胸の奥がざわりと波立つ。胸にそっと指先を添えたまま、マリエルは深く息を吸いこんだ。
こんなふうに、あの日の彼を、そしてあのペンダントを思い出すたび、胸に走る鈍い痛み。
このことに、いったいどんな意味があるのだろう。
ほう、というアニスのため息に、マリエルの意識が引き上げられる。
「姫さま、今日も完璧です……! さすがは『王国の花』でいらっしゃいますわ! 今夜はきっと、殿方たちの心をすべてさらってしまうに違いありません!」
アニスはブラシをそっと卓上に戻すと、目を輝かせながら手を胸元で組んだ。まるで憧れの物語のヒロインを見るように、うっとりとマリエルを見つめる。
「そのお美しさには、女神さまも嫉妬してしまいます!」
満足げなその頬は、ほんのりと赤らんでいて。その熱のこもった視線に、マリエルは思わず吹き出してしまう。
「ふふ、きっとアニスの腕がいいからよ」
鏡越しに目が合うと、アニスは肩をすくめて照れたように笑った。その無邪気な笑顔に、マリエルもつられて微笑む。
けれど、すぐに鏡の中の自身と目を合わせ、マリエルは気を引き締めた。
今夜は、周辺国の要人たちを招いての夜会がある。王女として、完璧な振る舞いが求められる日だ。今は、余計なことを考えるべきではない。
体の線を美しく引き立てる、金糸で縁取られた真紅のベルベット。そのドレスの裾をさっと捌くと、マリエルは立ち上がった。
そこは、まばゆいばかりの光の海だった。
天井から吊るされた真鍮のシャンデリアが、何十本もの蝋燭を灯し、黄金の光を広間に揺らめかせている。
ここは、アヴァランデ王宮のグレート・ホール。
今夜は、壁際の燭台も、王家の紋章を染め抜いたタペストリーも、緋色の絨毯さえも、どこか張り詰めた輝きを放っていた。
人々は思い思いに着飾り、扇の陰で笑みを交わしながら言葉を重ねている。そのざわめきは、漂う香油や花の香りと溶け合い、衣擦れの音に包まれて、広間を少しずつ熱気で満たしていく。
その光と熱の広間を隔てる、重厚な扉の向こうで、マリエルはただ前を見つめていた。
やがて、楽師たちが調律を始める。やわらかなリュートの音が空気を震わせると、マリエルの胸にも静かに緊張の波が広がっていった。
まもなく、扉が開く。
マリエルは、高鳴る鼓動を押しとどめるように、そっと息を吸い込んだ。
今夜は、西の国ベルカナスの要人たちが正式に招かれている夜会。
かつて武力で領土を広げ、アヴァランデとも長く刃を交えてきた国。けれど、今の国王は平和外交を掲げる穏健派だ。
だからこそ、この夜会は特別だった。
そんな彼らが、長い沈黙を破ってこの夜会に応じた。それは、氷解の兆しか、あるいは駆け引きの幕開けか。
この一挙手一投足が、ベルカナスの心象を左右するかもしれない。マリエルにとって、その重みはやはり怖かった。緊張で、少しだけ冷たくなった手に力が入る。
隣に立つオルヴァンは、何も言わずにその手を軽く、そして優しく叩いた。大丈夫だと、まるで言葉の代わりのように。隣を見上げれば、そこには王の顔ではない、父の顔が微笑んでいる。マリエルも微笑むと、余計な力が抜けていくようで。
アヴァランデの王女として。今夜、その名に恥じぬように。
ふう、とひとつ大きく息を吐き、背筋を伸ばす。コルセットが、胸元で小さく音を立てた。その心も締め直すかのように。
音楽が流れはじめ、ゆっくりと扉が開いていく。
蝋燭の光が流れ込み、オルヴァンが一歩踏み出す。マリエルも、その腕にそっと寄り添いながら進み出た。
視界の端で、人々の表情が変わっていった。わずかに目を見開く者、口を閉じる気配、ひそやかな吐息。そのすべてが視線となって、彼女に注がれていく。
金糸を散らしたドレスが、蝋燭の光を受けて深い輝きを放つ。絹の髪はやわらかな波を描き、青紫の瞳がまっすぐ前を見つめている。
――王国の花だ。
誰かがつぶやいた。
ざわめきが一拍遅れて凪ぎ、人々の息づかいまでもが静かに彼女を讃えていた。
迷いがないわけではない。けれど、歩みを止めることはできない。アヴァランデの王女として一歩を踏みしめる。誇りを胸に、ひとつひとつの足取りを。
まだ、若さゆえのおぼつかなさは確かにある。けれどマリエルのその姿は、冠よりもまばゆく、静かに光を放って人々の目に映った。
ひときわ大きな拍手が会場を満たすなか、オルヴァンはマリエルへと向き直る。彼は少し大げさにも見えるくらい、丁寧に礼をした。
「麗しきマリエル姫。どうかこの儂に、ともに踊る栄誉をお与え願えますかな?」
そう言って差し出された手ににじむのは、堂々たる威厳、そして父としての柔らかな愛情。マリエルは、思わずくすりと笑って礼を返し、その手を取る。
「もちろんですわ、陛下。光栄に存じます」
王と王女は、中央の舞踏の輪の中心へと歩み出る。楽師たちが新たな旋律を奏ではじめると、ふたりの最初の一歩が音楽と呼吸をなぞるようにぴたりと揃えられた。絹の靴が大理石の床をかすかに鳴らす。マリエルのドレスがなめらかに揺れ、金糸の装飾が光を受けてきらめく。
そのきらめきに目を細め、オルヴァンの口元がやわらいだ。
「まるで、あのときとは別人のようだな」
「あのとき?」
羽のようにふわりと回りながら、マリエルが問い返す。
「最初の舞踏会のことだ。儂の足を踏んで、涙目になっていた」
うっ、と一瞬言葉に詰まるマリエル。頬に微かに赤みが差し、視線を逸らす。
「だって、緊張したんですもの。みんなが見てたし……それにあのドレス、本当に重かったの!」
少し早口になる娘の言い訳に、オルヴァンは喉の奥で笑いを堪えた。
「アドリアンも散々練習に付き合わされたのにと、ため息をついていたな」
ふたりの目が合うと、自然と笑みがこぼれる。父と娘の踊りは、場内に静かな温もりを広げていく。
「だが、あのころよりもずっと重いものを、これからおまえは背負うのだろうか……」
唐突に落とされた言葉は、しかし優しい。
その声音には、父親としての想いと、王としての責任がまじりあっている。オルヴァンの手が、娘の指を少しだけ強く包むと、彼女もまたその手を受け止めた。
「今宵、ベルカナスの使節も来ている。礼を欠く相手には、笑みでかわすのも一策だが、度が過ぎるようならはっきりと断って構わぬ」
マリエルは静かにうなずく。緊張が胸の奥に一瞬浮かぶ。けれど、それはすぐに背筋を伸ばす芯となる。
「……おまえは、アヴァランデの意志として、堂々と振る舞えばそれでいい」
彼女の瞳を見つめて語る王の言葉に、凛とした面持ちでさらにうなずいた。
ふたりの足取りは、音楽に導かれながら、静かに終盤へと向かっていく。
「願わくば、おまえには政治の駒にだけはなってほしくないが……そうもいかぬのが、王族というものかもしれぬな」
マリエルはふと、父の瞳の奥に、どこか遠いものがよぎるのを見た気がした。
――お母さまのことを、思い出しているのかもしれない。
兄姉の誰よりも母に似ていると、昔からよく言われてきた。声の調子や、笑ったときの目元までそっくりだと。
父は、そんな自分の中に、母の面影を見てくれているのだろうか。
「それでも、もし選べるのなら……ただ幸せに笑っていてくれたらと思う」
目を細めたオルヴァンは、ふたたび父の顔をのぞかせる。
「お父さま……」
一国の王の父としての願いに、マリエルの声がかすかに揺れる。でも、涙は見せずに笑顔のまま。
旋律が静かに高まり、ふたりの踊りはゆるやかに終わりを迎える。
舞踏の輪を取り巻く観客の影の中で――ひとつの視線が、空気を刺した。鋭く、計るようなまなざしが、じっと彼女の背をとらえる。
やがて湧き起こる拍手が、その気配をかき消していった。